解2「唯一無二の居場所」

 ガチャリ。


「ただいまー」


 広い空間に声が広がる。


「おかーりー」


 舌っ足らずの挨拶。


「おかえり!」


 明瞭な挨拶。


「……」


 二人分の声が、一つは伸びやかに、一つはきちんと響いた。けれどももう一つ聞こえるはずの声は届いてこなかった。少なくとも僕の耳はキャッチできなかった。


「こらー海里かいり、帰った時の挨拶はしっかりしろっていつも言ってるし、お母さんにも言われてるっしょー?」


「……かえり」


 かろううじて聞こえた声は、絞り出すかのようだった。その様子には胸が締まる。だって、そんな状態に海里を追いやっているのは他でもない僕なのだから。

 中学三年生、受験を控えるこの年に僕のせいで余計な心労をかけてしまって申し訳ない気持ちはある。ある、けど、僕にとってこれは確実に「余計なこと」ではなくて、だから、ごめんどうしようもしてあげられない。


「海里、これだけは譲れないんだ、ごめん」


 弟の息が詰まりそうで、見ている僕の方も辛くなる。苦しめている自覚はあるのだが、僕もまだどうしようもないんだ。ごめん、と心の中で繰り返すことしかできない。


「ねえねえ!海里が今日も姉ちゃんの名前呼んでたー!」


「えっ」


 唐突に末っ子の芽央めおが叫んだ。まだ歳の芽央には場の空気を読む能力がやや欠如している。勿論、生まれながらの性分という側面が大きいんだろうが。


「芽央っ、お前何言ってんだよ!」


 反射的に言い返す海里から、大きな動揺が見て取れた。心がチリチリと焦がれて痛い。でも、自業自得過ぎて良心の気が済むまで焦がされるしかない。


「海里」


 僕の声に勢い良く振り返った海里の瞳は、炎を帯びたようにゆらゆら揺れて、必死にこちらを睨み返していた。言葉を発しようと唇を震わせるが、やがて固く引き結ぶび、眉を寄せて、結局最後には何も言わないように全身に力を込めた。握り拳の中では手の平に爪が食い込んでいるのだろう。僕は慎重に言葉を選んだ。


「海里」


 もう何も聞きたくないというように海里は目を伏せた。僕を批難するようなその空気に、紡ぎたかったはずの言葉が消滅していった。


「ごめん、何でもない」


 力なく、僕はそう言った。声は半分消えかかった。


(ああ、今日は「駄目な日」だ。しばらく調子が良かったから、こんな空気は出なくなったと思ったのにな)


「俺」


 不意に海里が口を開いた。見ると、顔はまだ俯いていた。


「俺、大丈夫だから。何も、気にしてくれなくて、いいから」


 言うと同時に、彼は二階へ駆け上がっていってしまった。バタン、と勢いよくドアが閉まる音、海里がドアを閉めた音。僕は溜息を吐く。


(本当に大丈夫な人は、そういう主張をしないんだよ)


 気付くと家の中は静まり返っていた。小さな弟二人は、いつからか黙っていたのだろう。どんな気持ちで僕と海里の一連のやりとりを見ていたのだろう。本当に僕は情けない長子ちょうしだ。


(僕の周りはいつも静かだ)


 いつからそうなった?自分ではもうわからない。


空賀くうが、芽央」


 二人の名前を呼ぶ。


「「はいっ!!」」


 二人は背筋を伸ばして敬礼した。とても可愛らしその姿に、幼い海里が重なった。首を振ってそれを打ち消し、二人に向き直る。


「海里、二人と遊んでる?」


 ずっと気になっていたことだった。海里が、家族の中で私以外とまで離れていこうとしていないか。孤立しようとしていないか。

 二人は顔を見合わせ、僕の心配を払うような元気さで答えてくれた。


「あったりまえだろ!なあ芽央!」


「うんっ!」


 お兄ちゃんから話題を振られて、芽央は嬉しそうにこっくり頷いた。目がキラキラだった。


「今日はねぇ、空賀と海里と七夕ごっこむごっ……」


(え?)


 芽央が言い終わる前に、芽央の口より少し大きい手がそれを覆った。空賀だった。


「ばかっ!お前って奴は!」


 空賀が芽央を叱りつける。僕だけが置いてけぼりにされている。


(七夕ごっこ?)


 って何だ。疑問は解けないが、先に弟の奇行を止めねばならないと気付く。芽央がじたばたともがいていたのだ。小さなお兄ちゃんは、まだ加減や程度というものがわからないらしい。


「こ、こら空賀っ、やめっ!手ぇどけて!」


 僕が叫ぶと、ハッとしたように空賀の手が芽央の口から離れた。


「ぷっはあ!」


 ようやく息を吐き出すと、芽央は後ろにとすん、と尻餅をついた。ふう〜と言って胸を撫で下ろす仕草をしているが、兄に対して文句は言わない。芽央の無事な姿に安心して、空賀に視線を戻す。


「どうしたの、急に」


「だって」


 言い訳の定番フレーズも、この年の子だとまだ可愛い。

 僕が小さく溜息を吐くと、空賀の肩が小さく跳ねた。怒られると思っているのだろう。大人の溜息は自分が思っている以上に子供を不安にさせ、時にざっくり傷付けるものだと思い出した。反省しながら開口する。


「わかった、もう理由は聞かないから。叫んじゃってごめんね空賀。けどさ、口塞いじゃあ駄目でしょ?芽央は空賀より何歳年下?」


「っと、二歳」


 指折り空賀は数える。


(じゅ、十引く八を指で数えるって)


 弟の算数能力に少々不安になりながらも続ける。え、小学二年生だとこんなもんだろうか。まぁきっと杞憂だと気を取り直して


「そのお兄ちゃんのおっきな手で、芽央の口を全部塞いだらどうなるか、空賀ならわかるよね?」


「く、苦しい」


 空賀が小さく、呟く。すごくしょんぼりしている。怒られたからか、それとも自分の失態に落ち込んでいるのは定かではないが、優しくて利口な子だ。何か事情があったことは明確だった。


「もうしちゃ駄目だよ?」


 僕は空賀の頭をぽんぽんと軽く叩いてあげた。


「ねえねえ!」


 突然、芽央が叫んだ。予想外の出来事に僕は肩を跳ね上げ、振り上げた拳を勢い良く靴棚に激突させてしまった。


「いっ!」


 作用・反作用の法則によって僕は靴棚から応酬を食らうこととなってしまった。患部を押さえて瞬時にその場にうずくまる。格好悪い涙目には威厳の欠片もないが、今は許してほしい。


(くっ、「作用」の方はどこ行ったんだよぅ)


 そう思うぐらいには、微動だにしない靴棚が恨めしかった。


「あー……大丈夫?」


 空賀が心配そうに寄ってきてくれた。六歳児に心配されるというのも情けなかったが、ここは甘んじて甘えさせてもらうことにした。芽央はキョトンとしていた。それなりに騒音が響いたはずなのに。やはりかなり重度の天然なのかもしれない。その証拠に、芽央は構わず自分の主張を続けていく。


「今のはめがわるぅーの!くーがはわるくないのー!」


 一瞬「今のは芽央が悪い」というのが何を指すのかわからなかったが、キョトンとしていたことから、「兄弟が手をぶつけたのは芽央のせい」ではなく「空賀が芽央の口を塞いだのは芽央のせい」という意図だと思い至る。どこまでマイペースなんだ。兄弟が今しがた大きな音と共に負傷したというのに。

 でも、一つ訂正したい箇所はあった。


「芽央だって、悪くないんだよ」


 最大限年長者の優しさを振る舞ったつもりだったが、次の瞬間小さい子供の小宇宙な脳内を突きつけられた。


「七夕ごっこはひみちゅって言われたのに守らなかたからー……」


(はい?)


 ん?ごめん待って、僕に少し時間を頂戴。あー、七夕ごっこね、七夕。うん、まだ五月半ばなんだけどなんか願い事でもあったのかな?って、違う!


「芽央は何の話をしてるの?」


「う?だって、めおが七夕ごっこのこと言っちゃたからおこてるんでしょ?」


 どうやら会話はそもそも噛み合っていなかったようだ。そういえば、芽央の口を塞いだ空賀を注意している時も、芽央はやけに静かだったと思い出す。もしかしなくても、空賀と僕の会話をまるっと聞いていなかったのか。まじか、まじですか、いや当の本人は本気まじなんだろうけど。


(さてと)


 芽央のど天然ぶりが発覚したところで、僕は本題に戻ることにした。


「芽央、七夕ごっこって何?秘密にしなさいって言われたの?」


「うん!……あっ!」


 うっかり正直に答えてしまったことに気付いて芽央は口を両手で覆うが、時すでに遅い。


「空賀」


 俯く空賀の頭頂部を見下ろす。しゃがんで顔を覗き込むと、一瞬目が合った。その瞳にはぷっくらと水が浮かんでいた。ごめん、膨らんだほっぺも相まって可愛いです。


「何かあった?」


 可能な限り優しく聞いた。口角を意識的に少し上げたりなんかもしてみた。空賀は息を飲み込み、必死に泣くのを堪えていた。でも、耐えかねたのか、嗚咽と共に白状し始めた。


「おっ、おねっ、お願いごっ、と……したんだ、よぅ」


「そっかそっか、どんなお願いしたの?」


「それは」


 聞きたいことは色々あったが、とりあえず全体像が知りたかった。小さな身体のこの少年は、胸の中に何を仕舞っているのだろう。こんなに、溢れてしまうまで、何を溜め込んでいるのだろう。兄弟なのにどうにも出来ずにここまで来てしまった自分がひどく情けなかった。

 空賀がそのまま口籠ったので、何かあるのはこの部分なのだと確信した。


「まぁ、いいよ。願い事は知られたくないものだよね。ごめんね」


 そう、それは容易に納得出来るのだが、僕が気になっているのは、どうして願掛けそれ自体を隠そうとするのか、ということだ。


「たっだいまぁー!」


 明るい声が静けさを裂いた。それは、帰宅してきた母のものだった。


「あ、お母さん」


「まぁまぁ、私の可愛い子供達じゃない!玄関でママをお出迎えかしら?って、あらら」


 お母さんの視線が下がる。


「空賀、泣いてるの?どうしたのみら……」


「あっ、あのっ!なんでもないんだっ!」


 僕はお母さんの言葉を慌てて破った。空賀も、まだまだ丸っこい頭をコクコクと縦に振ってくれた。


「ちょ、ちょっとね!」


「ふーん?」


 お母さんが猜疑心さいぎしんから目を細めている。そして、切り札だと言わんばかりに最年少の方を向く。しまった、ガードが甘かった。流石母は強しだ。


「芽央、何があったの」


「っだぁー!」


 僕は咄嗟に叫んでいた。


「本当に!ほんっとうに何も!なんでもないから!」


「芽央」


 僕の必死の守備と母親からの冷ややかな圧力プレッシャーの中で芽央は遂に判断を下した。


「秘密なのー!」


(芽央、ほんっとうにありがとうございますぅー!)


 同時に、その台詞は本来なら僕のはじめの質問の時に言うべきだったんだろうけど、とも思った。


「そう。もう、みんな揃って酷いわぁー」


 お母さんは大袈裟にしょぼくれたが、諦めてくれたようだ。僕の方を少しだけ鋭く睨んでるから、きっとこの後大変だろうけど。


「さぁさぁ、じゃあちびっ子二人は台所でママのお手伝い!キッチンで待機よ、ゴー!」


 隊長が指示とともにキッチンの方を指す。


「ラジャー!!」


 隊長は絶対らしく、元気な一つ返事で弟二人はタカタカと駆けて行った。やはり、母は以下略。

 そして玄関は静まり返った。


「さて」


 そう言うと、お母さんは口に手を添えてこちらを振り返った。最年長の僕でも、未だお母さんの性質は掴めない。あ、変人だってことは掴んでいるけれど。掴めていないから、これから何が口から飛び出すか全くもってわからない、読めない。


「何があったのかしら?私、さっぱりなんだけど」


「いや、特になにもない、よ?」


「嘘。海里もいないし。部屋?」


「う、うん」


「まぁいいわ。ううん、良くはないんだけど、私はただ見守っててあげる。あなたが本当に助けてほしいときは呼んでちょうだい」


「あり、が、と」


 お母様は全てお見通しらしいことは、ずっと気が付いていた。


「弟たちと上手くやってあげてね?未来」


「う……、ん」


 久し振りの響きに、反応は過敏になってしまう。


「うん、わかってるよ」


 僕は今、甘えている。周りの人たちに、全体重を預けていると言っても過言ではない。何か気付いてほしい、察してほしい、気遣ってほしい、でも、触れてほしくない。そんな矛盾を抱えて誰にも何も言えない。

 僕は僕だ。そのことを忘れず一本芯を持っていれば大丈夫だと、そう言い聞かせてきたけれど不安は拭えなくて、やっぱり何度でも見失いかける。


「さっ、芽央と空賀が待ってるわね。海里ー!あんたはお手伝いしないのー?」


 僕は驚いてお母さんの顔を凝視する。この状況で海里に声をかけられるものなのだろうか。まぁ、お母さんはさっきまでの騒動に全然関係ないしな。僕が帰ってきたときの海里の状態も、見てないしね。


「お母さん、海里は今日駄目だって……」


「今行くー!」


(えぇっ!?)


 二階からは、ぶっきら棒だが確かに返事が返ってきた。


「ふっふっふ、ママの言うことは絶対なのよ」


 語尾にハートを付けているあたり、さながら魔女だ。顔一面の笑みは不気味としか言いようがないが、そんなこと言ったらぐつぐつの鍋に放り込まれる。


「さ、あんたも着替えてきなさい。今日の手伝いは要らないから」


「えっ、でも」


「今日はいい。今の状態のあんたで、料理中失敗されても困る」


「それもそうだよね、ごめん」


「で、夕飯にはちゃんと出てくるのよ。家族団欒の場には強制参加」


「そうだったね」


 そういえばそんな家訓(母作)もあった。今の今まですっかり忘れていた。


「制服もきちんとね。男の子だって皺くちゃは駄目なんだから、ね?」


「うん」


 小さい返事と共に僕も二階の部屋の向かった。途中、海里の部屋の前を通り過ぎたが、そのドアは微動だにしなかった。固く、閉ざされている重い扉のように思えたが、それは僕が自分の部屋に入って着替え始めると同時に軽快に開いたらしかった。海里が軽い足取りで出て行ったのがわかった。


(ちょっと、凹むなぁ)


 あからさまに避けられていると痛感する。そんな状況を受け入れることは、僕にとってあまり簡単ではないみたいだった。


(まったく、露骨だなぁ。中三になってまでそんな露骨にする?もう、ガキンチョなんだから)


 そんなに僕のことが嫌いなら、少しの優しさだって残さないでほしい。余計辛くなるから。もしそれすらも計算の内だっていうなら、それは、天才だって素直に褒めたいぐらいだ。だって効果は抜群だ。

 僕が少し待ってからリビングに降りると、いつ帰って来たのかお父さんもいて、みんな席に着き始めてた。お母さんが食事を運んで来る。


「いったっだっきまーす!」


 僕が不安だった夕食は、いつも通りの明るい空気で進行した。海里もお父さんと話していて、僕は心底ホッとしたんだ。海里だってきっと、この空間を壊したくないんだ。わかるよ。僕も同じだ。幸せなこの家で僕たちは少し肩身が狭いよね。

 僕らは互いの立ち位置をお互いよくわかってる。そうでなければ今ここに僕も海里もいないと思う。

 みんなのことが、大好きなんだ。空賀も、芽央も、お母さんもお父さんも、勿論海里も。全員僕の大好きで大切な、世界でたった一つでオンリーワンで唯一の家族なんだ。だから、守りたい。ずっとこのままの形で保っていきたい。僕という形が少し変わったせいで、何かが崩れてほしくない。

 ねぇ、海里もこの家でそんな気持ちで過ごしてるのかな。

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未来の行方(仮題) 雪猫なえ @Hosiyukinyannko

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