第16話

 電車に乗って約四時間。狭い道にひたすら立ち並ぶ住宅群がいつしか見通しのいい田圃道に変わり、乗客が一斉に降りて車内が閑散とすると、ようやく地元に帰ってきたという実感が湧いてきた。聞き慣れた駅に到着したアナウンス。改札を抜けると駅の内装がいつの間にか変わっていて、壁が色とりどりに塗り替えられ、この街の象徴であるキャラクターが描かれていた。元々の雰囲気が古風だったため明るくなったのは良いけれど、元がどうだったかをいつか思い出せなくなるかもしれないと思うと少し寂しい気もした。でも駅から外に出ると、景色を取り囲む山々と、車のナンバープレートと、あちらこちらから聞こえてくる会話の訛りと、慣れ親しんだものたちが広がっていて安心した。ひんやりと乾燥した空気が肌を覆うこの感覚も懐かしい。リュックをしっかり背負い直し、駅から歩を進める。ひびが入って凸凹のコンクリートの歩道、潰れたパチンコ店、同級生の家、消えかけの横断歩道の白線。その先に見えてきた。生まれてから二十年間生活をして、夏に旅立った家が。家族のいる空間が。近付くと、庭に誰かがしゃがんでいるのが見えた。母だった。

 母は庭で花の手入れをしていた。ニット帽を被って、手袋をして、白い息を吐きながら雑草をむしっている。私が家を出る前より少し皺が増えたような気がする。母は私に気付くなり、「あら」と声を上げた。

「びっくりした。明希ちゃん、帰ってきてたのね。おかえり」

 私が駆け寄ったのと同時に立ち上がった母がふらついて、慌ててその肩を支える。間近で見ると白髪もかなり増えていた。

「帰ってくるなら連絡くれれば色々用意したのに。ごめんね、何か急いで買ってくるね」

「いいから。家の中にいてよ。何でこんなに寒いのに外にいるの」

「お母さんが手入れできなかった間にこんなに雑草が生えてきちゃって……花がかわいそうでね」

「それなら私がやるから休んでて」

 母の背中を押して家の中に入れドアを閉めると、目頭がかっと熱くなった。

 普段ほとんど連絡を取り合わない父から突然メッセージが来たのは、三日前だった。母がここのところよく体調不良を訴えるようになって、仕事をしばらく休んで病院でいくつか検査をしている、と。私のこともずっと心配している、と。

 電話をこちらから強引に切ったあの台風の日以降、母から何度か連絡は来ていたものの一度も反応していなかった。仕事が忙しいと自分の中で言い訳を並べ立てて、後ろめたさから逃げていた。メッセージを読んだあと母に電話をするべきか迷ったけれど、ふと父が仕事でよく家を空けるのを思い出して、もしかすると母は今、ほとんど家に一人きりで、その寂しさから私に連絡をしていたのではないか。そう考えた途端にいても立ってもいられなくなって、朝刊の配達を終えた後、休みを今日に変更してもらって帰ってきた。

 母がいたところに同じようにしゃがみ、花の回りの雑草をむしる。土には霜が張っていて、ここに着くまでにポケットに入れて温めていた指先がすぐに冷たくなる。母はたった一人でここにいたのか。寒さを誰とも共有できずに、たった一人で。

「明希ちゃん」

 背中から声がして振り向く。母が手に持っていたのは、私が学生のときによく着ていた上着だった。受け取った瞬間、懐かしい匂いが鼻を掠める。

「今日は仕事は休みなの?」

 上着を羽織りながら頷く。

「忙しそうだったから心配してたけど、元気そうでほっとしたよ」

 私はもう一度頷く。喉元まで出かかったごめんなさい、という言葉は声にすることができずに萎んだ。代わりに「身体は大丈夫?」と聞くと、母は笑いながら言った。

「病院に行ったらね、年齢によるホルモンバランスの乱れだって。そればっかりはしょうがないよね。これからは薬で上手く調整していくしかないね」

「じゃあとりあえずは大丈夫なの?」

「心配しなくていいよ。あんたも大変なのに、遠くから来てくれてありがとうね。今日の夜はあんたが好きなもの作るからね」

 ここに着くまでは、母の顔をひと目見たらすぐに帰ろうと思っていた。でもいざ会うと、まるで柔らかい毛布に包まれているかのような感覚になって、ただこの身を任せたくなる。実家は本来、こんな風に温かい場所なのだ。

 夜になると父が仕事から帰ってきた。母が連絡していたのか、父は私を見ても驚くでもなくただおかえり、と言った。キッチンからは母が冷蔵庫と戸棚を開け締めする音が聞こえ、廊下を挟んだ隣の寝室からは、父がスーツを脱ぐ衣擦れの音が聞こえてくる。この日常の音たちを聞きながら私はよく、一人でリビングに寝転がって漫画を読んだり携帯で動画を観たりしていた。まだ半年も経っていないのに、遠い昔のことのように思える。

「明希ちゃん、オムライスでいい? ちょうど卵がたくさんあるから」

「うん。私も手伝うよ」

「いいから。あんたは座っていなさい」

 キッチンに入ったものの手際のいい母を見て手持ち無沙汰になり、冷蔵庫から父が飲むであろうビールの瓶と、棚から栓抜きとグラスを取り出した。リビングに戻ると着替えを終えた父が座っていて、目が合う。ビールとグラスをテーブルの上に置くと父が驚いた顔をして私を見た。

「明希、ビール飲めるようになったのか」

 酒を飲んでいないと口数が極端に少ない父に話しかけられるとは思わず、一瞬返す言葉に詰まる。

「ああ、うん。前に職場の先輩と飲みに行って美味しかったから」

「そうか」

 はにかんだ父がグラスを私の前に置き、ビールを開けて注ぎはじめる。私は呆気にとられ、注がれるビールの泡がグラスの中で波打つのをじっと見ていることしかできなかった。父の笑顔を見たのは何年振りだろう。夕飯の時間になると必ず一人で黙々とビールを注ぎ、真っ先にあおっていたのに。

 キッチンから母が出来たてのオムライスとグラスを持ってきてテーブルに置いた。湯気に乗って、卵の甘い香りとケチャップの酸っぱい香りが同時に鼻を刺激する。オムライスは今まで作ってくれていたものより一回りは大きく、一体いくつ卵を使ったのか、見るからに分厚かった。

「まずはお父さんと乾杯ね」

「飲もう、明希」

 グラス同士が軽く触れ合う澄んだ音。私が一口飲むと、父が続いて一口飲んだ。私と父を交互に眺めて笑みを浮かべる母。私は無性に恥ずかしくなって、オムライスに目線を移していただきます、とスプーンを手に取った。オムライスにスプーンを入れると、中からとろりと半熟の卵が溢れてきた。てらてらと光る卵を眺めているうちに遠い記憶がよみがえる。母は私が幼いころから半熟のオムライスを作るのが本当に上手くて、小学生のときに同級生を家に呼ぶと毎回母がオムライスを振る舞ってくれて、いつも皆に自慢をしていた。父だってそうだ。家の中では無愛想なことが多いのに、私の友だちが遊びにくると必ずはにかんで迎えてくれた。あのころから何も変わっていないのだ。変わったのは、私だけなのだ。

「仕事とか生活とか、大丈夫なの? 辛くなったらいつでも家に戻ってきていいんだからね。お母さんたち、待ってるから。あんたは大切な娘だからね」

 本当は全てを打ち明けてしまいたい。でも、そうしたら一体どうなるだろう。晴海さんと同じように喧嘩になるだろうか。記憶を遡っても両親とは喧嘩という喧嘩をしたことはなかった。目の前のこの笑顔が消えてしまうかもしれない、そう考えたら、真実を伝えることが必ずしも正解ではないような気がした。喉元まで上がってきていた言葉を飲み込み、私は精一杯の笑みを浮かべた。

「ありがとう。でも、安心してね。私は私なりに、ちゃんと幸せになるから」




「昨日、稲本さんが新勧一件獲得しました」

 昼のミーティング。上機嫌の所長が皆の前で前日の営業成績を発表する。実家から帰ってきてすぐ、私は営業にうんと力を入れた。連日区域内の家にひたすら挨拶回りをし、昨日の夕方ついに新規の購読客を獲得することができた。

「入社して半年以内に新歓を獲得したスタッフは晴海以来だよ」

 所長が私の肩を叩くと、周りの皆も真似して続く。温かい場所。私の居場所。ここで頑張れば頑張るほど、晴海さんに近付けるような気がした。

 夕刊の配達を終えて病院に向かう。晴海さんはリハビリが始まったらしく少し疲れた表情を浮かべていたけれど、私が内田さんのお店の洋菓子を持っていくと大喜びしてくれた。

「え、新歓!? 明希ちゃんすごいじゃん、新歓なんてなかなか取れないよ」

「この前実家に帰って、色々考えたんです。それで、自分なりの生き方を探すために、あのお店で頑張りたいって思って」

「明希ちゃんはご両親にはまだ自分のことを話していないんだよね? いつかは、話すの?」

 晴海さんの問いに一瞬迷って、頷く。正解は分からない。でもいつかはその日が来るかもしれない。本当の自分を、望む生き方を、笑って話せるときが来たならば。

「そっか……。そうだね、親と子は本来、お互いの生き方を尊重するべきなんだ。血が繋がっているとはいえ、それぞれに意思を持つ自立した人間なんだから」

 晴海さんが少し寂しげに微笑む。でも、その目はお店で仕事をしていたときと同じく生き生きとしていて、初めてここに会いに来たときの姿は、もう微塵もなかった。

「私も負けちゃいられないな。早く仕事復帰しないと」

 晴海さんが布団の上に置いている左手の、グーの形に閉じていた指を少しずつ開いていく。顔を歪ませながら、唇を噛み締めながら、ゆっくりと、ゆっくりと。私はそれを眺めながらまるで自分の人生のようだ、と思う。進むことを恐れて、それでも時間は止まらなくて、苦しみに喘ぎながらも進む。スムーズではなく時に躓きながら、震えながら、それでも一歩一歩確かに進んでいく。立ち止まることはあっても後退することは決してない。あのお店が、居場所が、そうさせてくれた。

「正直、こんな身体になってから、消えてしまいたいって何度も思った。でもそのたびにお店のこととか、変わらずそばにいてくれる人のことが頭に浮かぶんだ」

 時間をかけて開ききった晴海さんの左手を、両手でそっと包み込む。この手は今までに何度も私の背中を押してくれた。晴海さんがいなかったら私は、あのお店を自分の居場所だと思う前に去っていたかもしれない。晴海さんを見つめると晴海さんも私を見ていて、その目が潤んでいることに気が付く。

「でも何よりも、私の今の一番の支えは、明希ちゃんなんだよ」

 私の胸の前まで伸びてきた右手。それを掴み、晴海さんを抱きしめる。遠くに感じていたはずの人が、今はものすごく近くにいるのだと実感する。強く逞しく見えている人ほど本当はそうではなく、誰よりも深い寂しさを心に宿しているのだ。

 面会時間の終わりが刻一刻と迫っている。お店にもそろそろ戻らなければいけない。名残惜しく思いながらも晴海さんに声をかけようとしたとき、背中に手が回ってきた。

「明希ちゃん。私ね、今まで誰かを抱くことで、必要とされているって感じて自分を保っていたんだ。正直言うと、一人きりでいるのが寂しくてたまらないんだよ。明希ちゃんは私のことを慕ってくれていたけど、本当は私は、弱い人間なんだよ」

 お店にいたころの晴海さんからは全く想像もできないほどの弱々しい声、言葉。でもきっとこれが本来の晴海さんの姿なのだ。

「分かっています」

 明日も、明後日も、その先も、晴海さんが仕事に復帰するその日まで私はここに会いに来るだろう。そのためにお店を支え続ける。それを今の私の、生きる理由にしよう。



【続】

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