第8話
休日の昼過ぎ。お腹が空いた、と言う伊月ちゃんを連れて街へ出た。雲一つない空を見上げると太陽がやけに眩しく感じて両目をぎゅっと閉じては開いてを繰り返していると、伊月ちゃんが足を止めて「あっ」と短く声を上げた。
「ここのお店、ずっと気になってたんだよね」
彼女が指をさしたのは若い女子の間で流行っているらしいスイーツのお店だった。入口に立てられている看板に人気メニューのパンケーキの写真が載っている。分厚いパンケーキの上にタワーのように盛られた生クリームは並みの甘党では完食できないと言われ、SNSに載せるために注文をした女子高生たちが写真だけを撮って肝心のパンケーキをまともに食べないまま帰ってしまうということが多発し、ネットのニュースになっているのを見たことがあった。
「食べきれるの?」
「もし食べきれなかったら残りは明希が食べてよ」
私は甘いものはあまり得意ではない。パンケーキを目の前に置かれただけでお腹がいっぱいになってしまいそうだ。そんな私の思いはつゆ知らず軽快な足取りで店内に入っていく伊月ちゃんの後を、しぶしぶ追いかけた。
席に座っている客はほとんどが男女二人組で、なるほどこういうところはカップルに人気なのかと店内の装飾を眺めていたら、壁に貼ってあるポスターが目に入った。そこには「期間限定! カップル割引サービスデー」と書かれていて、カップルで入店すると定番メニューが安くなるというものだった。
「お客様、二名様でよろしいですか」
慌ただしく席に料理を運んで回っていた店員がこちらに歩いてきて、私が頷こうとした瞬間、伊月ちゃんが言った。
「カップルです」
「えっ」
伊月ちゃんもあのポスターに気付いたのだと思ったけれど、いくら割引になるからといっても果たしてカップルで通るのだろうか。伊月ちゃんを見ると、店員と目を合わせたまま彼女が私の手を握ってきた。
お席にご案内します、と店員に誘導され窓際の二人席に座ってすぐ、伊月ちゃんが噴き出した。
「明希のびっくりした顔、面白かった」
「あのポスター、見たんでしょ」
「ポスターって?」
私が指をさすと、伊月ちゃんは驚いたように目を見開いた。
「全然気付かなかった」
「じゃあどうしてカップルって言ったの?」
「言ってみたかったから」
私は返す言葉に詰まってテーブルの上のメニューに目を落とした。伊月ちゃんもやや身を乗り出して覗き込んでくる。彼女は迷いなくパンケーキに決め、私は少し迷って他と比較して甘さが控えめと書かれていたチーズケーキに決めた。
注文を済ませ店内を改めて見渡す。さっきまでカップルでほぼ埋まっていた席は数組を残して空き、窓際は私と伊月ちゃんだけになった。頭上のクーラーの冷風が身体にもろに当たり、外にいたときにかいた汗が冷えて鳥肌が立つ。それを紛らわせようと眩しい日差しが照りつける外の景色を眺めた。この街に来て一ヶ月が経ったけれど、仕事に慣れるのに必死で配達区域の風景以外、全くと言っていいほど知識がなかった。
それから程なくしてパンケーキとチーズケーキが運ばれてきた。伊月ちゃんはスマートフォンを取り出し写真を撮ってから「いただきます」と手を合わせた。テーブルの横に置かれていたハチミツをかけ、その隣の何かわからないものをさらにかけ、ナイフとフォークを手に持ってパンケーキを器用に切り始める。その一連の動きをじっと見ていたら伊月ちゃんが顔を上げ、手を止めて笑った。
「明希も食べる?」
私はすぐに首を横に振った。パンケーキにたっぷりとかけられたハチミツの甘ったるい香りは、目の前の自分のチーズケーキに手を付けることすら躊躇ってしまうほどのものだった。
想像していたより二倍近く大きいパンケーキを伊月ちゃんは苦しそうな素振りを全く見せずに完食した。私はそれを見ているだけで胃の働きが鈍くなり、彼女以上に時間をかけてやっとの思いでチーズケーキを完食した。
お店を出た後は横断歩道を渡ったところにある公園に向かった。弱く吹いている風に葉を揺らす木々。蝉の鳴き声。噴水前のベンチやすれ違う人たちの中にさっきのお店にいたカップルを何組か見かける。木漏れ日の道を二人で歩きながら私は、本当にデートをしているような気分になった。
「最初会ったときね、私、明希のこと男だと思ってたの」
よく言われない? と聞かれ私は頷く。
「やっぱりね。明希の声が低かったらいまだに気付かなかったかも、私」
嬉しさと、その反対の感情が同時に胸に広がる。以前にも同じようなことを何度か学校のクラスメイトに言われたのを思い出した。彼女たちが最後に言うのは決まって「明希が男だったら付き合いたかった」だった。
男と女。その二つしか認識できない人間が大多数を占めているというのなら、何と窮屈な世の中なのだろう。そんな世の中で、どちらの枠にも上手くはまれない人間は一体どうすればいいのだろう。
「私が男の方がよかった?」
よく聞こえなかったのか、伊月ちゃんが私の顔を見て首をかしげる。もう一度言おうとしたとき、答えが返ってきた。
「どっちだっていいよ、そんなの。男だろうと女だろうと、明希は明希でしょ」
どっちだっていい、なんて綺麗事だ。人間は無意識に物事に白黒を付けたがる生き物だ。その上、多数決を好む。
「私は多分、少数派の人間だから」
思わず投げやりな口調になってしまい、歳下に向かって何を言っているんだと自分を叱責する。でも伊月ちゃんは私の口調などまるで気にしていないかのように、ひとつあくびをして青空を仰いだ。
「それが何? ゼロじゃない、確かにここにいるんだから、存在に多数も少数も関係ないじゃない」
目の前にいるこの子は、どうしていつも自分の考えをストレートに言葉にできるのだろう。私とは正反対だ。羨ましくもあり、同時に甘い、と感じてしまう。
ベンチに座っていたカップルが去り、伊月ちゃんに促され二人で座る。勢いのある噴水の飛沫を背中に感じて涼しい。
この景色を彩る風は、自分の生き方に漠然とした不安を感じたりはしないだろう。もし仮に風に翳りを感じたのなら、それは自分自身に翳りがあるからだ。人間は風になることはできない。死ぬまでずっと、感情に翻弄される生き物なのだ。
日が落ちて薄暗くなってきたので家に帰ることにした。夜中からまた仕事だから少し睡眠をとらなければいけない。伊月ちゃんもパンケーキを食べることができて満足なようで、他にはどこにも寄らずまっすぐ帰路に着いた。歯磨き、シャワー、仕事着の用意を済ませ出勤時刻の一時間前にアラームを設定して時計を見ると二十時半。あと四時間は眠れる。伊月ちゃんが浴室に入ってから布団に入り目をつぶると、すぐにやってきた睡魔。心地よく微睡みの中に入りかけたとき、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。その瞬間頭の中に公園の噴水の飛沫と音がよみがえる。鮮明に再生できるほど心地よい音だったが、しかしそれが災いして頭から離れなくなってしまった。一般的に水の音は癒しのBGMと言われているが、記憶の繰り返し再生ではあまり効果はないようだ。眠気はどこかに消えてしまい、布団の中で悶々と時間が経つのを待つしかなかった。
伊月ちゃんが寝入り、本来の起きる時間になって布団から出る。夜食のカップスープを飲んでいたとき、テーブルの上に置いていた携帯の通知音が鳴った。慌てて消音モードにして画面を見ると、晴海さんからのメッセージだった。
『明希ちゃん、あれから体調どう? 今日は私手が空いてるから、キツかったら半分配るからね』
安川さんのところに行ってから一週間が経っていたけれど、晴海さんがずっと忙しそうであれからゆっくり話せていなかった。メッセージの文字を一つ一つ指でなぞっていたとき、後ろで布団の擦れる音がして伊月ちゃんが起き上がる気配がした。
「ごめん起こして」
「ううん、寝てなかったから。誰かからメッセージ?」
「うん。晴海さんから」
私がどう返信しようか逡巡していると、伊月ちゃんが横から画面を覗き込んできた。
「明希ってさ、もしかして晴海さんのこと好き?」
危うく持っていたスプーンを床に落としそうになり、手に冷や汗が滲む。伊月ちゃんの眼差しを一旦苦笑いでかわし彼女と向き合う形になって携帯を手に持った。好きにも種類がある。伊月ちゃんが言っているのはどの意味だろうか? 今まで誰にも抱いたことのない恋愛の感情? 晴海さんに抱いているのは、本当にそれなのだろうか。恋とはこんなにも激しく胸を揺さぶるものなのか。相手に触れるだけでは物足りなくて、壊してしまいたくなる。こんなにも衝動的な、身を焦がすような熱情が、恋だというのか。
「晴海さんは……」
メッセージの返信文を打つふりをしながら、しっくりくる言葉を探す。”想像だけでは満たされない”、あの感情を思い出すと、好きだと口にするのは恥ずかしさを覚えた。
「憧れの人だよ」
ようやく絞り出した言葉。伊月ちゃんはふうんと口を開けずに声を出し、また布団を頭まで被り横になった。程なくして寝息が聞こえてくる。この時間まで起きていたのなら眠かったのだろう。時計を見る。そろそろ出勤の時間だ。私は仕事に無理矢理頭を切り替えなるべく音を立てずに玄関まで行き、靴を履いて、そっとドアを閉めた。
【続】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます