第5話
「明希ちゃん、領収書とお釣りは持った? この区域は件数が少ないから、慣れるまで担当者変更の挨拶がてら私が一緒に回るね」
「はい。お願いします」
月末の集金が始まった。この区域は元々晴海さんが担当していたらしく、晴海さんは領収書に書かれた名前をいくつか眺めながら何度か頷いた。「サクッと終わらせるよ」とさっそくバイクに跨り一軒目の家に向かった晴海さんの後を追いかけて、私もバイクのグリップをしっかりと握りしめ走り出した。
購読客たちと対面するのは初めてだ。顔を合わせてみると、その性格は様々だった。気の強そうな人、長話をしたがる人、寡黙な人、集金だと伝えても警戒した様子でインターホン越しにしか会話をしたがらない人……。隣で見ているだけで暑さとはまた別の汗をかいてしまうのに、晴海さんは笑顔を保ちながら慣れた様子で集金を終え、さらに私のことを新しい区域担当者だと紹介までしてくれた。私が一連の流れを覚えてきたころ、晴海さんはペースアップしてそれまでの倍の速さで捌きはじめた。必死になって晴海さんの華奢な背中を追いかけながら、風に乗ってかすかに鼻をくすぐる煙草の香りを何度も吸い込んだ。
領収書の束が半分程になったころ、晴海さんのバイクが住宅脇の狭い道に入った。奥行きがあるその道の突き当りには、配達中に偶然見つけた、ブランコとすべり台、そしてベンチがあるだけの小さな公園があり、あまり人気もなく静かなため仕事中に一休みするにはうってつけの場所だった。晴海さんもこの場所を知っていたのか。バイクを停めてヘルメットを外した晴海さんがこちらを振り向いて笑みを浮かべ、それに引き寄せられるように私も隣に停まった。
「休憩しよう。色んなお客さんがいて結構神経使ったでしょ」
あっち、と細長い指が示したのはすぐそばのベンチではなくブランコがある方で、私が反応する前に晴海さんが駆け出す。まさか、とそのまま眺めていると晴海さんはまるで幼い子どものようにブランコに飛び乗り、長い脚を存分に使い勢いよく助走をつけて漕ぎはじめた。
「明希ちゃんもおいでよ。楽しいよ」
ブランコは小学生以来乗っていない。それも最後に乗ったのは一年生のときだ。母親によく連れて行ってもらった公園のブランコがお気に入りだったけれど、勢いよく漕いでいたときに目の前に飛び込んできた知らない子とぶつかって以来、ぱったりと乗らなくなった。でもこちらに向かって手招きをする晴海さんがあまりにも楽しそうで、空いている隣のブランコにそっと座った。
「漕いであげようか? 風が涼しいよ」
背後に回ってきた晴海さんの吐息がそっと耳にかかる。少しだけ揺れはじめるブランコ。
「こうやって漕いでいるとさ、子どものころを思い出さない? あのころは楽しかったなあ」
晴海さんの「あのころは」という言葉が少し気になったけれど、耳にかかるさっきよりも熱い吐息で晴海さんが笑ったのが分かって、気のせいかと思い直した。
子どものころのことは、あまり覚えていない。でも唯一記憶にあるのは周りに「変わった子」だとよく言われていたこと。髪型、服装、振る舞い……ただ好きなようにしているのにそう言われるのが不思議で仕方がなかった。そして慣れ親しんでいるはずの街や家族、友人と過ごしていくうちに、いつの間にか言葉では上手く表せないもやもやとした感情が胸を巣食っていた。自分らしい生き方ができていないのだ、とはっきり自覚したのは高校を卒業する直前だった。でも二十歳で地元を離れこの街で一人暮らしをはじめてからはその感情は薄れ、心が軽くなったような気がしていた。
「私は今の方が楽しいです」
「子どもの頃よりも? それはうらやましいな」
晴海さんのおかげです、と出かかった言葉を飲み込み、手に持っていた領収書に目を落とす。一番上には安川芳江という名前。確か、この公園のすぐそばの家だった。家の周りに手入れされている様子のない伸び放題の草木があり、ポストまで行くのに毎回手こずるため印象に残っていた。どんな人なのだろうかとぼんやり考えていたとき、晴海さんがあ、と声を上げた。
「そうだ。次の安川さんね、一人暮らしのおばあちゃんなんだけど、二ヶ月に一回まとめて集金してる人なんだ。多分来月の中旬頃に連絡が来るだろうから、そのときに明希ちゃんにお願いするね」
「分かりました」
返事をしながら顔を上げると、晴海さんの顔が思っていたよりすぐ近くにあって息が止まる。大きな目が、私をまっすぐとらえていた。この両目で見つめられて心を動かされない人はいるのだろうか。まるで、明け方に吹く一陣の清風のように、決して掴むことのできない速さで胸を通り抜けていく。目をそらせずにいたとき、おもむろに晴海さんが顔を上げて歩き出した。土を踏みしめる音と遠ざかる背中をぼんやり耳と目で追っていると、入口横の自販機の前で足を止めた。
振り返って何かを言っている晴海さん。蝉たちの鳴き声でよく聞き取れず、ブランコから立ち上がる。くら、と立ちくらみ。目をつぶると額から噴き出した汗。そこで喉がひどく渇いていることに気が付いた。もう一度聞こえた声。名前を呼ばれている。片目を開けると、晴海さんが駆け寄ってきていた。
「明希ちゃん、暑さで少し疲れてるでしょ。顔色がよくないよ」
手に冷たいものが触れる。ペットボトルのスポーツドリンク。ありがとうございます、という声が掠れて、すぐに口をつけて喉に流し込んだ。スポーツドリンク特有の甘ったるい後味はあまり得意ではなかったのに、今は全身がその味を求めていた。
「危うく熱中症になるところだったよ。明希ちゃんいつもあんまり水分摂らないでしょ。それじゃ夏のこの仕事は乗り切れないよ。これからはもっとマメに水分補給すること。いいね」
「はい。すみません……」
「よし、もう少し休憩したら今日は店に戻ろう」
ペットボトルを握りしめる手に力が入る。お店に戻れば皆がいる。集金も明日からは一人で回ることになるだろう。晴海さんと二人でゆっくり話せる日はしばらくないかもしれない。
「あの、晴海さん」
隣でスマホの画面に目を落としていた晴海さんが顔を上げる。
「この前の……私が、家に泊めている子のことなんですけど」
ああ、と晴海さんが身体ごとこちらを向いた。
「あの子元気?」
「はい。晴海さんのこと、すごく綺麗な人だって興奮してました。また会いたいって」
「あはは、そんなこと言ってたの。可愛いね。ねえ明希ちゃん、その子のこと教えてよ」
「あの子は、高校一年生で、伊月ちゃんっていうんですけど」
私は晴海さんに、伊月ちゃんとは朝刊配達中に出会ったこと、家出をしようとしていた彼女に夏休みの間だけ泊めてほしいと頼まれたことを話した。
「なるほどね、家出少女か。家の居心地がよくなくて家出をするのは私個人的には悪くないと思うけど、彼女はまだ高校生だからね。夏休みの途中で親御さんが帰って来なければいいけど……。親御さん次第で、明希ちゃんが訴えられちゃう可能性もあるからね」
「そう、ですよね」
「明希ちゃんはその辺り、どう考えてる?」
正直、深く考えているかと聞かれたら頷くことができなかった。はじめはただ、家を出たいという彼女を突っぱねることができなくて、頼まれるまま家に招いた。それから事情を聞いて、ここにいることで少しでも気が楽になるのならと、好きなだけいていいと伝えた。そうする以外方法が浮かばなかった。何も言えずにいると、晴海さんに背中をぽん、と叩かれた。
「その辺りのことも含めて、一回話そう。私も伊月ちゃんと会ってゆっくり話してみたいし。彼女が二十歳超えてたらこの間のバーに連れていきたかったんだけどさすがにそれはできないから、近くのカフェとかででも……」
話の途中で晴海さんの手元にあるスマホが鳴った。名前は見えなかったけれど、誰かからの着信だった。じゃあ伊月ちゃんに伝えておいてね、と早口で言い電話に出ながらバイクに向かって歩き出した晴海さん。少し間を開けてからゆっくりとその後に続く。電話の相手と見たことがないくらい楽しそうに笑う背中。忘れかけていた。共通の話題がなければ、この人は本来遠い存在なのだ。
伊月ちゃんに『晴海さんが会いたがってる』とメッセージを打ちながら、私はわずかに残っていたスポーツドリンクを、一気に飲み干した。
【続】
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