第12話

 誰かの声が聞こえてくる。誰かが何度も私の名前を呼ぶ。心落ち着く声で、手放しで頼ってしまいたくなるような優しい声で。薄く目を開けるとそこには、髪をびっしょりと濡らした晴海さんの姿があった。

「明希ちゃん、起きられる? 怪我は、どこか痛いところはない?」

 はっきりとしない頭の中で晴海さんの言葉を反芻する。答えようとしたけれど声がうまく出せなくて代わりに頷いた。

 晴海さんの腕を借りてゆっくりと身体を起こすと、雨具の折れ目に溜まっていた水滴が自分の手を伝って地面に流れ落ちた。手をついていたところに生えていた草の露が反射してきらきらと光っていて、それを見て初めて空が明るくなっていることに気が付いた。ひんやりと透き通った空気を深く吸い込む。若草の匂い。湿った土の匂い。かすかな自動車の排気ガスの匂い。遠くで聞こえるバイクの音。犬が短く吠えている声。それらは全て、配達を終えて最後の家の前の高台で目を閉じたときに鼻と耳で感じているものたちだった。数メートル先に置いてある古びて苔むした自転車の足元にくしゃくしゃになった新聞が落ちているのが目に入ったとき、はっとした。配達を続けなければ。崖の途中で宙吊りになっていたはずのバイクを探そうと首を巡らせたとき、膝の上にそっと晴海さんの手が置かれた。

「明希ちゃん、バイクと新聞なら明希ちゃんの後ろにあるよ」

 振り返る。バイクはずぶ濡れでところどころに葉や小枝が張り付いていたけれど、しっかりとスタンドを立てて地についていた。散らばっていた新聞も綺麗に揃えられて前カゴに入っていた。崖を見上げる。落ちたときは自分の身長よりもはるかに高く思えたけれど、明るくなってから見てみると三メートルほどしかなかった。それでもバイクごと身体がゆっくりと傾いていったときの感覚を思い出すと身体から力が抜けて、立ち上がることができなくなった。

「あそこから落ちたのか。店の後片付けが一段落したころに何となく心配になって様子を見に来てみたらびっくりしたよ。でも、無事でよかった……」

 崖を見上げた晴海さんの手が私の背中を軽く叩く。その瞬間、急に目頭が熱くなって身体が勝手に震えだす。情けない、それなのに抑えることができなかった。もう何もかも終わりにすればいい、そう思ったはずなのに。

 私の髪をくしゃくしゃと撫でる晴海さんの手が温かい。生きている。一度死んで生き返ったのか、それとも臆病な本能が生にしがみついて離れなかったのか。

「立てる? ゆっくりでいいよ」

 晴海さんに差し出された手を掴んだ途端、身体に力が戻ってくる。立ち上がることができる。不思議だ。この人といると、自分にないものが漲ってくる。

 バイクに跨って見上げた空には、雲一つない澄み切った青が広がっていた。



 残りの新聞を晴海さんと手分けして配達し、六時半過ぎに二人でお店に戻ってタイムカードに打刻する。すぐに家に帰る気になれなくて椅子に座ってぼうっとしていたら晴海さんに顔を覗き込まれた。

「今日はいつも以上に疲れたでしょ。よかったら私の家で休んでいきなよ。すぐそこだから」

 晴海さんが住んでいるのはお店の寮で、本当に歩いてすぐのところにあった。シャワーを借りて雨でずぶ濡れの髪と身体を流し、晴海さんが貸してくれたTシャツを着る。髪を乾かした後ベッドに促され横になった途端、思い出したかのようにやってきた疲労感。瞼を閉じると、身体に染み込んだ雨の冷たさと、口の中で広がった泥の苦味と、崖から落ちる寸前の心臓が浮き上がるような感覚が一度によみがえった。うつ伏せになって枕に顔を埋め、染み付いている晴海さんの香りを胸いっぱいに吸い込む。心が穏やかになると同時に、改めて自分の臆病さに呆れた。

 結局、何もかも終わりにするのは怖いのだ。

 頭の中でどんなに願っていてもその方法は偶発的なものにばかり頼り、自分では何も考えていなかったのだ。温かい布団の中で、自分の弱さを痛いほど思い知った。

 しばらくして、シャワーを終えた晴海さんが戻ってきた。

「ベッド一つしかないから狭くて寝づらいかもだけど、ごめんね」

「いえ。逆に、お邪魔してすみません」

「私が誘ったんだから明希ちゃんは気にしないで」

 タオルドライのみで髪がまだ少し湿ったままの晴海さんが、カーテンを隙間なく閉めてベッドに入ってくる。静寂のせいか布団の擦れる音がやけに耳に響く。密着する腕と腕。晴海さんの肌はシャワーを浴びて間もないからなのか、それともうだるような暑さの中を帰ってきたからなのか、熱を持っていた。仰向けの体勢からふと視線を感じて横を向いた。薄暗闇の中で、吸い込まれそうなほどの大きな瞳が、私をじっと見つめていた。

「こんなに布団が温かいの、久し振りだな」

 晴海さんと一緒に寝た人は今までにどのくらいいるんだろう。そしてこれから寝る人は、どのくらいいるんだろう。晴海さんを見つめ返してそんなことを考えていたら晴海さんが布団を肩までかけてくれる。布団の中の生温かい空気が舞い上がって、ボディソープの香りが広がった。

「ねえ、明希ちゃん。好きなだけここにいていいよ」

 その言葉から程なくして、晴海さんの寝息が聞こえてきた。規則正しいその音を聞きながら私は、この人も寂しいんだ、と心の中で呟いた。



 その日の午後は晴海さんの言葉に甘えて仕事を休み、昼過ぎになってもベッドの中にいた。念の為病院に行くことを促されたけれど、どうしても動く気になれなかった。数時間前まで晴海さんが隣で寝ていたせいか布団が広く感じて隣に移動しては戻ってを繰り返し、そのうちに飽きて元の場所に戻った。仰向けになって首だけを動かし、部屋の中をぐるりと眺める。

 晴海さんの部屋は、今朝入ったときはそれなりに広く思えたけれど、よく見ると荷物が少ないからそう見えるだけで実際は六畳ほどしかなかった。長方形の小さな木目テーブルとグレーのゴミ箱。カレンダーもポスターも時計も何もない白い壁。殺風景な空間の中で、一番の存在感を放っているのがこのベッドだった。

 このベッドの上で服を脱ぎ去り、身体を揺らす晴海さんを想像する。汗で額に張り付く髪が艶めいている。それを眺めているとまた、自分の下半身に形のないペニスを感じた。ひとりでに意思を持ったそれが熱くなり、瞬く間に勃起する。目を閉じて瞼の裏の暗闇に意識を集中させると、晴海さんが私の身体の上に跨ってきた。ペニスが実体化する。ああ、と思わず声が漏れる。晴海さんの中に、ゆっくりとペニスが沈んでいく。その温かさだけで頭が真っ白になりかけて歯を食いしばる。晴海さんが腰を浮かせ、また下ろす。その動きに連動してあ、あ、と断続的な声が降ってくる。それから程なくしてペニスの先から溢れ出たものが晴海さんの中を勢いよく泳ぎ、やがて緩やかな動きに変わり、熱帯の海の中で流れに身を任せ揺蕩う。乱れた息を整えながら急速に冷静になった頭で恐る恐る晴海さんの顔を見上げると、晴海さんは眉根を寄せて恍惚の表情を浮かべていた。倒れ込んできた身体を受け止めると唇が重なった。吸い上げられ、舌先でなぞられを繰り返し、下唇に痺れを感じてきたとき、下半身が弾けるように熱くなった。全身が細かく痙攣し、ベッドの軋む音で目を開けた。乱れた息。想像か現実か、一瞬分からなくなって身体を起こした。下半身にそっと指を伸ばす。濡れている。晴海さんの中に流れ込んだもののように、次から次へと溢れてくる。でもここに、ペニスはない。瞼の裏の晴海さんも前のように睨んではこなかった。それらが、全て想像の景色であることを表していた。



 それからしばらく仰向けになってエアコンの稼働音を聞きながらぼんやりと天井を眺めていたらいつの間にか外が暗くなっていて、時計を確認しようと起き上がったとき、玄関から鍵を開ける音が聞こえた。

「明希ちゃん、体調はどう? ゆっくり休めた?」

 ヘルメットをシューズボックスの上に置いて部屋に入ってきた晴海さんが想像と同じく額に汗を滲ませ髪を乱していて、どきりとする。咄嗟にふやけた指先をポケットに入れた。

「もう大丈夫です。ご心配をかけてすみませんでした」

「病院には行った?」

「えっと……動けなくて。後でちゃんと行きます」

 うんうんと二回頷いた晴海さんが、手に持っていたビニール袋を掲げる。中には弁当とアイスが二つずつ入っていた。

「お腹空いてるでしょ? 一緒に食べよう」

「はい。ありがとうございます」

 晴海さんから受け取ったアイスを手で包み込んで、指先をそっと冷やした。



 晴海さんの家を出て、お店に置いたバイクを取りにすっかり暗くなった道を歩く。横断歩道を渡り終えたところで手に持っている携帯の画面が光った。ショートメールの通知が一件。番号を見てすぐに思い出す。夜中に着信のあった、あの知らない番号だった。思わず足を止めて画面をタップする。


『突然ごめんなさい。

この間のバーで晴海に連絡先を聞いていたの。

よかったら、連絡ほしい。 美郷』


 美郷。バーで会ったあの女だ。あの顔を思い出すと、甘ったるいカルーアミルクの味がよみがえる。どうして連絡をしてきたのだろう。返信をすべきだろうか。迷っている間に横断歩道の青信号が点滅して赤に変わる。猛スピードの車がすぐ後ろを通過して、生温い風が急かすように背中に吹き込む。瞼を閉じた。家に帰れば、待っているのは真っ暗な部屋だ。


『今から会える?』


 指先の汗が画面に跡をつける。それを上からもう一度なぞって消す。夕方まで陽が出ていたことが嘘のような深い暗闇の中で唯一浮かび上がる携帯の画面を、その場でしばらく見つめていた。



「本当に会ってくれると思わなかった」

 美郷と待ち合わせをしたのは、駅前にある小さな居酒屋だった。バーで会って以来の彼女は雰囲気ががらりと変わってまるで別人のようで、言葉を交わすことを一瞬躊躇ってしまった。目元のメイクがナチュラルになり、キツめだと思っていた顔つきはメイクのせいだったのだと知った。

 なぜ彼女と会おうと思ったのか、自分でもよく分からない。分からないままに、暇だったからだと自分に言い聞かせた。

「何飲む?」

「ビール」

 答えると急に美郷が噴き出した。

「晴海と飲んだ子って、しばらくビールブームが来るの」

 私が返す言葉に迷っているうちに研修中の札をつけた店員がやってきておしぼりを置いていく。美郷が慣れたようにビールとカルーアミルク、それから焼き鳥の盛り合わせと馬刺しを注文し、店員が去った後テーブルに身を乗り出して顔を近付けてきた。

「それで、あれから晴海と何かした?」

「してない」

「へえ。本当に何も?」

 キスされたことを言おうと口を開いたとき、隣の席のサラリーマンの団体が突然どっと笑い声をあげた。相当酔いが回っているのか、話し声も大きい。思わず隣を睨みつけたとき、お盆を持った店員と目が合った。焼き鳥の盛り合わせが目の前に置かれ、タレの香りが鼻をくすぐる。店員がテーブルに置くより早く美郷がビールとカルーアミルクをお盆の上から取る。店員も慣れた様子で美郷とアイコンタクトをして軽く会釈をし、去っていった。

「あたしたちもあれくらい騒いでやろう」

 まるでいたずらっ子のようにはにかむ美郷に促され乾杯をし、ビールを一気飲みする。そんな私を見た美郷が手を叩きながら笑い、私の真似をしてカルーアミルクを一気飲みする。飲み干してすぐ美郷が大声で店員を呼び、また同じものを注文する。待ち構えていたかのようにすぐに届いた二杯目。美郷がさっきと同じ店員にウインクをする。そこでピンと来た。美郷がここの常連で、いつも同じものを頼んでいるのだということに。どうりで注文したものが届くのが早いわけだ。

 二杯目も一気飲みすると頭がぼーっとしてきて、早くも酔いが回ってきたのが分かる。テーブルの上で手をつけられないまま冷えていく焼き鳥と、存在を忘れられたように端に置かれた馬刺しが寂しそうに見える。もしこれらに目がついていたら、潤んだ眼差しで見つめられていたに違いない。焼き鳥に手を伸ばしたとき、三杯目が届いた。美郷が何かの合図を送っているのか、それとも暗黙の了解なのか、毎回注文しなくても店員が頃合いを見て運んでくるようだ。美郷が馬刺しを箸でつつきながら笑う。

「でも、晴海が一緒に飲んだ子に手出さないの、珍しいな」

 飲もうとした三杯目をテーブルに置く。もう、隣の団体の声は聞こえて来なかった。

「私、レズビアンじゃないから。女として見られたくない」

 ビールで頭がぼんやりしているとはいえ勢いで口にしてしまったことに自分で驚く。美郷からも晴海さんのときのような反応が返ってくると思っていた。でも彼女は私を見つめたまま、少しも表情を変えなかった。

「何となくそうなんじゃないかなって思ってた。初めて会ったとき、あなたから女を感じなかったもの」

「じゃあ何で連絡してきたの」

「あたし、好きになったら関係ないの。性別なんて」

 口の端についたカルーアミルクを舐めとる舌の動きから目を離せずにいると、美郷がこちらを向いて目を細めた猫のような表情を浮かべた。

「ねぇ。あたしのこと、抱いてみる?」

 好きでもない人間を抱くのは、一体どんな気持ちなのだろう。そもそも誰かを抱いたことすらない私には、想像もできなかった。

 近くにホテルがある、という美郷の後に続いて居酒屋を出て歩き出す。たった二回しか会ったことのない女とホテルに行くなんてと思ったが、酔った頭で正常な判断ができるはずもなく、ただ純粋に好奇心が勝っていた。ホテルのシステムは全く分からなかったため、美郷が選んだ部屋にただ着いて行った。エレベーターを降り、キーに書かれた部屋番号に到着する。ドアを開ける。煌びやかな壁のデザインに、広めのベッド。ドアを閉め、部屋の中まで入ってバッグを投げるように置いて向き合う。美郷の手を掴み、指を絡ませる。見つめ合い、どちらからともなく近付いていく顔と顔。形のいい唇が少しだけ開いて、吸い寄せられるようにそこに自分の唇を重ねた。鼻をかすめるファンデーションの香り。閉じられた目、細かく揺れる睫毛。そこで初めて、美郷をいい女だと思った。女を抱いた経験は一度もないはずなのに、自然に身体が動く。指先が肌を求める。潤んだ目が求めていることが手に取るように分かる。

「ベッド、行こう?」

 苦しそうな声がそう言う。美郷の腰に手を回しながら部屋の奥のベッドの方に移動する。美郷を押し倒す。シャツをまくり上げ、ブラジャーを乱暴に外す。露わになった乳首を口に含む。甲高く響き渡る声を聞きながら、カルーアミルクのような声だと思った。

「明希……っ」

 名前を呼ばれることは、こんなにも心地いいものだったのか。愛おしさとは違う、でも限りなくそれに近い、心安らぐ温もりを感じた。



【続】

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