第13話

 微睡みの中で、ずっと甘い香りが漂っている。

 目が覚めると薄紫のライトに照らされた凹凸のある天井が目に入った。壁一面に均等に並ぶ羽を広げた鳥のようなデザインが、薄暗い室内に朧気に浮かび上がっている。仰向けになっているのは広いベッドの上で、頭を乗せているのは枕ではなく、細い腕だった。隣に美郷が眠っているのを見て、彼女とホテルに来たことを思い出す。

 頭を上げた途端後頭部に脈打つような痛みが走って、もう一度腕に頭を預ける。枕元の携帯の画面を見ると晴海さんからの着信が五件とメッセージが一件。一瞬何事かと思ったけれど、時計を見てすぐに分かった。一時五十分。午後の出勤時間を一時間以上過ぎていた。それだけでなく、朝刊配達の出勤まですっぽかしていた。ベッドから起き上がろうとしたけれど腕と腹に美郷の腕が巻き付いていて身体が動かない。仕方なくこのまま晴海さんからのメッセージを確認する。

『体調どう? まだ本調子じゃないなら休むのは大丈夫だから、一応連絡だけほしいな』

 すぐに返信をしようと携帯の画面をタップしたとき、ようやく巻き付いていた腕がゆるんだ。その隙に頭を押さえながら起き上がる。布団から出ると衣服を何も身に着けていないことに気が付いて慌てて回りを確認する。下着は布団の中から見つかり、シャツとパンツはベッドの下に落ちていた。それらをかき集めていたとき、名前を呼ばれた。

「明希? もう起きてたの?」

 布団から出て立ち上がった美郷を、下着を身に着けながら見上げる。彼女も同じく生まれたままの姿だった。その肌はライトに照らされていないにもかかわらず、壁の模様よりも白くはっきりと浮かび上がっていた。息をのむ。たるみのない胸、くびれの曲線、丸みを帯びた臀部。太腿から脹脛まですらりと伸びた脚。その全てに目を奪われた。脳からの司令がぱったりと途切れたようにさっきまでの焦燥感が消えてなくなる。携帯をベッドに置いて立ち上がると美郷が近付いてきて抱き締められ、私よりもおそらく十センチは高い彼女の胸に顔が埋まった。ミルクのような甘い香りが舞い上がり、微睡みの中で漂っていたのはこれだと、このときピンときた。

「昨日は楽しかったね」

 正直、酔っていたせいで昨日の記憶が曖昧だった。断片的な記憶を辿ると、美郷の声を聞きながらずっと全身に痺れるような甘い感覚が駆け巡っていたこと、それと同時に自分のものとは思えない声が勝手に口から漏れていたことを思い出した。生まれて初めてセックスをしたのだ。この女と。行為前と行為後では、こんなにも見える世界が変わるのか。大人になるというのは、ただ年齢を重ねればいいわけではないのだと思った。大多数の人間が愛し合う者同士でセックスをする。それならば、私たちはどういう関係になったのだろう。

「ねえ。私たちって、どういう関係?」

 聞くと美郷は私の目を数秒見つめてから微笑み、ベッドに腰を下ろした。そのまま何も言わない美郷にもどかしくなり、隣に座って横目で顔を覗き込む。昨晩は躊躇いなく触れられていたであろう身体になぜか手を伸ばすことができず、微笑んだままの唇が開くのをただじっと待つしかなかった。ひどく長く思えた数秒の後、彼女と目が合った。

「付き合うって、将来のこととか、お互いのいいところも悪いところも受け入れるとか、現実的なことを考えなきゃいけない。そんなの面倒だし、せっかく盛り上がった気持ちが萎えるでしょ? だから都合のいい部分だけを切り取った関係でいいじゃない。あたしたちで言えば、身体の相性ね」

 美郷の手がおもむろに伸びてきて、指先が私の胸にそっと触れる。それだけで快感の鳥肌が立つ。美郷の吐息がかかって、右手の人差し指と中指に残っている温かい感触がよみがえり指が疼いた。この肌から離れてしまうと季節に似合わない寒さに襲われるような気がして、贅肉のない骨張った背中に手を回し、引き寄せた。

「明希、もう一回だけしようよ」

 その声は耳から入って私の全身を容易く侵す。抗うことを不可能にする。返事をする代わりに、重ねた唇を強く吸い上げ応えた。



 ホテルを出て駅でタクシーに乗った美郷を見送ったあと、私は家までの数分の道を歩き出した。一人になると急に冷静になって、仕事を無断欠勤したことの焦燥感が戻ってきた。横断歩道の信号が青に変わるのを待っている間に携帯で晴海さんの電話番号を表示する。頭の中で晴海さんに何と言おうか考えながら深呼吸をする。画面をタップしようとすると指先が震えた。顔を上げるといつの間にか信号が変わっていて、曲がろうとしている車のドライバーがこちらを見ていることに気が付いて駆け足で横断歩道を渡った。心臓の鼓動が早くなる。考えていた言葉が頭の中から抜け落ちて、そのまま電話をかけるのを躊躇っているうちに家に着いてしまった。ドアを開ける。カーテンを閉め切ったままの薄暗い部屋。出迎えてくれる姿はもう、ない。美郷に会いに行く前に玄関の床に放り投げたヘルメットとバイクの鍵を拾い上げすぐにドアを閉めた。駐輪場に置いているバイクに跨がりエンジンをかける。熱風が立ち上って額に滲んだ汗は、走っているうちに風で乾くだろう。



 お店に着くころには三時を回っていた。この時間なら皆夕刊配達で出払っていてお店には晴海さんしかいないはずだ。

「明希ちゃん。来てくれたんだね。連絡ないから心配したよ」

 思った通り、晴海さんはお店で一人、煙草を咥えながらチラシ折りの作業をしていた。無断欠勤をしたことをすぐに謝らなければいけないと頭では分かっているのに、私は晴海さんの顔を見ることができずうつむいていた。厳しく咎められる覚悟もしていたのに、晴海さんは何も言わず大きく背伸びをすると、チラシ折りの作業を一旦止めてゆっくりとした動作で新たな煙草を取り出し火をつけた。

「そういえば明希ちゃん、伊月ちゃんはどうしてる? 最近、連絡がつかないんだけど元気?」

 その名前を聞いた瞬間、薄暗い部屋が脳裏によぎる。話さなければいけない。伊月ちゃんの存在を知っている晴海さんには。

「実は……」

 口にしようとした途端、目に涙が滲んできた。幼いころからそうだった。何か思い切ったことを話そうとすると勝手に涙が出てくるのだ。誤魔化すために何度かまばたきをする。幸い晴海さんには私の目に冷房の風が当たり乾燥で涙が出たと思われたようで、リモコンで風向を調節してくれた。晴海さんがリモコンを壁の釘にかけたのを見たあと、私は唾を飲み込んで続けた。

「伊月ちゃん、出ていったんです」

 晴海さんは私の言葉に驚く様子もなく一言、やっぱり、と呟いた。

「昨日、明希ちゃんの区域の朝刊配ったときに最後のマンションの一階に女の子が座っているのが遠目に見えてさ。もしかしてと思ったんだけど」

 伊月ちゃんだ、と私はすぐに確信した。私を待ってくれていたのだろうか。それとも、初めて会った日と同じようにまたどこかに行こうとしていたのだろうか。バイクの鍵を握っている手に力が入って、手のひらに汗が滲んだ。

「事情は分からないけど、喧嘩でもしたのなら早めに話し合った方がいいんじゃないかな。夏休みが終わったら親御さんが帰ってきちゃうんでしょう?」

 伊月ちゃんと話し合う。できるだろうか。あの夜のことを思い出すと、自分の幼稚さが恥ずかしくなる。一体どんな顔で彼女に会えばいいのだろう。晴海さんに背中を叩かれたけれど足が動かなかった。その場で立ち尽くしながら、晴海さんが煙を吐き出すのを横目に見る。

「前にさ、伊月ちゃんと二人で話したことがあったんだけど」

 短くなった煙草の先を、晴海さんが灰皿に押し付ける。か細くなった煙が冷房の風であっさり千切れ空気中に混ざって消えた。

「伊月ちゃん、ずっと明希ちゃんの話をしてたんだよ」

「え?」

「あの子まだ若いけど、明希ちゃんのことをすごく分かってくれていたんじゃない?」

 そう言われてはっとした。伊月ちゃんと二人でパンケーキを食べに出かけた日のことが浮かぶ。あの日、気が付くと私は伊月ちゃんに自分のことを話していた。今まで誰にも話したことのなかった内面を、なぜか彼女には話せるような気がしたのだ。

 ──男だろうと女だろうと、明希は明希でしょ。

 ──ゼロじゃない、確かにここにいるんだから、存在に多数も少数も関係ないじゃない。

 あのときは思ったことを簡単に口にする彼女を甘いと感じていたけれど、それは間違いだったのかもしれない。今は涙が出るほど彼女の言葉が胸に響く。対して私は彼女に、何をしてあげられただろう。

 上階に繋がる階段の方から所長の電話の声が少しずつ近付いてくる。もう一度晴海さんに背中を叩かれた。

「所長には、明希ちゃんは張り切って営業に出たって伝えておくから。仲直りしたらまた三人で出かけよう」

 晴海さんの言葉に深く頷いてお店を飛び出す。バイクの前カゴに入れていたヘルメットを被る。もう、迷いはなかった。

 バイクのアクセルを全開にして住宅街の緩やかな長い坂道を上り、その先の大通りに出て、ひたすら真っ直ぐ走り抜ける。いつもの配達ルートをなぞりながら、頭の中だけは先にマンションに辿り着いていた。そこにはドアの前にしゃがみ込む華奢な姿があって、身体に似合わない大きなリュックを背負っていて、私が駆け寄ると驚いたように目を見開く。私はまず伊月ちゃんに謝って、よかったらまたいつでも泊まりに来てよと言って、約束をした日の明け方にまた彼女をバイクの後ろに乗せて走る。そのときには私が大好きな朝日を彼女にも見せよう。鳥たちの囀りも、澄み切った空気も、静かに白んでいく空も、一緒に。

 マンションに着くとすぐ、バイクのエンジンも切らずに走った。外階段を一段飛ばしで上り、エントランスを通過し、一階の廊下に出る。ドアの前に伊月ちゃんの姿はない。ドア横のインターホンを押した。応答はない。もう一度押す。変わらない。眩しいくらいの夕陽がマンション全体を照らしていて、額の汗が頬を伝い顎の下に流れ込む。エレベーターで上階から降りてきた住人が足を止めて訝しげにこちらを見る。いつものように新聞の営業に来ているふりをしようとしたけれど、今日はお店の制服を着ていないことを思い出した。胸を突き動かしていた衝動が急速に萎む。もしかするとすぐそこのコンビニにでも行っているのかもしれないと、ここでもう少し伊月ちゃんを待ちたかったけれど、管理人や住民に声をかけられたときの最適な説明が浮かばなかった。陽がドアに反射して暑さが増す。住民の視線の鋭さも増す。私は耐えきれず、うつむきながら足早にマンションを後にした。

 次の日もその次の日も、配達のたびに伊月ちゃんを訪ねたけれど彼女に会えることは一度もなかった。思えば私は伊月ちゃんに、夏休みがいつまでなのかを聞いていなかった。ほぼ毎日顔を合わせていたはずなのにゆっくり話をしたのは数えるほどしかなく、伊月ちゃんのことをほとんど知らないままだった。メッセージで聞こうと何度も文を作っては、今さら聞くなんてと結局送ることができずに消す。インターホンを鳴らすことにもだんだん躊躇いを覚えるようになり、配達後の外回りの時間にマンションの周りをうろうろすることしかできなくなった。仕事を終えて家に帰っても誰もいない。前はそれが普通だったはずなのに、喪失感が部屋中に漂っている。日が経つごとに私の部屋の中から伊月ちゃんがいた痕跡は消えていき、二人で過ごしたあの数週間がまるで夜明けの幻だったかのように思えてくるほどだった。

 私のことを待ってくれているなんて、とんだ自惚れだ。口から短い笑いが漏れる。何度訪ねても会えないことが、きっと彼女の答えだ。

 やけに暑さが厳しく感じた日、いつも以上に汗をかきながら配達を終えた私は、ついにマンションの周りをうろつく勇気さえ失ってしまった。お店に戻る途中、横切っていく景色たちに次々と顔を覗き込まれているような気持ちになった。自販機のある小道にバイクを停めて水を買い、タオルで身体の汗を拭いながら少し先を見ると、コンビニの前で数人の高校生たちがたむろしているのが見えた。その光景に、夏休みが終わったのだということを悟った。



【続】

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