第11話

 薄暗闇の中で、頭上から何かがものすごい勢いで降り注いでいて、周りの誰もが傘を差しているのに私だけが何も持たずに目に見えない何かをただ一身に浴びている。私の全身にじっとりと張り付き毛穴の一つ一つにまで染み込んだそれは私の身体をどんどん重くし、やがて私は身動きが取れなくなって、声を出すことも呼吸をすることもできなくなって、静かに暗闇の中に溶けていく。




 目が覚めると、外から雨の音がしていた。全身にかいている汗がやけにべったりとしていて気分が悪い。

 夢の中で微かに聞こえていた聞き覚えのある音楽、それが何だったろうかと常夜灯をぼんやり眺めながら考えていたら、携帯の着信音だと気付いた。いつも枕元に置いているはずの携帯が布団から少し離れたところにあって、手だけを伸ばして掴む。ロック画面に不在着信の通知。知らない番号。携帯を手放してまた目を閉じたとき、再び着信音が流れた。

「明希、電話鳴ってるよ」

 音で目を覚ましてしまったのか、伊月ちゃんが布団から出て私の携帯の画面を覗き込んでいた。

「知らない番号だからいいよ」

「ううん、お母さんからだって」

 顔を上げる。こんな時間に母親から電話が来るのは初めてだった。夜中は仕事で忙しいことは分かっているはずなのに、なぜかけてくるのか。

「いいよ、放っておいて。どうせいつも大した用じゃないんだから」

「何で? 出なきゃお母さんかわいそう」

 携帯を差し出す伊月ちゃんを無視しようとしたけれど、真っ直ぐな眼差しと鳴り続ける着信音に急き立てられ、布団からのろのろと起き上がって携帯を受け取り電話に出た。

『もしもし明希ちゃん? ごめんね寝てたかな。あのね、台風が近づいてきてるでしょ、あんたこんな雨がすごい中でも配達するの?』

「当たり前でしょ、仕事なんだから。雨だから早めに出勤するからもう切るよ」

 案の定、大した用事ではなかった。だから電話に出たくなかったのだ。私はうんざりしながら会話を早々に切り上げて電話を切った。携帯を布団の上に放り投げ溜め息をつく。

「いつもいつも大袈裟なんだよ、全く」

「心配してるんだよ、明希のこと。大切に思ってくれてるなら当然でしょ」

「私のことなんて何にも分かっちゃいないくせにっ」

 私が上げた声に、騒がしかった雨が怯んだかのように弱まる。常夜灯だけが朧気に照らす部屋の中で伊月ちゃんが身体を固まらせているのがわかった。頭が痛い。気分が悪い。今すぐにシャワーを浴びたい。そう思うのに動けず、心の中で自らの重い身体を叱責した。

「私、家に帰るね」

 ややあってから、伊月ちゃんが呟くような声で言った。壁際に置いていたリュックにおもむろに手を伸ばし、回りに置いていた私物をかき集め、リュックを背負って立ち上がる。私が横になっていた布団を跨ぎ、玄関に向かう短い廊下を進み、しゃがんで靴を履く。彼女の一つ一つの動作を薄暗闇の中で私はぼんやりと眺めていた。ドアが開いて外の雨の音が大きくなる。ドアの向こう側に消えた大きなリュックとそれに似合わない小さな背中が、最後までこちらを振り向くことはなかった。

 室内に静寂が戻ってすぐ、私は布団を頭まで被って目を瞑った。重々しく閉まるドアの音が耳の中で何度も繰り返されていた。目覚めたときの汗はもう引いていたけれど、気分は一向に優れないままだった。知らない番号の着信通知が残る携帯が、急によそよそしい顔をして、私の方を向いていた。




 叩きつけるような雨の音で全く寝付けないまま出勤する時間になった。強めのシャワーを頭から浴び、髪を乾かすのも億劫で適当にタオルドライをして歯を磨き、着替え、その上にレインコートをしっかりと着込み家を出る。大粒の雨に目を細めながらバイクを走らせているうちに頭が冷静になってきて、伊月ちゃんに声を荒らげてしまったことを今さらになって悔やんだ。配達が終わったら彼女の家に寄ろうか。迷っているうちにお店が見えてきた。マンションの前に着いたら考えよう。私は思考に一旦蓋をした。

 雨は勢いを増していく。視界の悪さと雨水が服に染み込んで肌に張り付く不快感に耐えながらお店に着いてバイクを停めると、窓越しに濡れた髪や身体をタオルで拭き取っている皆の姿が見えた。入り口でレインコートを脱いでハンガーに掛けているとガラス戸が開いて、中でラッピングマシンの準備をしていた晴海さんが出てきた。

「明希ちゃん、今日の配達大丈夫?」

 雨の音で、いつもはよく通る晴海さんの声が少し遠くに聞こえる。私が一拍遅れて返事をすると、晴海さんは私の背中に腕を回してそのまま私を中に入れた。ガラス戸が閉じられると室内の生暖かさと嗅ぎ慣れた煙草の香りにほっとする。

「だいぶ慣れたとは言ってもこの天気じゃ大変でしょ。私今日は配達ないし、後半手伝ってあげるから途中まで配って早めに帰っていいよ」

「ありがとうございます。でも、大丈夫です。どんな天気にも慣れておかないといけないので」

 私がそう答えると晴海さんは「本当に気を付けてね」と念を押して言い、奥の部屋に入っていった。こめかみから垂れてきた雨水を手の甲で拭いながら、私は一呼吸して気を引き締めた。

 それからすぐ新聞が届いて皆がいつもより慌ただしくチラシを挟み、ラッピングをする。二台しかないラッピングマシンのうちの一つが途中で不調になり、一台を皆で譲り合いながら使い、私が全ての新聞にラッピングをし終えるころにはもう周りは出発していた。時計を見るといつもの出発時刻をかなり過ぎていて、私はレインコートを着て駆け足で新聞をバイクに積み、出発した。

 弱まる気配のない雨が容赦なく全身を打つ。ビニールに包んだ新聞に雨水が染み込んでいないことを祈りながら次々とポストに入れていく。狭い坂を下り、坂の途中を曲がったところにある家の前にバイクを停めようとしたとき、ふいに頭上で空を裂くような雷の音が響いた。見上げると長い稲妻が一瞬見えて、私は先を急ごうといつもより手前でバイクのブレーキをかけて同時にスタンドを下ろそうと足をかけた。瞬間、足が滑り、両足が浮いたままバイクがゆっくりと傾いた。しまった、と心の中で呟いたのと同時に草や蔓の茂った低い崖が足元に見えて、私は身体を横殴りになった雨に押され、短い声をあげることしかできなかった。

 ヘルメット越しに頭に響く衝撃、湿った地面の上で一回転する身体、口に入ってきた泥のざらつき、背中を擦った草の臭い、宙を舞ってあちらこちらに散乱した新聞。蔓に絡まり崖の途中で逆さ吊りになったバイクのエンジンが切れ、雨の音だけが耳に入ってくる。痛みはなかった。ただ雨の冷たさがさっきよりも増したような気がした。遅れてやってきた肩の痺れがじわじわと全身に広がり頭がぼんやりとしてくる。泥と水が混ざった味が口の中に広がり口元が歪む。

 真っ暗で、冷たくて、身体が重い。まるで、夜中に見たあの夢が正夢になったようだった。いつも配達を終えて見上げる透き通った空を思い出す。同じ空のはずなのに、こんなにも表情が違うなんて。

 こんなところで、自分は一体、何をしているのだろう……。

 仰向けになったまま目を閉じると、自分がひどく情けなく思えてきた。今までの環境を抜け出し自分で選択した今の生き方は、ただ周りの誰かを悲しませる結果にしかならなかったのかもしれない。電話での母親の言葉が頭の中に蘇る。続いて去り際の伊月ちゃんの表情が浮かぶ。罰が当たったのだと思った。いっそのことこのまま雨に打たれ続け全身を穿たれてやがて消えてしまえばいいと思った。

 世間に流されるままの生き方ではない、自分が望む生き方をしたかった。けれどもう何もかも終わりにしてしまえばそれが一番楽なのではないかと、夢の中で見た暗闇で一人立ち尽くす私が、囁いたような気がした。



【続】

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