第9話 

 昼、アラームより先に目が覚めると伊月ちゃんの姿がなかった。メッセージや書き置きもない。仕事の日は鍵を閉める都合があるから、出かけるときは行き先と帰りの時間はいつも教えてくれるのに、うっかり忘れているのだろうか。伊月ちゃんに『鍵は集合ポストに入れておくよ』とメッセージを送り、手早く準備をして家を出た。

 晴海さんが誰よりも先にお店に来て仕事をしていることを知ってから、少し早めに出勤するのが日課になっていた。

 お店に到着すると、いつもは窓から見えるはずの晴海さんの姿がなかった。代わりにチラシ折りの作業をしていたのは所長で、ドアを開けてすぐ目が合う。

「おはよう稲本さん。早いね」

「あ……おはようございます」

 タイムカードの打刻をしながら奥の部屋も覗いたけれどやっぱりいない。

「晴海のこと探してる? 今日はあいつ休みだよ」

 晴海さんからメッセージが来ていないかと携帯に伸ばしていた手が止まる。だから今日はこの時間から所長が作業をしているのか。納得したと同時に身体から力が抜けた。シフトでは晴海さんは今日出勤だったはずだ。早めに来た理由がなくなり、どう時間を潰すかを考えなければならなくなった。担当区域の順路帳を手に取りペラペラと捲りながら読んでいると、作業を終えたらしい所長に声をかけられた。

「稲本さん、入ってまだ一ヶ月ちょっとなのによく頑張ってくれてるよね。仕事ぶりは晴海から色々聞いてるよ」

「いえ、まだまだです」

「晴海はずっと紅一点だったし、女の子が来てくれて嬉しいんだと思う。この業界は男の方が圧倒的に多いからさ。俺もすごく助かるから、これからもよろしく頼むよ」

 お辞儀をしながらふと晴海さんが休んだ理由は何だろうと思い立ち、尋ねようと顔を上げると、所長は既に二階の事務室への階段を上りはじめていた。呼び止める間もなくその姿は消え、静寂が訪れた室内でゆっくり息を吐く。晴海さんにメッセージを送る。休みの理由が知りたい。用事ができて出かけているのなら配達中にばったり会えるかもしれない。会いたい。話したい。



 晴海さんがいない日は他の皆もバタバタした様子で、家に帰ったのはいつもより一時間近く遅くなった。携帯を確認したけれど未だ晴海さんからの返信はない。

 集合ポストの中には鍵が入ったままだった。もう二十一時を回ったのに、伊月ちゃんはまだ帰ってきていない。メッセージもない。家に戻ったのだろうか? でもメイク道具の入ったポーチは口が開いたままテーブルに置かれている。

 二十一時半を過ぎたころ、インターホンが鳴った。伊月ちゃんだった。

「どこに行ってたの?」

「晴海さんに誘われて、ちょっとね」

 浮かれた様子の伊月ちゃん。まさか、晴海さんに会っていたなんて。

「晴海さん、今日仕事休んだんだけど」

「頭痛で動けなかったみたい。私が看病したからもう大丈夫だよ」

 お風呂入ってくる、という伊月ちゃんの声と重なって携帯の通知音が鳴る。晴海さんからのメッセージだった。


『明希ちゃん、心配してくれてありがとう。恥ずかしい話だけど、実は寝不足で頭痛がひどくて動けなくなっちゃって。でももう大丈夫』


『どうして私じゃなくて伊月ちゃんを呼んだんですか?』


 返信文を打ってからはっとし、急いで削除する。呼ばれなかったのは仕事が入っていたからだ。そう言い聞かせながら画面を見つめていると追加のメッセージが届いた。


『明希ちゃん明日休みだよね? 空いてる?』


 素早く顔を上げてカレンダーを確認する。明後日の休刊日に繋げて明日の午後から丸一日休みを取っていた。


『休みです。また晴海さんと二人で出かけたいです』


 文字を打つ手が汗ばむ。送信をタップしようとする指が震える。浴室のシャワーの音が止まり、扉が開く音がした。その瞬間、画面をタップした。既読。入力中の表示。


『よかった。私もちょうど誘おうと思ってたんだ』


 予想していなかった晴海さんの言葉に思わず携帯を握り締めながら立ち上がる。

「明希ごめーん、そこにタオル忘れた」

 背中から聞こえた伊月ちゃんの声。私はそばに置いてあったタオルを掴み、踵でターンして、浴室で顔だけを出した伊月ちゃんにタオルを差し出した。



 翌日。約束の十七時に晴海さんとバーの前に集合すると、ここまで走ってきたわけでもないのに心臓が忙しなく音を立てていた。

「今日は二階に行くよ」

 晴海さんの後をついて階段を上り、派手なネオン看板がかけられた扉を開けて中に入ると、一階のバーとは雰囲気が全く異なっていた。奥行きのある薄暗い店内。カウンター内に立っている細身でショートヘアのバーテンダーの後ろ、横長の棚にずらりと並ぶ、見たことのないデザインのお酒のビン。それらを朧気に照らす青白いライト。大音量の洋楽、それに合わせてわずかに身体を揺らす人たち。ハイテンポの重低音が心臓に響いて気分が悪くなりそうだった。

「今日、レズビアンのイベントなんだ。明希ちゃんを連れてきたくて」

 カウンターに向かいながら話す晴海さんの声が聞き取りづらく、その背中を必死に追いかける。こういったイベントに全く興味がないわけではなかったけれど、こんなに賑やかなものではなく、もっとしっとりとした音楽を聴きながら、意気投合した人と交流するものだと思っていた。こんな大音量の中で会話をするにはどれだけ声を張らなければならないのか。一緒に来たのが晴海さんでなければ今すぐにでも外に飛び出していたところだ。

「はい明希ちゃん、ビール」

 いつの間に注文してくれていたのだろう、晴海さんにビールのグラスを差し出される。続けて晴海さんがバーテンダーから受け取ったのは、ビールのように泡が乗っている赤い飲み物だった。何が入っているのかと不思議に思って見ていると、晴海さんと目が合って、その顔がぐっと耳元に近付いてきた。

「飲んでみる?」

 こんなに距離が近いのは公園で話したとき以来で、返す言葉に詰まる。ついさっきまであんなに耳障りだったはずの音楽が急に心地よいものに思える。大音量で音楽を流す理由が少し分かったような気がした。晴海さんからグラスを受け取り、一口飲んでみる。ビールに混ざってトマトジュースの味がする。

「美味しいでしょ、レッドアイ」

 一口目は違和感があったけれど、何口か飲むと悪くないと思えてきた。晴海さんといると、知らない世界に思い切って足を踏み入れることができる。また一歩大人になれた気がする。この人の隣にいられれば……。

「晴海」

 音楽が切り替わる一瞬の静寂の間に、湿り気を帯びたような甘い声がどこからか聞こえてきた。晴海さんが私から目をそらし、反対側を向く。

「美郷」

 晴海さんにそう呼ばれた彼女を見たとき、直感的に”晴海さんに抱かれたことがある女”だと分かった。久し振りに会ったのか、話が盛り上がっている。それをぼんやりと眺めているとふいに美郷と目が合った。

「可愛い。高校生くらいの男の子みたい」

 美郷が隣に寄って来る。晴海さんと同じく距離が近い。でも、胸が高鳴ることは全くなかった。むしろ身体が拒絶反応を起こし彼女から一歩後ずさる。初対面の相手にどうしてこんなに距離を詰められるのか。大きな目でじっと見つめてくるのも心地のいいものではない。彼女に気を取られていた数秒の間にふらりとどこかに歩いていった晴海さん。その後を慌てて追いかけようとしたとき、手を掴まれた。

「あたしと飲もうよ」

 美郷と話すのは乗り気ではなかった。まだビールを飲み終えていないにもかかわらず新たに差し出されたグラス。中身は分からないけれど小さめのグラスにミルクのようなものが入っていた。受け取りはしたけれど口をつけずにカウンターテーブルに置く。辺りを見回したけれど薄暗い照明とさっきよりも増えた客に視界を阻まれ晴海さんを完全に見失ってしまった。もうどのくらい飲んでいるのか、さっきと目付きが変わった美郷の顔に余計にうんざりした。

「ねぇ、まだ名前聞いてないんだけど」

「明希」

「何歳? まさか本当に高校生じゃないよね」

「二十歳」

 美郷が大声を上げて甲高い声が耳に響く。

「成人してたんだ、よかった。しかも女の子だったんだね」

 胸元に伸びてきた美郷の手を思い切り振り払う。触るな、と言いたかったけれど少しもブレることのない眼差しが棘のように刺さり、上手く声が出ない。酔いが回れば気にならなくなるだろうかと、ビールを一気にあおった。

「すごい。結構飲めるんだね」

 美郷が笑って、湿った吐息が顔にかかる。晴海さんと初めて飲んだビールはあんなに美味しく思えたのに、今は苦味だけが口の中に残った。

「明希。あなたのこと色々教えてよ」

 そう言いながら美郷がテーブルの上のグラスに手を伸ばす。それは晴海さんが置いていったレッドアイだった。グラスに吸い付くように口をつけたその仕草がまるでキスをするときのようだと思ってしまったのは、少し酔いが回ってきたせいだろうか。

「今恋人は?」

「いない」

「キスは? セックスはしたことあるの?」

「ない」

 答えてすぐ美郷がクスリと笑う。それに無性に腹が立って、さっさとこの女から離れて晴海さんを探しに行きたかった。身体の向きを少しずつ変えてタイミングをうかがっていたとき、手首を掴まれ顔を覗き込まれた。

「あんた、晴海のこと好きなんでしょ」

「うるさい」

 やっと口にできた一言は弱々しく、音楽にあっさりとかき消されてしまった。全て見透かされている。この眼差しと笑みに。私はただ美郷を睨み付けることしかできなかった。

「あたし、晴海としたことあるよ。キスも、セックスも。どうしたら晴海にしてもらえるか、知りたい?」

「知りたくない」

「晴海に抱かれたかったら、女になることだよ。身も心も」

 頼んでもいないのにべらべらと喋るその口をどうすれば塞げるかとスカートから覗く太腿に手を伸ばすと、美郷が目を見開き、それから甘い声を出した。もうどうにでもなればいい。手を伸ばしたビールのグラスは空で、その隣の、さっき美郷から受け取ったグラスに口をつける。予想していなかった甘ったるさにむせ返ったのと同時にクラ、と目眩がした。

「カルーアミルク、甘くて美味しいでしょ。あたしのお気に入りなの」

 美郷がカウンターチェアに座って、彼女の太腿に置いていた私の手をスカートの中に導いていく。熱い。身体の中心に近づくほどに。

「あたし、歳下に触られるとすごく反応しちゃうの……」

 女性の身体に触れるのは初めてだったのに、指が自然と肌に吸い付くような感覚があった。グラスをテーブルに乱暴に置いて彼女の豊満な胸を鷲掴みにする。甘い声に吐息が混じった。こんなことをしていても周りは誰もこちらを気に留めない。皆、自由の楽園を見つけたかのように誰かと笑い、誰かと触れ合い、何の柵もないこの場所で”自分らしさ”を一生懸命吐き出しているのだろうか。

 首の後ろに美郷の腕が回ってきて、抱き着かれたと思う間もなく唇が触れる。熱い吐息と舌が口内に流れ込んでくる。そこで急激に酔いが覚めて、美郷の肩を押す。横目でテーブルを見やると、グラスの中に少しだけ残ったカルーアミルクが小さく波打っていた。美郷を引き剥がし、それを全て飲み干し、彼女を置いてその場を離れた。

 人混みをかき分け、目を凝らし、店内をくまなく探してやっと見つけた晴海さんの姿。だいぶ飲んだのか、隅のソファー席で背もたれに身体を預けて目を閉じている。隣に座るとその目がゆっくりと開いた。

「あれ明希ちゃん……美郷は?」

「私は晴海さんと飲みたいです」

「ふふ……可愛いね」

 呂律が上手く回っていない晴海さんの手がときどき腰に回ってきて、そのたびに身体が熱を持つ。晴海さんの首の後ろに腕を回し顔を近付けると晴海さんの方から唇を重ねてきた。初めてのキスは晴海さんがよかったけれど、済んでみれば一瞬で、そんなにこだわるほどのことではないのだと思った。このまま永遠に触れていたい。この自由の楽園で。

 ――晴海に抱かれたかったら、女になることだよ。身も心も。

 ふいに頭に美郷の言葉がよみがえる。抱かれるということは、美郷の言葉の通りになるということだ。抱かれたい。違う。抱きたい。晴海さんを抱きたい。晴海さんも、あの女のような声を上げるんだろうか。カルーアミルクのような、甘ったるい声を。



 家に帰ると身体に滲んでいる汗がやけに気になってすぐに服を脱ぎさった。浴室に入ってから下着を脱ぎ忘れていることに気が付いたけれど、そんなことはどうでもよかった。

 シャワーを捻って目を閉じる。瞼の裏に晴海さんが現れる。片手をそっと太ももの内側に伸ばす。ふやけた指先で肌を撫でるとぎゅう、と擦れて鳥肌が立った。下着に指を押し当てたとき、そこにペニスがあるような錯覚に襲われた。深く息を吸い込む。晴海さんの香りがする。手を伸ばす。肌に触れる。その瞬間、瞼の裏の晴海さんが鋭い目付きで私を睨む。快感が一瞬で萎んだ。

 違う。

 私の身体の中心がどれだけ大きく熱くなろうとも、晴海さんは決して、それを受け入れてはくれない。蔑むような目で見られた私の中心は、自らの手の中で虚しく果てるだけだ。

 壁の向こうからテレビの音が聞こえてくる。それに混じってときどき伊月ちゃんの笑い声も聞こえてくる。晴海さんが伊月ちゃんを抱いている光景が頭に浮かんでは消え、今度は美郷を抱いている光景が浮かんでは消える。晴海さんが誰かを抱くたびに、私は虚しく自身を慰める。そちら側に行きたくて、私はやがて私の中心を何度も何度も殴り付ける。

 浴室から出るとちょうど伊月ちゃんがテレビを消して立ち上がったところで、「私も入ろうかな」と呟いた。そばのテーブルに置いてあったドライヤーを渡してくれた彼女の目を、直視できなかった。



【続】

 

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