第17話
この街の冬場の気温が地元よりも五度近く高いことを連日天気予報を見続けて気が付いた。それなのに十一月の風がこんなにも冷たいと感じるのはなぜだろう。気温が関係ないのであれば、毎日頬を掠める黎明の風が、そう思わせるだろうか。
夕刊配達が終わりいつものように病院に向かおうとしたとき、晴海さんから着信が入った。
『明希ちゃん、お疲れ様。そろそろ配達終わるころかなって思って』
「はい、ついさっき終わったところです。今日もこれから行っていいですか?」
『もちろんだよ。いつもありがとう。ちょうど今日、明希ちゃんに話したいこともあるし』
「何ですか?」
『直接、会ったときに話すね』
気を付けて来てね、と電話が切れる。住宅街の高台を下り病院に向かってバイクを走らせている間、ずっと晴海さんの言葉が気になって仕方なかった。大通りに出てから速度を上げる。どんな話をされるのか全く見当もつかないけれど、こういうときはどうしても良くない話を想像してしまう。病院が見えてきた途端にアクセルグリップを握る手を緩めたい衝動に駆られる。晴海さんの話を聞きたいのに聞きたくない、そんな思いのまま病院の駐輪場に着いた。面会受付を済ませ、早足で病室に向かう。ドアを開けるとベッドの上の晴海さんがこちらを見てぱっと笑みを浮かべた。
「お疲れ様。早かったね」
「晴海さんの話が気になって」
ああそっか、という声が何とも呑気で、力が抜ける。
「ごめん、変に心配させちゃったね。話っていうのは、私じゃなくて伊月ちゃんのことなんだけど」
晴海さんの口からふいに出たその名前。驚きとともにほんの少しの高揚感、それからすぐに胸が締めつけられる。彼女の名前を聞くのは久し振りだった。
「実は伊月ちゃんとは前から連絡を取り合っててさ。私が入院してからはやりとりは減っていたんだけど、ある程度落ち着いたからついこの間また連絡したんだ。そうしたら今日、伊月ちゃんも来てくれるって」
伊月ちゃんがここに来る。遠くに行ってしまったと思っていた彼女が。最後に話した日の後ろ姿を思い出して、動悸に似た息苦しさが込み上げる。
「今の明希ちゃんなら、ちゃんと冷静に話せるんじゃないかな」
このままではいけない、話さなければいけないと、ずっと思っていた。ゆっくりと深呼吸をする。向き合うのだ。母に会いに行ったのと同じように。
それから三十分程が経ったとき、ドアを控えめにノックする音がした。晴海さんが微笑んで頷く。私はドアに歩み寄り、ドアハンドルをゆっくりと引いた。
彼女の姿を見た瞬間、よみがえったのは夏の暑さ。飛び立つ蝉の鳴き声。腰をぎゅっと掴む両腕の温もり。オムライスの香り。パンケーキの香り。嵐の夜の雨音。ドアが閉まる重々しい音。近くで見ると前よりも身長が伸びていて、メイクも変えたのか顔つきがぐっと大人びていた。
「久し振り……明希」
「うん。久し振り」
ぎこちない口調。流れる沈黙。ドアを広く開けて室内に伊月ちゃんを促す。晴海さんがベッドの上から手を振ると、伊月ちゃんの表情が少しだけ和らいだ。晴海さんのそばに歩み寄っていく背中を見ながらドアを閉め、後に続く。
「二人が並んでるのを見たの、久し振りだな」
晴海さんの言葉にどんな反応をすればいいのか分からず隣の伊月ちゃんを見る。彼女は真剣な眼差しを晴海さんに向けていた。
「晴海さん……身体は?」
「お気遣いありがとう。だいぶ調子いいから心配はいらないよ」
晴海さんが左手をゆっくりと上げて親指を立てる。そこでやっと伊月ちゃんが笑みを浮かべた。
「さ、私のことはこれくらいで、二人で話したいことがあるんでしょ?」
伊月ちゃんと見つめ合う。病室の暖房が効きすぎているせいか、いつの間にか彼女の頬が赤らんでいた。早く早く、と晴海さんに腕を押され二人で病室を出る。横に並んで廊下を進みながら、改めて、また伊月ちゃんに会えたのだという実感が込み上げてきた。配達帰りに家族といる姿を見かけたのを最後に、もう会えないと思っていた。会うべきではないと思っていた。でも、母に会いに行って、話をして、伊月ちゃんともきちんと向き合わなければいけないと思った。二人で過ごした夏の記憶を、あの嵐の夜で締めくくってはいけない。
廊下の途中に待合室を見つけて、椅子に腰を下ろす。伊月ちゃんは数秒迷ってから私の隣に静かに座った。病室を出てから二人とも一言も言葉を発していなかった。待合室も暖房がかなり効いていて、手のひらに汗が滲んでいるのはそのせいだと言い聞かせ、膝の上で拳を握る。口だけを動かして伊月ちゃんの名前を呼ぶ。伊月ちゃん、イヅキチャン。口は何度でも動くのに、声にならない。母に会いに行ったときもそうだった。ごめんね、というたったの四文字。どうして一番肝心なことを口にできないのだろうか。
「明希」
ふいに手の上に伊月ちゃんの手が重なるように置かれ、顔を上げる。無意識に自分の膝に爪を立てていたことに気が付いた。
「ごめん。晴海さんに無理言って、明希のことちょっとだけ教えてもらった」
その目線と声色はやけに控えめで、まるで様子を窺われているかのようだった。
「本当は良くないんでしょ。セクシュアリティを本人の許可なく第三者に話すのって」
アウティングのことを言っているのだと分かって、やっとさっきの目線と声色に合点がいく。でも何よりも、伊月ちゃんが晴海さんに私のセクシュアリティを聞いたことが驚きだった。申し訳なさそうに項垂れる伊月ちゃんに私は慌てて彼女の方に身体を向けた。
「私は全く気にしてないから、ほら、顔上げて」
声をかけても項垂れたまま、覗き込めそうで覗き込めない顔。一体今どんな表情をしているのだろうか。もう一度声をかけようか迷っていたとき、伊月ちゃんがそっと頭を私の胸に預けてきた。息が止まる。眼前にある髪がとても艶めいていて、目を奪われた。肺が空気を求めて髪から漂うシャンプーの香りを思い切り吸い込んだ直後、伊月ちゃんが顔を上げて目が合った。
「ねえ、明希。教えてよ。ちゃんと知りたいの。明希の考えていること、苦しんでいること、全部私に教えてよ」
その言葉を聞いた途端、喉がつんと痛くなる。ああ、そうか。これが私がずっと求めていた言葉なのだ。自分自身のことを晴海さんや美郷に何となくは話せても、心のもっと深いところまでは話すのを躊躇っていた。どうせ話しても理解してもらえないだろう、そう決めつけて閉ざしていた心を小さくノックされたような気がした。
私は伊月ちゃんに心の内を吐き出した。男になりたいわけではない。女でいたいわけでもない。でもそのどちらかになりたいと思うときもある。常に流動的で自分でもはっきりしなくて、何事も白黒を付けて分けようとする世の中に順応できない。自分の手の指先をじっと眺めたり、鏡で自分の姿を見たり、そういうときに生きている、と実感することは同時に生まれたときに割り当てられた姿で世の中に溶け込まなければいけないと強制されているかのようで、息苦しかった。堰を切ったように溢れ出す言葉。まとまりのない話し方をしてしまったはずなのに伊月ちゃんはじっと私のことを見つめながら何度も頷いてくれた。話の途中で涙が溢れてきて、話し終えたあともしばらく止まらなかった。その間も伊月ちゃんは何も言わずじっと私が落ち着くのを待っていてくれた。歳はかなり下のはずなのに、まるで歳上といるかのような包容力を感じた。
ようやく涙が落ち着いてきたころ、伊月ちゃんが口を開いた。
「パンケーキを食べに行った日、私が明希に言ったこと、覚えてる?」
言葉がすぐに浮かぶ。以前にも一度思い出した言葉だ。私は頷いた。伊月ちゃんが微笑む。
「私は明希に出会っていなかったらきっと今ここにはいないし、本当に心から感謝してる。だから明希が私を受け入れてくれたのと同じように、私も明希を受け入れたい。理解したい。また感情的になってもいいよ。だってそれほどの苦しみをいつも抱えていたんでしょう? 吐き出すことで明希が少しでも楽になるなら、何回でもぶつけて。もう離れたりしないから」
どうしてこんなにも、言葉の一文字一文字が心に降り注ぐのだろう。止まったはずの涙がまた目に滲む。霞んで見えない。彼女の顔が。手を伸ばす。指が重なる。今さらになって、最初から伝えるべき言葉はごめんねではなく、ありがとうだったのだと気付いた。
「明希、来週から入ってくる子の研修頼める? 未経験の十九歳の男の子」
「分かりました」
「よろしく。面接のとき、雰囲気が明希に似ていて懐かしくなって、思わず即採用しちゃったよ」
「ちゃんと人柄とかやる気を見て決めてくださいよ所長」
しみじみと頷きながらコーヒーを啜る所長に、隣でパソコンのキーボードを叩いていた晴海さんが呆れたようにツッコミを入れる。日常茶飯事となったその光景に、私は毎回噴き出してしまう。
このお店に来てから、気が付けば四年が経っていた。晴海さんはエリアマネージャーとしての復帰は難しかったけれど、事務をメインにときどき営業という形でお店に帰ってきた。お店の雰囲気も以前よりさらに活気が出て、改めて晴海さんの存在が大きいのだと実感した。
「それじゃ所長、私と明希ちゃんはそろそろ上がらせていただきますよ」
「ああ、明日は休刊日だから二人ともゆっくり休めよ。とは言ってもまたいつものところに行くんだろ? 明希は新人の研修が控えてるんだからあんまり飲みすぎるなよ」
「はいはい。ほら、所長の小言がこれ以上増える前に早く行こう明希ちゃん」
晴海さんとじゃれ合いながらお店を出て、駅前に向かう。休みの前日はほぼ毎回のように、晴海さんと初めて飲みに行ったお店に通うようになっていた。ママは相変わらず綺麗で、四年という年月を全く感じさせずまるで当時に時間が戻ったかのような気持ちになった。
「あ、いたいた」
お店の前に立つ姿を見つけ晴海さんが手を振る。向こうも気が付いて手を振り返してきた。
「お待たせ伊月ちゃん」
「全然! 一緒に飲めるのが楽しみすぎて早めに着いちゃいました」
今日は、二十歳になった伊月ちゃんをここに連れてくると決めていた。まさか一緒に飲める日が来るなんて夢にも思っていなくて、無邪気にはしゃぐ伊月ちゃんを見つめながら笑みが溢れた。
お店の扉を開けてすぐ、先頭にいた晴海さんが、あれ、と声を上げる。中を覗くとカウンターの中に立っていたのはママではなく、美郷だった。
「久し振り。今日来るかもってママから聞いていたわよ」
「美郷、どうしてここに?」
「私、元々ここで働いていたのよ。今日急遽ママが出られなくなったから代わりを頼まれたってわけ」
美郷に会うのは晴海さんのお見舞いに行った日以来だった。晴海さんのことで何度かメッセージのやりとりはしたけれど、仕事が忙しく会うことはないまま疎遠になっていた。
「あら、ずいぶんと可愛い子を連れてきたじゃない。晴海の? 明希の?」
冗談交じりの口調でそう言った美郷が、慣れない場所で緊張している様子の伊月ちゃんを目の前のカウンター席に促す。彼女を挟むように私と晴海さんも座った。晴海さんはビール、私はレモンサワー、伊月ちゃんはメニューをしばらく物珍しそうに見つめながら悩んでいたけれど、美郷がおすすめしたカルーアミルクを選んだ。
「今日は貸し切りにしていいってママに許可もらってるから、ゆっくり過ごしてね」
四人で乾杯をして、他愛のない話に花を咲かせる。あっという間に酔いが回って、ふわふわと世界が揺れる。胸が躍る。皆の笑い声が響く。何と幸せなのだろう。優しい気持ちのまま、夜が、更けていく。
翌週から始まった新入社員の研修が一段落して、久し振りに早めに帰ろうとしていたとき、所長に呼ばれた。
「明希、お疲れ様。研修はどう?」
「業務内容の説明は一通り終わりました。バイクは元々乗っていたみたいなのであとは順路記号を覚えてもらえれば配達はスムーズに独り立ちできそうです。集金と営業もやる気満々で、一緒にエリアを回っている間も顧客と積極的にコミュニケーションを取れていました」
所長がゆっくりと頷いて微笑む。
「やっぱり明希に頼んで正解だったな」
新入社員の研修は今までにも何度かやったけれど、業務が天候に大きく左右されることや営業への苦手意識で皆途中でリタイアしてしまった。ここまでしっかり研修を終えることができたのは初めてだった。
「実は、明希にぜひエリアマネージャーになってほしいと思っているんだ」
「え、私にですか?」
「ああ。今より幅広い業務を頼むことになるけれど、明希ならやってくれると確信した。晴海も推薦しているんだ」
晴海さんがやっていた仕事を、自分ができるだろうか。考えておいて、と言う所長にお辞儀をしてお店を後にした。
バイクに跨がって目を閉じると、瞼の裏に夜明けの景色が浮かび上がった。長い幻想のような感覚の中に立ち尽くす自分がいる。そのとき、背中から強い風が吹く。足が一歩前に出る。思わず振り返ると、白んだ空が私を包み込むように見守ってくれていた。
ああ、そうか、と私は悟る。
黎明の風の涼しさに、背中を押されたのだと。
【了】
黎明風涼し 篠哉 @shinoya21
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