第6話


 伊月ちゃんに『晴海さんが会いたがってる』とメッセージを送った翌日、夕刊の配達を終えたあと駅前のカフェに向かった。近くの駐輪場にバイクを停めて晴海さんと歩き出してすぐ、伊月ちゃんの姿を見つけた。彼女もきょろきょろと忙しなく周りを見回していたため、こちらに気付くのが早かった。晴海さんが数歩前に出て、声をかける。

「初めまして。伊月ちゃんだよね」

「はい、羽柴伊月です! 晴海さんですよね!」

 案の定伊月ちゃんは目を輝かせながら、今にも飛びつきそうな勢いで晴海さんに駆け寄った。昨日メッセージを送ってからずっと興奮が収まらない様子で、家に帰ってからも彼女のハイテンションに付き合わされろくに眠れぬまま朝刊配達に出勤する羽目になった。朝方帰宅して一眠りし、昼前に目を覚ますと伊月ちゃんが鏡の前でメイク道具の入ったポーチを漁りながらああでもないこうでもないと呟いているのを見て、まるで恋する乙女のようだ、と思った。散々迷いに迷ってようやく決めたのであろうメイクは目鼻立ちを際立たせ、年相応のあどけなさを限りなく打ち消して大人っぽい仕上がりになっていた。

「私も晴海さんとゆっくり話したいと思ってて……誘ってもらえて嬉しいです!」

「そう言ってもらえて私も嬉しいよ。この前会ったとき、明希ちゃんの家にこんな可愛い子がいたのかってびっくりしちゃったんだよね」

 伊月ちゃんの顔がみるみるうちに赤くなっていくのが分かる。晴海さんは呼吸をするように女の子を褒める。そしてそのときは決まって、相手の目を少しもブレることなく見つめる。きっと、今までもたくさんの人に同じことをしてきたのだろう。そうでなければ、抱く、なんて言葉をそう気軽に口にする人はいない。考えているうちに胸の中がひりついた。

「とりあえず、ここだと暑いしカフェに入ろうか」

 晴海さんに促され店内に入る。自動ドアが開いて一歩足を踏み入れた直後、身体を急激に冷やす冷房の風に鳥肌が立って思わず腕をさすったけれど、前の二人は涼しいねーと軽い会話をしながら奥にずんずんと進んでいった。晴海さんと伊月ちゃんが並んでメニューを眺めているその姿に歩く速度が落ちる。昨日までは何とも思わなかったのに、二人が対面した途端に胸の中でむくむくと湧き上がってきた感情。これは何なのだろうと考えていたとき、伊月ちゃんに名前を呼ばれた。

「明希は何にする? 私と晴海さんはもう決まったよ」

「あ……」

 店員さんの視線も感じ慌ててカウンターに駆け寄りメニューに目を落としたけれど、長ったらしい横文字が上手く頭に入ってこない。考えてみればカフェというものとは無縁の生き方をしてきた私はこのカフェに入るのも当然今日が初めてで、オーダーの仕方もどれがどんな味なのかも何もかも分からない。私が固まっていると晴海さんに「ここのアイスティー、安定の美味しさだよ」と耳打ちされた。私は反射的に「じゃあそれで」と口にした。

 会計は晴海さんがまとめてしてくれて、お礼を言ったあと店内を見渡す。幸い席は空いていて、選び放題だった。私はさりげなく冷房の風が直で当たらなそうな場所を探し、一番奥の四人席に二人を誘導した。

「伊月ちゃん。明希ちゃんから聞いたけど、家出してるんだって?」

 さっそく話を切り出した晴海さんに、抹茶ラテをストローでかき混ぜていた伊月ちゃんが顔を上げる。

「そうなんです。家が嫌で、夏休みの間は親がいないから、家出しようと思って。それで、夜中に家を出たらちょうど朝刊配達中の明希に会って」

 うんうん、と晴海さんが頷く。私は二人を眺めながらアイスティーをストローで口の中に流し込んだ。晴海さんがおすすめしてくれたというだけで何割増しも美味しく思える。同じくアイスティーを一口飲んだ晴海さんの動きを見つめ、その喉が動いたのと同じタイミングでごくりと飲み込んだ。

「家を出てみて、どうだった?」

「すごく楽しいです。好きなことできるし、宿題だって楽勝で、自由って感じで!」

 伊月ちゃんと同じ歳のころ、私は家を出るという発想もなかった。でも心のどこかで漠然と、ずっと探し求めている”出口”があるような気はしていた。もしも、と想像する。もしも私が十六歳で家出を決意していたら。そこで晴海さんと出会っていたら……。

「実は私も、学生のころ家出したことあるんだよね」

「晴海さんもですか?」

「うん。私も親とあまり上手くいってなくてね。中学のときから何度もしてた。それで本当に家を出たのは十七のときだよ。高校を中退して、適当に仕事を転々として、二十歳のときに今の新聞屋に入ったんだ」

 思考のカセットテープが一時停止する。晴海さんの過去を聞くのは初めてだった。

「それからがむしゃらに仕事を続けて、エリアマネージャーになれて、今こうして生きてる」

「すごい! それじゃ私も高校辞めて──」

「でもね、伊月ちゃん。言っておくけど、家を出て自分で生きていくっていうのは簡単なことじゃない。ものすごく険しい道のりなんだよ。そんなに人生は甘くない」

 初めて聞いた晴海さんの棘のある声音と言葉。伊月ちゃんが驚いたような表情を浮かべて、それから俯いて唇を噛み締める。私も晴海さんの言葉に心の中で頷く。初めての一人暮らしは想像していた以上に過酷で、仕事でくたくたになって帰宅しても家の中は暗く、静かで、乱雑になった部屋の掃除も、ご飯の準備も、全て自分でこなさなければならない。ただ自由だけを手に入れて浮かれているわけにはいかなかった。実家でいかに自分が甘えていたかを思い知らされた。それでも生活を軌道に乗せられたのは、やっと見つけた出口を再び見失いたくなかったから。

「家を出ること自体は悪くない。でも、考えてみて。今が本当にその時期なのか。本当に覚悟があるのか」

 伊月ちゃんはさっきまでの溌剌な姿が嘘のようにすっかりしおらしくなって、晴海さんの言葉を心の中で反芻しているのか、そっと目を閉じた。しばらく見つめているとその眉間に皺が寄って、彼女が泣き出したのかと思って慌てて身を乗り出しかけたけれど、それよりも早くその目が開かれた。

「ちゃんと帰らなきゃいけないのも、明希に迷惑をかけているのも分かってます。でも、それでも今は帰りたくないんです。軽い気持ちなんかじゃありません。学校が始まるまであの家で毎日何時間も過ごすくらいなら、いっそ野宿する方がよっぽどマシだって思って……だから家出したんです」

 伊月ちゃんが話し終えると晴海さんは何かを考え込むかのように目を閉じた。伊月ちゃんはそんな晴海さんを今度こそ本当に泣き出しそうな顔で見つめている。伊月ちゃんが家に来てから迷惑だと思ったことは一度もなかった。むしろ逆で、家事は私より上手だし、帰宅して出迎えてくれるのもほっとする。確かに伊月ちゃんはまだ高校生で、親の保護下にあって、他人がどうこうできる権利はない。それでも、もしあのとき私が通りかからなかったら……彼女は間違いなく野宿を選んでいただろう。考えただけでぞっとした。どんな事件や事故も起きてからでは遅いのだ。テーブルの上で拳を握りしめる。いけないことだとしても、どうにか家に帰らずに済む方法がないかと考えを巡らせていたときだった。

「分かった。そうしたら、最後まで親御さんにバレないように家出を満喫しよう」

「え?」

 伊月ちゃんより先に、私が声を出していた。伊月ちゃんもぽかんと口を開けている。晴海さんは私が伊月ちゃんにはっきり言えないのを見かねて彼女を諭そうと今日この場を設けたのではなかったのか。

「伊月ちゃん、よかったら今度私の家にも泊まりに来る?」

「いいんですか!?」

「いいよ。連絡先教えて」

「はい!」

 舞い上がる伊月ちゃんと、そんな彼女を見て微笑みながら携帯を取り出す晴海さん。私一人が流れについていけず呆然としているこの状況。いつの間にか二人は飲み物のグラスを空けていて、氷が溶けてやや薄くなったアイスティーをグラスの半分以上残しているのも私だけだった。

 カフェを出て、私と晴海さんは一旦職場に戻ることにした。伊月ちゃんと別れバイクで走り出す。カフェを出る直前に一気飲みしたアイスティーが、外は暑いのにお腹だけが冷えているという異様な状況を作り出し、具合が悪くなりそうだった。

 到着してすぐ、私はトイレに駆け込んだ。でもしばらく座っていても何も出る気配がなく、ドアの向こう側で動いている晴海さんの気配もあり集中できず、ため息を吐きながら水だけ流してトイレを出た。

「明希ちゃん大丈夫? カフェの冷房、ちょっと効きすぎてたよね」

 効きすぎた冷房、アイスティー、原因はきっとそれだけではない。

「もしかして、カフェ入る前から具合悪かった? 三人で話してるとき、明希ちゃんがぼーっとしているように見えたから心配だったんだ」

「いえ。ただ……ちょっとびっくりしちゃって。晴海さん、伊月ちゃんに家に帰るように言うのかなと思ってたので」

「ああ、いや私もはじめはそのつもりだったんだけど、伊月ちゃんを見ていたら昔の自分に重ねちゃってね。でもあの子、勢いだけで家出したんじゃなくて、色々ちゃんと考えてると思う。だから夏休みの間だけでも、力になりたいなって」

「大丈夫なんですか? その……親御さんのこととか」

「正直さ、日頃から子どもにとって居心地のいい家を作るどころか、仕事だからって子どもを一人で長期間留守番させる時点でどうかと思う。現に伊月ちゃんは夜中に一人きりで家出という危険なことをした。親御さんには悪いけど、明希ちゃんの方がよっぽど彼女にとって安全な場所を提供できると思う。私も一緒に力になれるし」

 晴海さんのその言葉を聞いて、心の底からほっとした。と同時に晴海さんとの繋がりがまた一つ増えたことに口元が綻ぶ。

 また二人であのバーに飲みに行きたい。あの日は、今でも鮮明に思い出せるほどに私の全身を熱く焦がした。今夜も目を閉じれば、まぶたの裏で晴海さんが優しく囁いてくれる。そんな気がした。


【続】

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