第10話
やけにどんよりとした雲が空を覆う日だった。
ふと見上げた空が、ときどき鏡のようだと思うことがある。自分以外見えるはずのない心、それを曝け出してしまう鏡。そこで私は、見ないふりをしていた感情の答え合わせをする。今日の空は、そんな私を優しく見守るように、時に冷たく蔑むように、ただじっと、そこに存在している。
お店の駐車スペースにバイクを停めてすぐ、お店の前に設置された自販機の前に晴海さんの姿を見つけた。煙草を咥えている唇に自然と目が行く。日付が変わる前にバーを抜けて酔った頭で真っ暗な空の下を歩いて帰路についたから、あのときのキスを夢だと無理矢理思い込むこともできたけれど、そこに触れたときの感触があまりにも鮮明に残っていて、思い出すたびに胸の端がひりついた。
「明希ちゃんおはよう」
「おはようございます。昨日は途中で帰ってすみませんでした」
「ううん、私も久々のイベントで飲みすぎちゃって、カウンターに置いてけぼりにしちゃってごめんね」
暑いから中に入ろう? と晴海さんがドアを開け、促されるまま中に入る。唾を飲み込む音が聞こえそうなくらい静かな室内で、晴海さんの”置いてけぼり”という言葉が頭に残る。もしかしたら晴海さんは、キスをしたことを覚えていないのではないか。そのくらい晴海さんにとっては、ただ息を吸って吐くような、無意識にでもできる行為なのか。ドアが閉まる音を聞いた後、振り返って晴海さんを見た。
「あの、晴海さん。話があって」
何を言われるのか全く検討がつかないというような表情の晴海さんと目が合った瞬間、喉が震える。ここで「何でもないです」と笑みを浮かべることができたらどんなに楽だろうか。それでも、言わなければいけないと思った。浴室で目を閉じて晴海さんを浮かべたあのときに。晴海さんから向けられる眼差しや言葉やキス、全てが、嬉しいものから苦しいものに完全に変わってしまう前に。
「私……多分、レズビアンじゃないんです」
言った途端、晴海さんの目が見開かれる。その瞳に動揺の色が浮かんだように見えて、一瞬言葉を続けるのを躊躇ってしまいそうになるけれど、下唇を一度噛んで息を吸い込んだ。
「女性として扱われるのに、違和感があって……」
口に出して確信した。これが、答えだ。今まで心の中に漠然とあった違和感。生きづらさ。晴海さんと出会って新しく知った世界で、それを知ることができた。でも、知ることができたはずなのに、私の感情は自分でも驚くほど冷めていた。何かが変わるかと言われたら何も変わらない。周りに見える景色も、人も、変わらない。知った、という事実がただそこにあるだけだ。
「話してくれてありがとう」
いつもは柔らかく感じる晴海さんの笑顔に、温度を感じなかった。閉じられた口。そらされた目。奥の部屋に入って煙草を吸い始めた晴海さんの背中は、見慣れているはずなのになぜか全く知らない人がそこにいるように感じた。
この瞬間、私は、悟った。
もう、晴海さんに誘われることはないのだろう。晴海さんの目に映っていた私はきっと、身体と心に忠実で、晴海さんに導かれることをいつも切望していた。決して、瞼の裏に晴海さんをあられもない姿で立たせ、獰猛な欲望を一方的に膨らませたりはしない。でもそれらは紛れもなく私であり、同時に私ではなかった。どのみち遅かれ早かれ苦しくなっていたのなら、これでいい。そう言い聞かせてもまた喉が震える。
私は欲張りだ。ただ、そばにいてほしかった。話を聞いてほしかった。それすらももう、叶わないのだろうか。
晴海さんから以前集金で訪ねた安川房江さんが亡くなったと聞かされたのは、お店の前で、朝刊を運んでくるトラックをあくびを噛み殺しながら待っていたときだった。名前を呼ばれ振り向くと、晴海さんが中から手招きをしていた。
「昨日の夜連絡があってね。週一で通っているヘルパーの人が訪ねたときに、電気は点いているのに安川さんが出てこなかったみたいで。それで嫌な予感がして警察に連絡して家の中を確認したら、浴槽の中で息をしていなかったらしい。亡くなってから三、四日は経っていたみたいなんだけど、明希ちゃん、ここ最近安川さん家のポストに新聞が入ったままになってなかった?」
すっかり覚めた頭でここ数日の記憶をさかのぼる。安川さん家のポストはLを右に寝かせた形状のもので、投函物が奥の凹みに落ちるようになっている。そのため、ある程度配達物が溜まらないと外側からは見えにくい。それにしても三、四日は経っていたのなら、私がもう少し配達のときに注意していれば何か異変に気付けたのかもしれない。この数日、私は、読み手のいない新聞をひたすら配り続けていたのだ。何と一方通行で無機質な行為だったのだろう。
「あとちょっとで百歳だったのに残念だね」
晴海さんの言葉に、違う、と心の中で呟いた。老婆は望みを叶えたのだ。長い長い苦しみからようやく解き放たれたのだ。「よかった」、いや違う。「羨ましい」、いや違う。「おめでとう」、違う。湧き上がった感情に適した言葉が見つからず、床に目を落としていると、晴海さんに肩をそっと叩かれた。
「こういうことは、この仕事をしていると珍しいことじゃないんだ。だからそんなに気にしすぎないでね。後で順路帳の安川さんのところ、消しておいてね」
はい、とほとんど反射的に晴海さんに返事をして壁にかかっている順路帳を手に取る。皺のようなものが刻まれた木のテーブルの上で順路帳を開き、名前の上にボールペンで強く線を引く。最後の入浴中に彼女は何を考えていたのだろう。一日の疲れを洗い流しながら、漠然と明日のことを思っていたのか。それとも過去に思いを馳せていたのか。意識を失う間際はどうだったのだろう。眠るように安らかだったのか、それとも苦しかったのか。ボールペンを持つ手が震えだす。
歳を取るのが怖い、と強く思っていた時期がそういえば自分にもあったことを突然思い出す。高校生のときだ。今のうちにやりたいことをやって、ある日予期せぬ何かが起きてあっさり生が終わればそれが一番理想的な人生だと思っていた。でも現実は変化に乏しい平凡な毎日がだらだらと続いて、気付けば二十代に突入していた。もっと生きたかったであろう人が不慮の事故や事件、病気で亡くなったというニュースを目にするたびにやるせなくなった。長く生きたい人は好きなだけ生きられて、もう生きるのはたくさんだと言う人は眠ったらそのまま安らかに死ぬことができる、そんな世の中ならどんなにいいだろう。自分の意思とは関係なく生まれ、惰性で生かされるなんてあんまりではないか。せめて死ぬときくらいは好きにさせてくれたらいいのに。望んで生きることも望まず生かされることも表面的には変わらない。だから余計に苦しい。苦しい人に限ってもがき方すら分からないのだ。
十七時に配達を終えてお店に戻り、それからすぐに家に帰った。伊月ちゃんは濡れた髪のままテーブルに突っ伏して眠っていた。浴室の扉が半分開けっ放しになっていて、目に入った浴槽。吸い込まれるように浴室の中に入ってすぐ、靴下に冷たい水が染み込んで鳥肌が立った。水浸しの床を見つめ、それから顔を上げて、湯気で曇った鏡越しに自分の顔を見る。手で触れると生ぬるい肌、まばたき、鼻の穴を通る空気、開いては閉じる口。生きている。生き続けている。五十年後、六十年後、さらにその先はどうなるのだろうと考えたとき、ふと老婆の顔が浮かんだ。あの血色の悪い硬そうな肌や乾燥してひび割れた地面のような皺を。
考えていたら居ても立っても居られなくなり、浴槽に飛び込む。身体を折りたたんで膝に顔を埋める。このまま目を閉じていれば、全て終わりにできるのではないか。見ていないはずの老婆の最期の姿が鮮明に浮かび上がる。
私もいつか、ああなるのか――。
安川芳江に会ったとき、あんなにも恐ろしかったのは、自分の未来を垣間見てしまった気がしたからなのだ。
「あ……ああ……」
少しずつ、でも確実に近付いてくるこの恐怖からどうすれば抜け出せるのか。もう話してくれるはずのない老婆の顔を頭に思い浮かべながら、私は何度も問いを投げかけた。
ニュースキャスターが八月下旬の気候を繰り返し伝える。もうすぐ、夏休みが終わろうとしていた。
【続】
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