第14話

 五回目の耳をつんざくような嬌声が、室内に反響する。呼吸を忘れて舌と指を動かしていた私は、汗ばんだ身体の上に重なるように倒れ込み、深く息を吐き出した。二つの呼吸が混ざり合い一つになる。

「明希、本当に上手くなったよね」

「そうかな」

「そうよ。初めてしたときはあんなぎこちなかったのに」

 このベッドの上で美郷を抱いたのはもう何度目か分からない。始めはひたすら手探りだったけれど、回数を重ねる毎にどこを攻めれば感じるのか、身体の敏感なポイントが分かるようになった。他の女を抱いたことはないけれど、以前彼女が言った通り、私たちは相性がいいのだと思う。

 裸のまま二人で布団を頭まで被り、じゃれ合いながら息を整える。セックスがこんなにも心を満たす行為だということを、私は今まで知らなかった。知れば知るほど、もっと欲が出てくる。他の誰かのことも抱きたくなる。誰かを抱いているときが一番、自分が生きているという実感が湧く。特に晴海さんを抱きたい気持ちが前よりもさらに膨らんでいた。

「ねえ。晴海さんはセックスのとき、受け身になることはないの?」

「晴海が受け身? 想像もできないわ。どうして?」

「私、晴海さんに抱かれるんじゃなくて、晴海さんを抱いてみたい」

 布団から勢いよく顔を出した美郷が、私の顔をまじまじと見つめてから笑う。

「それはきっと無理よ。晴海は女の子を抱くことしか考えてないもの」

 それならば、晴海さんと同じくらい誰かを抱けば私のことも考えてくれるだろうか。以前晴海さんに「伊月ちゃんを抱いてみたいと思わないのか」と聞かれたことがあった。あのとき伊月ちゃんを抱いていたら、何か変わっていただろうか。質問に狼狽えてしまった結果、経験のない意気地なしだと思われたのだろうか。

 美郷の身体を眺めながら頭の中で伊月ちゃんの身体を想像する。美郷とは違い、未成熟な乳房や性器。キスをすると歯がぶつかり、どこを触っても身をよじる。胸の膨らみはまだほとんどなく、それならばと乳首にキスを落とそうとすれば頑なに拒まれ、指一本挿れるのにも身を固くし、膣口をきつく閉ざしてしまう。挿れるのは諦め、クリトリスに指を滑らせる。優しく触れないと傷付けてしまいそうで、壊れ物を扱うようにそっとなぞる。もう少しで気持ちよくなるよ、と私は伊月ちゃんに声をかけながら指の腹で粘り強く撫で続ける。次第に強張っていた身体が少しずつ弛緩していくのが分かって、自然に声が漏れてくる。明希、と苦しそうな声で伊月ちゃんが私を呼ぶ。頑なだった膣口から溢れてきたものを見て、絶頂が近いのだと笑みが漏れる。私だけを見つめる潤んだ瞳。求められていると感じるこの瞬間が、一番満たされる。晴海さんは同じように私を求めてはくれないのだろうか。晴海さんの初めてになることは、できないのだろうか。

「明希、あたしの身体に飽きた?」

 美郷の声で我に返る。すっかり空想にふけっていた私は、彼女の身体を見つめながらものすごく呆けた表情をしていたのかもしれない。ベッドから出てバスローブに袖を通しながら洗面台に向かった美郷を目で追う。洗面台の電気を点けずに鏡の前に立っている彼女を不思議に思っていると、ぽつりと声が聞こえた。

「あたしと一緒にいるときに晴海を抱きたいなんて、いい度胸ね」

 美郷はしばらく鏡の前で自分の身体をチェックするような仕草をしていたけれど、そのうち大きなため息を吐きながらベッドに戻ってきた。バスローブを乱暴に床に脱ぎ捨て、素早い動きで衣服に着替えていく。

「もう帰るの?」

「帰る。精算はしておくから、このままここに晴海でも呼んだら?」

「もしかして怒ってるの?」

 私の質問に答えずに早足でドア前の精算機に向かった美郷を慌てて追いかける。自分の衣類が部屋中のいたるところに散乱していて全てをかき集める余裕はなく、目についたシャツと靴下だけを身に着けた。その間も美郷は慣れた手付きで精算ボタンを押し、表示された金額を投入していく。

「じゃあね」

「待ってよ。急にどうしたの? 何で怒ってるの?」

 なぜか質問に一切答えてくれない美郷に思わず語気が強くなる。ドアを開けた美郷が突然振り向いて、きっと睨み付けられた。

「ただのセックスフレンドのつもりだったのに、あなたのせいよ」

 片手で勢いよく胸の辺りを押されよろめく。ドアの向こう側に消えた背中を追いかけようとしたとき、ふいに鏡に映った自分の全身。それがひどく滑稽な姿をしていて、ドアノブに伸ばしかけていた手を引っ込めた。

 部屋の中に戻って残りの衣服を探している間、廊下から聞こえていたヒールの音がだんだんと遠ざかっていき、やがて消えた。



 今までで最も長く思えた夏が終わり十月も中旬に差しかかった。急激にやってきた寒さが身に堪える中、私は営業で区域の家々を回っていた。もうすぐ日が沈んで辺りは一気に暗くなる。幸い明るい内にいくつか契約をもらうことができて、私はジャンパーのファスナーを一番上まで閉め首元に風が入り込むのを防ぎながらかじかむ手でバイクのアクセルグリップをしっかりと握り直した。

 あと一軒回ったら今日は終わりにしようと考えながら大通りで信号待ちをしているときだった。ふと、信号のすぐ隣にあるドラッグストアの駐車場を歩く三人組の親子が目に入った。父親が何かを言い、それに対して大声で笑う母と娘。これからパーティでもするかのような大きな買い物袋を、娘が一生懸命持っている。よくある光景だった。よくあるはずなのに、私は目を離すことができなかった。

 そこにいたのは紛れもなく伊月ちゃんだった。あの大雨の日、幻のように私の部屋から消えた伊月ちゃんだった。ショートボブだった髪は二ヶ月で少し伸びたのか後ろで縛っていたけれど、その横顔も笑い声も、夏の間に何度も見聞きしたものに違いなかった。心臓が急に脈を打ちはじめる。喉がカラカラになる。私に気付くだろうか。気付いてほしい気持ちと、気付かないでほしい気持ちが同時に胸の中に広がって、聞こえるはずのない呼吸音をひそめた。

 後ろから車が何台も連なって走り抜けていって、信号がいつの間にか青に変わっていたことに気が付く。私は信号を越えてすぐの小道に入りそこでバイクを停めた。スーパーは目と鼻の先だった。ヘルメットを外しバイクの鍵を引き抜こうとして、手を止める。

 私は一体彼女に何を伝えようとしているのだろう。伊月ちゃん、あのときは八つ当たりしてしまってごめんね。本当はずっと謝りたかったんだ。またいつでも泊まりに来ていいよ。またバイクで迎えに行くよ……。マンションを訪れるたびに、インターホンを押すたびに頭の中に並べていた言葉たちが久し振りに頭に浮かんですぐに萎んだ。

 彼女は笑っていた。長い夜を越えて顔を出した朝日のように。そこには少しの曇りもなかった。あの笑顔にかける言葉など今さらあるだろうか。彼女にはもう逃げ場は必要ない。薄暗い夜明け前に家を飛び出す必要も、華奢な身体に合わない重いリュックを背負う必要も、見ず知らずの人間に助けを求める必要も。それなのにどうしてこんなに虚しくなるのだろう。私はバイクのエンジンをかけてすぐに走り出した。日はすっかり沈んで冷え込みは一段と増していたけれどすれ違う人々は皆穏やかな表情をしているように見えて、自分だけが一人で身体を震わせているように思えて仕方がなかった。

 もう、遅すぎたのだ。あの雨の日のまま立ち止まっているのは私だけだったのだ。あの子は前に進み続けている。私との日々はもうとっくに記憶の引き出しの奥にしまいこんでいるだろう。だから私も伊月という少女のことは忘れよう。そう深く決意した。



 購読客から数件継続契約を取れたため少し早めにお店に戻ってくると、窓越しから何やらいつもとは違う空気を感じた。他のスタッフも数人戻ってきていて、いつもは二階で作業をしている所長の姿もある。それを見て直感的に何か良くない予感がした。緊張感を抱きながら戸を開ける。生温い空気と汗の臭いが鼻をつく。振り返った社長が私に向かって手招きをした。

「稲本さん、ちょうど今連絡しようとしていたんだ。戻ってきてくれてよかった。皆が揃ったら話がある」

 いつ見ても笑顔を浮かべている所長が今日は眉根を寄せてややうつむきがちになっていて、その雰囲気が伝播して室内は静まり返っていた。唾を飲み込む音すら響いてしまいそうで、残りのスタッフが戻ってきたときのバイクの音が救いだった。次々と人数が揃っていき後は晴海さん一人だけになったところで、所長がおもむろに顔を上げた。そのたった一瞬の表情で、私は所長が誰の話をしようとしているのかを、察してしまった。

「晴海が、仕事を辞めることになった」

 胸にひやりとしたものが流れ込む。他のスタッフたちからも一斉に驚きの声があがる。

「皆が配達に出たあと、病院から晴海が事故に遭ったと連絡が来た。それで病院まで行ってきたんだが、正直怪我の状態的に今後仕事に復帰するのは難しいと判断した。だから一旦退職してもらうことになった」

 どんな事故? どんな怪我? 意識は? 所長に聞きたいことはたくさんあるのに、声が出ない。知りたいと同時に、聞くのが怖い。周りからも同じ空気を感じた。

「これからしばらく大変かもしれないけれど、とにかく今はそれぞれの仕事に集中してほしい。今日は皆早めに帰ってゆっくり休んでいいから、明日からよろしく頼むよ」

 話し終えた所長が慌ただしく二階に戻っていく。残ったスタッフたちの間で、以前体調不良で晴海さんが休んだときとは比べ物にならないほどの動揺が漂っていた。それでもまた数時間後にはここに出勤をする。できるだろうか。朝刊を楽しみに待つ購読客たちの顔が浮かぶ。やらなければならない。彼らは私が入る前から晴海さんが大切にしてきた人たちなのだ。

 皆が連なってタイムカードに打刻をして帰っていき、室内には私だけになった。エアコンの真下で作業台にもたれかかり煙草を吸っている姿も、ゆらゆらと宙を舞う煙も、いつも当たり前のように見ていた。残像になってしまう日がくるなんて、思いもしていなかった。



 家のエアコンが聞いたことのないような低い唸り声を上げている。久し振りに朝から一日中稼働させているせいだろうか。

 今日は美郷と毎週会っていた日曜日で、彼女とはホテルに行ったあの日から連絡が途絶えていたけれど、習慣のようにまた希望休を取ってしまった。彼女とはセックスという行為を通じて心から繋がることができたと思っていたのに、それは私の思い込みだったのかもしれない。美郷も、伊月ちゃんも、離れていった。そして晴海さんまでも。

 晴海さんが退職してからもうすぐ一ヶ月が経つ。皆はじめこそ暗い顔をしていたけれど、少しずつ余裕が出てきたのか晴海さんがやってくれていた業務を分担してこなせるようになっていた。そんな中で私は、日に日に出勤を苦痛に感じるようになっていた。夜中になれば出勤時間がやってくる、そう考えると身体が重くなり、今日もやっとの思いで暖房のスイッチを入れ布団に潜り続けていた。

 夜になっても電気を点ける気になれず真っ暗な部屋で天井を眺めていたら耳鳴りがしてきて、上体を起こしてテレビの電源を入れる。ときどき暇潰しで観ていた市内のローカル番組がまもなく終わるところだった。それからいくつかのCMが流れたあと

に始まったニュース番組。スタートから大きく特集されたのは一家心中のニュース。父親、母親、高校生の娘が車内で練炭を焚き、全員が死亡。場所はここから程遠くない、何度かバイクで通ったことがある山中だった。インタビューの映像に切り替わって、近隣住民が「いつも明るくて仲の良い幸せそうな家族だった。ついこの間も仲良く買い物をする姿を見かけていたのに、まさか心中するなんて」と答える。こういうシーンを見ると、客観的な印象がいかに的外れなのかが分かる。人は表面だけを見て全てを分かった気になる生き物だ。不倫をした芸能人のニュースを観て、一方的に不倫した側を叩くのと同じように。殺人事件のニュースを観て、犯人が全て悪いと決め付けるように。この家族も、周りが思っているほど幸せではなかったのだろう。でも家族とはいえそれぞれ別の人間なのだ。誰か一人が死ぬことを決めたからといって、皆がそれに従わなければいけない理由はない。それでも、この家族の形はそういうものだったのかもしれない。

 携帯の検索窓に「楽な自殺方法」と入力する。自殺を予防する相談窓口の電話番号が一番上に表示された。それを指で弾くようにスクロールする。いくつかの記事を見たあと、画面を閉じた。楽な方法などあるわけがない。自ら命を経つことが、楽なはずがない。心中をした家族が全員本当に死にたかったのなら、実行した勇気を称えたい。でももし本当は生きることを望んでいたのなら、今すぐにでもこの命をくれてやる。

 特集が終わって明るいニュースに切り替わる。キャスターたちの笑い声を聞きながら目を閉じ、自分の心臓の鼓動に意識を集中させる。止まれ。耳障りな笑い声も、鼓動も。そう願いながら、頭の中に、いつか見た幸せそうな三人家族の光景が、何度も浮かんでいた。



【続】

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