第15話

 午前四時五十分。小雨が降る中で、バイクに跨ったまま高台からの景色を眺める。まだ大半が寝静まっているこの街は、同じ場所から眺めても日によって異なる表情を浮かべている。住宅が立ち並ぶエリアのさらに奥、二十四時間稼働のパン工場の出す匂いがここまで漂っている。頭上では数羽のすずめが、雨粒を振り払おうとしているのか不規則に羽をばたつかせながら飛んでいる。

 雨で身体が冷えることなどどうでもよかった。寒いはずなのに、震えも来ない。目を細めると雨粒の線がひとつひとつはっきりと見えて、意思を持って降り注いでいるように感じる。線が縦に等間隔で並んで、世界と自分との間に切り取り線を形作る。それを切り離せば、全ての柵からいつでも離脱することができる。そんな気がして、心地が良かった。

 晴海さんが事故に遭った日、病院の場所を知りたくて晴海さんに送ったメッセージは、未だに既読になっていない。所長はなぜか病院の場所をなかなか教えてくれず、お店を回すために忙しくしているから仕方がないと思っていたけれど、日が経つにつれはぐらかされているのだと悟った。考えてみれば、仕事の繋がりがなければ晴海さんが私に関わる理由はない。今までの優しさも全て上司としての責務だったのであれば、晴海さんが欲しいのは私からの連絡ではなく、いつも抱いている女たちからの心配の言葉だろう。それならばもう、お店に留まる理由はない。

 仕事を辞めよう。

 晴海さんがお店からいなくなって一ヶ月が過ぎた日の朝。雨粒たちを抱きしめるように全身に浴びながら朝刊配達を終えた私は、どんよりとした曇に覆われた空を見上げながら、そう決意した。



 家に着いてシャワーをしようと服を脱いでいたとき、パンツのポケットから携帯が落ちた。いつの間にか携帯に不在着信の通知が入っている。発信者は美郷だった。先にシャワーを浴びてしまおうか数秒迷って、発信をタップした。もしもし、と言う前に電話口から耳に響くほどの大声が聞こえてきた。

『明希、あんた晴海が入院したこと知ってたの!?』

「うん」

『いつから?』

「一ヶ月前」

『会いには?』

「行ってない」

『何で行かないのよ?』

「どこに入院しているか、教えてもらえないんだ」

 そう答えた途端黙り込んでしまった美郷。しまった、という雰囲気が電話越しでも伝わってきて、服を脱いだ状態の上半身に遅れてやってきた寒気。

「美郷には、教えてくれたんだね」

『たまたま連絡したら仕事辞めたって言うからおかしいと思って、問い詰めたのよ。とにかく、面会は午後二時からだから行きなさい。私も行くから』

 美郷から伝えられたのは、配達区域の大通りの途中にある総合病院だった。病院のすぐ隣に購読客がいて、いつも配達をしている。こんなに近くにいたなんて。

 電話が切れたあと、熱いシャワーを浴びる。目を閉じながら考える。病院に行くべきだろうか。晴海さんは望んでいないのに。結論が出ないまま浴室から出て、髪を乾かし、布団に潜った。



夕刊配達を終えた午後四時過ぎ、美郷に『今から行く』とメッセージを送って病院に向かった。駐輪場にバイクを置いて入口の方を見ると、自動ドアが開いて、こちらに歩いてくる美郷の姿が見えた。

「久し振り、明希」

 電話口とは打って変わって控えめな口調。それに、いつも会っていたときはまっすぐ見つめてくるのに、今日はあまり目が合わない。

「この間はごめんなさい。急に帰って」

 入口に向かって歩き出してからやっと美郷が私を見る。本当に久し振りに彼女の顔をまじまじと見た。最後に会った日から比べて少し痩せたような気がするけれど、相変わらずのはっきりとした目鼻立ち。彼女とこうして話せる日はもう来ないと思っていた。数秒見つめ合っただけで、彼女の肌の感触が鮮明によみがえった。

「怒らないのね、私のこと」

「怒らないよ。どうして?」

「どうしてって……」

 未だに、美郷が急に帰った理由は分からないままだった。その答えがやっと聞けると思っていたら、返ってきたのは苦笑いだった。

「あなたって、すごく鈍感なのね」

 話しているうちに入口に着いて、自動ドアを通りエントランスに入る。受付で美郷に促され用紙に必要事項を記入し、面会用バッチを受け取った。病室に向かおうとしたところで美郷に背中を強く叩かれた。

「私は昨日晴海に会ってるから。面会にはあんた一人で行きなさい」

「え?」

「終わったら連絡待ってるから」

 背中の叩かれた部分がじんじんと痺れる。思わず「痛いよ」と笑いながら美郷に言ったけれど、声が届かなかったのか美郷は振り返りもせず歩いていってしまった。仕方なく一人で廊下を進む。病室の前に着いて、バッチを胸に付けてからドアをノックする。一拍遅れて中から小さく返事が聞こえて、胸が熱くなる。それは紛れもなく晴海さんの声だった。拒絶されるかもしれないという恐怖感はどこかに消え失せ、私は勢いよくドアを開けた。 

「明希ちゃん……?」

 晴海さんの名前を呼ぼうとして、息を呑む。久し振りに見た晴海さんは一瞬別人かと思うほど頬は痩け、風になびいて艶めいていた髪は硬くごわついて見え、顔の血色も良くなかった。だらんと力なく布団の上に置かれた両腕はただでさえ細かったのにさらに骨の形が浮くほどにまでなっていた。あんなに逞しく思えていた晴海さんの面影が今はどこにもなく、かける言葉がすぐには見つからなかった。

「どうしてここが分かったの? ……所長に聞いた?」

「いえ。美郷に、教えてもらいました」

 美郷、と名前を繰り返したあと、湿った溜め息が室内に響く。

「参ったな」

 その力のない声を聞いた瞬間、私はここに来たことを後悔した。晴海さんは今の自分の姿を、誰にも見られたくなかったのかもしれない。病室のドアを開けて目が合った瞬間の晴海さんの表情からも、それが伝わってきた。

「すみません、勝手に来て。失礼します」

 晴海さんにひと目会えただけでも十分だ。そう思いながら帰ろうと踵を返したとき、明希ちゃん、と呼び止められた。

「ごめん、上手く言葉が出てこなくて。本当はすごく嬉しいんだ。明希ちゃんが来てくれて。ただ、こんな姿を見せてしまうのがすごく申し訳なくて」

 背中からベッドの軋む音と布団の擦れる音、それから苦しそうな声がして慌てて振り返る。晴海さんが顔を歪めながらベッドから起き上がろうとしていた。身体を支えている右手が細かく震えているのが見えて、駆け寄って肩を支える。

「晴海さん、無理はしないで下さい」

「ありがとう。事故のこと、ずっと話せなくてごめん。実は、大通りを走ってるときにトラックと接触しちゃってね。一ヶ月も経つのに未だにこの様だよ。仕事も急に辞めることになっちゃったし、心配をかけたよね。私は仕事復帰する気満々なのに、所長が無理するなってうるさくてさ」

 笑い方が以前よりも弱々しく、無理に笑っているのがすぐに分かってしまう。そんなにひどい怪我だったのだろうか。一ヶ月経ってもベッドから動けないほどに。晴海さんに会ったら話したいことがたくさんあった。事故のこと、伊月ちゃんのこと、仕事のこと。でも今はそのどれもが、晴海さんにとって重荷になってしまうような気がした。

「明希ちゃん、どうしたの。何かあった?」

 晴海さんの右手が太腿の上に置かれて、そこから体温が伝わってくる。

「仕事のことで悩んでる? もしかして崖から落ちてからバイクに乗るのが怖くなっちゃった?」

「違うんです。違うんです……」

 顔を覗き込まれて、前に二人で飲みに行ったときのことを思い出す。高揚感が鮮明に蘇って、その気配になりふり構わず縋り付きたくなる。

「前から心配してたんだけど、明希ちゃん、少し自分を追い込みすぎじゃない? 自分の人生なんだからもっと気楽に生きなよ。まだ若いんだしもっとやりたいことだってあるでしょ?」

 本当にやりたいことは、一体何だっただろうか。いつの間にか思い出せなくなって、生きる理由を失っていた。これから先のことを考えると億劫で、早く終わらせることばかり考えていた。

「実はあの店で働いている奴らのほとんどがさ、人には簡単に言えない何かを抱えているんだ。前科があったり、借金があったり、家族と上手く行かなくて家を飛び出したままだったり……私自身、親にレズビアンだってことを打ち明けたら大喧嘩になっちゃって、家出のような形であそこに入ったし。でも皆生き生きとしてるでしょ。やっと自分らしくいられる場所を見つけたんだよ。だから明希ちゃんにとってもあそこがのびのびと自分らしくいられる場であってほしい」

 暑いくらいに温まった室内が、初めてお店に来た日を思い起こさせた。あの夏の日、確かに私はあそこへ自分の居場所を探しに来た。自分を肯定してくれる居場所を。晴海さんがいつもの見慣れた微笑みを浮かべる。私は泣きそうになる。

 本当にやりたいことは、自分らしく生きることだ。

「お店は、晴海さんにとっても、大切な場所なんですよね?」

「うん、もちろん」

「それなら、戻ってきて下さい。晴海さん」

 太腿の上の晴海さんの右手がゆっくりと移動して、私の頭を撫でる。小さな違和感。話している間、左手はずっと布団の上に置かれたまま一度も動かなかった。晴海さんは、左利きのはずなのに。



 病室を出ると、廊下に美郷が立っていた。

「気付いたでしょ」

 美郷の潤んだ瞳を見て、確信した。ああ、何かの間違いではないのだ。

「晴海、身体の左側が動かないんだと思う」

 違和感の正体。晴海さんが入院先を所長以外に伏せた本当の理由は、きっとそれだったのだ。

「昨日、何で入院したこと教えてくれなかったのって左腕を思い切り叩いたのに、晴海、全然痛そうにしなかったの……」

 美郷が嗚咽を漏らす。もう、晴海さんはお店には戻れないのだ。晴海さんにとっても、あそこは大切な居場所だったのに。それならば今、晴海さんは何を拠り所にしているのだろか。そう考えるといても立ってもいられなかった。晴海さんを一人にしておくことはできなかった。

 次の日、私はもう一度晴海さんに会いに行った。何も気付いていない振りをして、仕事の話を少しして帰る。それを繰り返して一週間。いつものように病室に入って椅子に座ったとき、晴海さんが、私が持ってきた洋菓子の手提げ袋をまじまじと見た。

「やっぱり。内田さんのお店のだ」

「え? 内田さんって……」

「ほら、幼稚園のそばの」

 配達順路を頭の中で辿り、分かった。内田さんは朝刊を購読しているお客さんで、中年の穏やかな夫婦だった。初めて集金の仕方を教わったとき、晴海さんが特に親しげに話していたから印象に残っていた。

「ありがとう。私、ここのお菓子大好きなんだ。一緒に食べよう」

 晴海さんの顔がここ一週間の中で一番綻んで、ほっとする。マドレーヌの包装を開けて渡すと、晴海さんは右手で受け取り、問題なく食べているように見えた。勘違いであればいいのに。もうすぐ退院して仕事に復帰して、またバイクで走る後ろ姿を追いかける日が来ればいいのに。

「明希ちゃん。さすがに気付いてるよね」

 マドレーヌを半分食べたところで晴海さんの顔からふっと笑みが消え、真剣な目が私をとらえる。

「気付かない振りをしてくれているんでしょう? 私の身体のこと」

 晴海さんが自分で口にしてしまったら、もう、希望を持つことすら許されなくなってしまうのに。

「私がこの身体になったことを言ったら、今まで私を求めてくれていた子たちは誰一人連絡をくれなくなったよ。笑っちゃうよね。抱けない私に価値はないみたい」

 晴海さんが見たこともないような痛々しい表情を浮かべる。胸に秘めていた感情を、曝け出したくなる。

「私が、晴海さんを抱いてもいいですか?」

 答えを聞く前に晴海さんを抱きしめる。晴海さんが意外と華奢なのだということを初めて知った。始めは明らかな戸惑いの気配を感じていたけれど、やがて腕の中でこくり、と晴海さんが小さく頷いたのが分かった。晴海さんの顔をじっと見つめて、唇を重ねる。服の中に手を入れて肌をなぞる。耳にキスを落とす。湿った吐息。晴海さんが腕の中にいることが、私を求めてくれることが夢のようで、身体中が熱くなる。

「明希ちゃん……仕事辞めないで……お店を守って」

 今にも消え入りそうな声。骨の形がはっきりと浮かんだ肩を強く抱き寄せる。ずっと願っていたことが叶ったのに、嬉しさの中に切なさが入り混じって、言葉にできない感情が込み上げる。晴海さんが繰り返し私に訴える。仕事を辞めようとしていた気持ちは、晴海さんの言葉でどこかに消えた。守らなければいけない。晴海さんの拠り所を。もうすぐ面会時間が終わりに近付いていた。明日も会いに来ると心に決め、腕を離す。病室を出てから気が付いた。晴海さんを抱きしめていた腕が、いつの間にか濡れていた。



【続】

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