印刷博物館

「博物館に行かない?」そう山里千里に誘われたのは、7月も半ばに差し掛かった頃の事だった。


「博物館ですか」

「印刷博物館。印刷物の博物館だって」


「チケットを2枚貰ったんだけど、一緒に行く相手が居なくてね」と山里千里は僕に語った。

 ふぅ、とわざとらしげに息をつきながら、指と指の間に挟んだ2枚のチケットを僕の眼前にちらつかせてくる。


 断る理由は特に思いつかなかった。むしろ、少し興味がわいた。印刷物の博物館だなんて、そんな一定層の人間しか喜ばなそうなマイナーな博物館を作る人間の気が知れなかった。けど人間というのは不思議な生き物で、気が知れないと思うものの事ほど、なぜか興味を惹かれてしまう場合がある。

「いいですよ」と僕は山里千里と博物館に行く事を了承した。


 そうしてその週の日曜日に、僕は山里千里と共に印刷博物館へ向かう事になった。印刷博物館は都内にあるらしく、僕らは大学最寄りの駅で待ち合わせをする事で話をまとめた。


 当日、待ち合わせ場所に向かうと、山里千里がすでに先に来ていた。僕は山里千里の姿を見て驚いた。


 髪が結われていたのだ。長い艷やかな髪が高い位置にまで持ち上げられ、一括にされていた。いわゆるポニーテールというやつだった。


 さらに山里千里はキャップ帽を深く被っていた。前面が白く、それ以外の後部やつばの部分は黒いキャップ帽だった。後ろのサイズを調整する部分から、彼女の長いポニーテール、本当に馬の尻尾のような姿でたれ下がっていた。


「髪、結んだんですか」

「暑くなってきたからね」

「なるほど」


「似合いますね」と正直に思った事を告げた。

 いつもの髪をおろしているスタイルが似合わないと言うわけではないが、いつもの髪型よりもこっちの方がいいと思った。押しが強くお喋りが過ぎるきらいがある彼女には、ポニーテールのような涼やかで、活発的なスポーツ女子が好みそうな髪型の方が似合うような気がした。


 山里千里が目を瞬かせた。物珍しいものでも見たかのように僕を見てくる。「どうかしましたか」と訊ねてみたが、「なんでもない」と顔をそらされてしまった。


 なぜ顔をそらされたのかわからなくて首を傾げる。だがそれを訊くよりも先に、電車がホームにやってきた。


 県内しか行き来しないローカル線の電車に乗り、途中の駅で都内にまで行ける路線に乗り換えた。休日という事もあってか車内は混み合っており、僕らはつり革につかまり立つ事になった。


 公共施設な事もあってか、山里千里は僕の隣に立ちながらも始終無言だった。こうまで静かな山里千里というのも珍しく、僕は窓を見るふりをしながら横目で山里千里を見続けた。片手でつり革を掴みながら、もう片手で暇を持て余すかのように、僕に「似合う」と言われた長いポニーテールの毛先をいじって遊んでいる彼女の横顔が、僕の視界の中に飛び込んでくる。


 と同時に、ツン、と鼻にくる香りが僕の鼻孔に届く。この匂いにもなんだかもう慣れたな、とそんな事をぼんやりと考えていると、ふいに僕の脳裏に先日の山里千里の言葉がよみがえってきた。


「友達になりたい」と。この横顔が述べてきたあの光景が――、よみがえる。


 結局あの日、僕が山里千里にその言葉の真意を問う事はなかった。以降、僕らの間にその日の話題があがるような事はなく、僕と友達になりたい、と述べた山里千里の真意は未だに謎のままだった。


 僕と友達になりたい。だから、僕に話しかける。その行動は確かに筋が通っている。


 けれど、そうなると新たな疑問が生まれる。どうして彼女は僕と友達になりたいのか。どうして友達になろうと思ったのか、という謎だ。


 僕の何が彼女の琴線に触れたのかがわからなかった。こんな取り柄のない人間のどこに、彼女は友達になりたい理由を見出したのだろう。


 でもそれを問うのは、なぜだかできなかった。

 それを問うたら最後、僕と彼女のこの時間は終わりを告げてしまう気がした。なぜそう思うのかはわからないが、それ以前にそうなる事を惜しむぐらいに自分が彼女と過ごす時間を嫌っていない事に驚いた。


 彼女の存在に戸惑っていた筈の僕は一体どこに行ったのだろうか。ツン、と再び香ってきた香りを嗅ぎながら、僕は山里千里の横顔を眺め続けた。


 それから数10分もかからずに、僕達は目的の駅に到着する事となった。

 印刷博物館は、駅から徒歩10分程のところにあった。都内とは言っても県境に近い場所だからか、周囲は静かで思ったよりも混み合った印象はない街だった。人よりも建物が多い。名前のわからない雑居ビルばかりが多く混み合った道が続く。道の横を川が一本流れ、その流れに寄り添うように川の上には首都高速が通っていた。スピードのある車が走っていく音が、頭上の遥か高いところから聞こえる。


 そんな道を山里千里の持つスマホの地図アプリを頼りに、僕らは2人、横並びで歩き続け、印刷博物館に辿り着く事となった。


 博物館なんて言うから、堅苦しく仰々しい雰囲気のある建物を想像していたのだが、僕らを出迎えたのは、小洒落た雰囲気の建物だった。

 ガラス張りの高層ビルに付属するように作られた、2階建てと思しき大きな施設。博物館というより、演劇の観覧を行えるミュージアムやホールだと言われた方がしっくりくる外装だった。段の低い階段が続く入り口の横には『印刷博物館』という金字を背負った丸い玉のようなオブジェクトが置かれていた。


 山里千里が来た記念だというように、オブジェクトの写真を撮った。「ノートくん、前に立って何かポーズをとってよ」という彼女の言葉を無視して、僕は階段を登り始めた。


 ガラス張りの入り口から中に入り、受付に向かう。僕の後からやってきた山里千里が、受付に居た女性職員にチケットを出した。

「活版印刷体験版付きの一般2枚ですね」と女性職員が、チケットの種類と僕らを確認するように、こちらに視線を投げてきた。そうして納得したようにチケットに目を戻した後、チケット下部に今日の日付が書かれた赤いスタンプを押した。


「展示室は地下1階となっています。地下へ降りる際は奥の階段をご利用ください」


「こちら、館内案内図とイベントのパンフレットです」言いながら、女性職員が縦長にたたまれた地図とA4サイズのパンフレット、そして日付スタンプの押されたチケットを僕らに渡してきた。僕と山里千里はそれを各自で受け取ると、職員に案内された通りに地下にあるという展示室へ向かった。


 地下に降りた僕らを最初に出迎えたのは、たくさんの石版達だった。緩やかなカーブのついた通路の壁にかざられた石版達。その下にはガラスケースがあり、小さな銅像のようなもの達が飾られていた。


 人や動物と思われる形のものから、かろうじて何かを模そうとしていることだけがわかる形のものまで、様々な銅像があった。それは石版達の方も同じで、まるでどこかの壁から一部だけ掘り取られてきたようなものから、綺麗な四角い形をしたものまで千差万別の石版達が飾られている。

 またそれぞれの石版には、その形と同じぐらいに様々で形容しづらい絵や何かの文様らしきものも書かれていた。だがそれらがなんであるかを判別する能力は僕にはなく、ただ黙って眺め続ける事しかできなかった。


「ビジュアル・コミュニケーションだって」と、山里千里が館内案内図を広げながら言った。


「ビジュアル・コミュニケーション」

「図とか絵とか、そういう視覚を通して伝達するコミュニケーション方法らしいよ。有史以来の人類間で行われたビジュアル・コミュニケーションのアーカイブだってさ」


「へぇ」と山里千里の説明に僕は頷き返した。しかし、今回ばかりはいつものようなただの相槌ではなく、感心からの返事だった。なぜなら、コミュニケーションというものは、言葉を交わして行うものだとばかり思っていたからだ。


 コミュニケーション――。他者との意思疎通、伝達を行う事を意味する言葉。


 自分の考えや思いを相手にわかって貰うには、言葉で伝えあう他ない。それが上手くできない人間は、自然と周囲から省かれる。自らの意思を言葉に乗せられない人間は、何を考えているかわからないからだ。

 理解ができないものは気持ちが悪い。だから省く。自然の摂理である。


 けど、考えてみればこの世に言葉が生まれたのは、僕ら人間が生まれてからの事の筈だ。言葉が完成するまではそれ以外の方法で、僕らは思いを伝えあっていた。赤ん坊だって言葉を介すようになるまでは、それ以外の方法で自分の思いを伝えようとするではないか。


 コミュニケーションにとって本当に必要なものは、もしかしたら言葉ではなく、それを伝えようとする人間の意思、行動そのものにあるのかもしれない。そんな事を考えながら僕は山里千里と共にビジュアル・コミュニケーションで彩られた通路を歩いた。

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