第7話


 八月に入ると蒸し暑さが増した。例年より早く梅雨が明けたせいなのか、連日不完全燃焼のような弱い雨が降っては止むを繰り返していた。雨の日の配達は新聞を一枚一枚ラッピングしなければいけないため、準備がいつもより慌ただしい。二台しかないラッピングマシンが空くのを待ちながら雨合羽に袖を通していると、奥の部屋で電話を取っていた晴海さんがこちらに歩いてきて声をかけられた。

「明希ちゃん。安川さんから今電話があって、今日集金に来てほしいって。配達終わった後頼める? 一旦帰ってきて一息ついてからで大丈夫だから」

「分かりました」

「いつもは中旬ごろに連絡来るんだけど今月はやけに早いなあ。まあ、その方が助かるけど」

 安川芳江。あの家だ。あの草木をかきわけた先にあるドア、その向こうから現れるのは一体どんな人物なのだろう。思っていたよりも早い対面の機会に、好奇心よりわずかに緊張が上回った。

 ラッピングマシンが空き、先輩たちが次々に出発していく。少し遅れて私もラッピングを終え、新聞を積んだ前カゴにしっかりカバーをして、濡れた路面を睨みながら慎重にアクセルをふかした。

 雨の日の配達は、いつもと違う道を走っているのかと錯覚してしまうほど視界が悪い。はじめはマンホールの上で何度もスリップしたり、後部に積んでいる新聞の固定が甘くてカーブで新聞を地面にばらまいてしまったり散々だった。でも遅配や誤配をする方が後々面倒になるため、やるしかないと腹に決めて走っているうちに自然と恐怖心は和らいだ。何事も慣れであると改めて思う。ときどき目に入る雨粒を手で拭いながら、包んでいるビニールになるべく雨粒がかからないように素早い手つきで新聞をポストに入れていった。

 時間とともに雨粒がさっきよりも細くなり、ほとんど霧のようになる。もう身体が濡れることなどどうでもよくなっていた。気持ちいいとさえ思えてくる。髪が濡れると、自分が色気のある人間のように思えてくるのはなぜだろう。学生時代に読んだ雑誌に載っていた、艶のある黒髪と真っ白なワイシャツを濡らして決め顔をする美形の俳優を思い出すからだろうか。額に貼りつく雨水を目一杯吸い込んだ前髪を、ヘルメットを脱ぎさりかきあげたくなる。周りにいる誰かの胸を、高鳴らせたくなる。私にとってはただの妄想。でも晴海さんならきっと、本当に絵になるはずだ。

 あと数軒で配達終了というところで、残りの新聞のビニールが派手に破れていることに気付き、一旦路肩に停車する。このまま配達しては見栄えが悪い。幸い雨は上がったので、ビニールを全て剥ぎ取った。雨が降った後はポストの口が濡れているため、ビニールをしていない新聞はポストの奥までしっかり入れこまないと雨濡れのクレームが入ってしまう。配達はほぼ毎日しているけれど対面の機会は少ないから、配達スタッフの顔が見えにくい分顧客の目は厳しくなる。不安要素は潰しておきたい。あとほんの数軒で終わりだ。また雨が降り出す前に、私は素早く配達を再開した。

 


 配達を終えてお店に戻ると、まだ誰も戻っていなかった。一休みしてから――欲を言えば晴海さんと少し話してから――安川さんのところに行こうと思っていたけれど、ちょうど晴れ間が見えて空が明るくなってきたのですぐに出発することにした。

 集金の日に晴海さんと寄った公園を過ぎ、広い通りの途中にある一軒家の前にバイクを停めた。相変わらず草木が行く手を阻む、昔ながらの木造二階建て。安川芳江、と書かれた表札を確認して領収証を用意し、小さく深呼吸をして息を止めながら玄関先まで辿り着き、インターホンを鳴らした。鈍い音。壊れていて中に聞こえていなかったらどうしようかと心配になったとき、おもむろにドアが開いて、中から腰の曲がった老婆が出てきた。

「ああご苦労さん。今日はいつものお姉さんじゃないんだね」

「新しくこの区域の担当になった稲本です。これからよろしくお願いします」

 ネックストラップの名刺を見せると安川さんは何度か頷いて、手に持っている巾着袋からゆっくりとした動作で財布を取り出し、新聞代金をちょうど出した。それを受け取り領収証を切り取って差し出そうとしたとき、安川さんが口を開いた。

「あんた、まだ若いだろう。いくつだい」

「二十歳です」

「二十か。七十年以上も前のことだね。そのくらいのときは何でも楽しいんだよね。歳をとるとだんだん好きだったことも楽しめなくなるよ」

 どう言葉を返そうか悩んでとっさに愛想笑いを浮かべながら改めてその顔をよく見る。七十年以上も前ということは今はもう九十歳台ということか。乾燥してひび割れた地面のような皺がいくつも刻まれた皮膚は見るからに硬そうで、大きなシミがいくつもあった。血色もあまり良くない。咀嚼をするように絶えず動かしている口は、だらんと垂れ下がった口角の重みを和らげようとしているのか、忙しない。九十歳を過ぎた人とは今まで何度か出会ったことがあるけれど、皆、年齢よりずっと若く見えたし溌剌としていた。こんなにも年相応に思える容姿の老婆は、今までに見たことがなかった。

「すごいですね。長生きされてるんですね」

 長生きの秘訣は、と聞こうとして口を噤んだ。老婆が鋭い眼光で私を睨んだ。

「長生きしたっていいことなんか何もないよ。旦那も娘も兄弟も友人も皆先に死んだ。私だけ残されたんだ。九十六年も生きたらもう十分だ。いい加減疲れたよ」

 その言葉尻には力が感じられなかった。一瞬だけ弱く吹いた風が、壁を這う蔦についた葉を小さく揺らし、それと同じタイミングで目の前の縮れた白髪も揺らす。大切な人たちに先立たれ、自分だけが取り残された世界。それは一体どんな景色なのだろうか。想像もできない。でも、今目の前にいるこの老婆は、その景色をはっきりと見ている。きっと何年も、何年も……。

 小刻みに震える手で領収証を受け取った安川さんは「ご苦労さん」と言って家の中に戻っていった。私は何も言えずに、ただ曲がった背中に小さく頭を下げることしかできなかった。

 お店へ戻る途中も、あの、細かい蔦が顔中を覆って皮膚に食い込んだような皺が頭から離れなかった。一日に疲れて、ぐったりとしながら眠って、また同じ朝を迎えて、その繰り返しの中で長い年月をかけて深く刻まれた数え切れないほどの”それ”は、いつしか心の中に絡みついた草木を自分で刈り取ることができなくなって、次第に足掻くことをやめ、やがて自らの運命を静かに受け入れた”証”なのだろうか。考えれば考えるほど自分の身体にも蔦が絡みついてきたような感覚に襲われ、鳥肌が立った。なぜこんなにも恐ろしいのか、分からない。いや違う。分かってしまうのが怖いのだ。

 交差点を直進して速度を上げる。遠くにお店が見えてきて、電気がついていることに心の底からほっとした。無性に誰かと話がしたい。誰でもいい、言葉を交わしたい。バイクを停め、お店の入口に駆け寄った。

「明希ちゃん?」

 声をかけられてはっとした。入口脇にある自動販売機の前に晴海さんが立っていて、集金バッグや領収書を鷲掴みにしてなりふり構わず走ってきた私を見て目を丸くしていた。

「そんなに慌ててどうしたの? 何かあった?」

 顔を覗き込まれた途端、喉がつんと痛くなった。目頭が熱くなるのを唾を飲み込んで押さえる。

「いえ……何でもないです。安川さんの集金、行ってきました」

 お店に入るとすぐ後ろから晴海さんが着いてきている気配がした。押さえきれなかった涙が片目から頬を伝う。振り向けない。ついさっきまで、あんなに言葉を交わしたいと思っていたはずなのに。集金バッグと領収書をテーブルに置いて、呼吸を整えようと息を吸ったときだった。

「お疲れ様、明希ちゃん。今日は早く帰ってゆっくり休みな」

 頭の上に置かれた温かい手。その手がそのまま集金バッグと領収書を取り、奥の部屋に消えていった。

 その後ろ姿の残像に、私は感情の栓を思い切り引き抜き、想いの丈を叫んでしまいそうになった。

 晴海さん。

 晴海さん。

 私はもう、想像だけでは満たされない。



【続】

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