第4話
みぞおち辺りの不快感で目を覚ますと見慣れた布団の中だった。カーテンの隙間から眩しい陽光が差し込んでいる。もう朝か。頭を起こすと不快感が増す。今日が休刊日でなかったら、とても仕事どころではなかっただろう。私はよろよろと立ち上がり、水を飲もうとキッチンに向かった。
グラスに注いだ水を一気飲みしながらどうやって家まで帰ってきたのだろうと薄い記憶を辿っていると、背後のトイレから水の流れる音がして中から伊月ちゃんが出てきた。
「おはよう、明希。昨日はずいぶんと遅くに帰ってきたね」
伊月ちゃんは手を洗ったあと、私が持っていたグラスを取り、残っていたわずかな水を飲み干した。
「私、何時に帰ってきたの?」
「えっと確か、二時過ぎだったかな。明希と一緒にすごく綺麗な女の人が入ってきてびっくりした。その人が明希を布団の上に寝かせてくれたんだよ。明希が起きたら”飲ませすぎてごめんねって伝えて”って言われた」
晴海さんがここまで送ってくれたのか。昨晩の記憶は晴海さんの真似をしてビールに口を付けた辺りで途切れていた。
「最初、お母さんに居場所がバレて連れ戻されるのかと思って、慌ててトイレの中に隠れちゃった」
そう言って笑う伊月ちゃんを横目にここまで帰ってきたときの記憶を思い出そうとしてみたけれど、断片すら浮かんでこなかった。数時間記憶がないとは恐ろしい。晴海さんに変なことを言っていないだろうか。
「あの綺麗な女の人、何ていう名前なの? 私、また会いたいな」
「職場の先輩。忙しい人だから難しいよ」
「じゃあ名前だけでも教えてよ」
「……晴海さん」
口にして初めて、晴海さんを名前で呼んだことがまだないことに気が付いた。喉元までは出かかるけれど、口に出すのは躊躇ってしまう。あの大きな両目で見つめられると途端に顔全体が熱を帯びて何も言えなくなってしまう。
「シャワー浴びてくる」
午後の出勤まであと二時間はある。頭を冷やすには十分な時間だ。ハンガーにかけていた下着と服を手に取り、脱衣所に入った。脱いだ服に煙草の匂いが染み込んでいる。服に顔を埋めて思い切り息を吸う。晴海さんの匂いだ。はじめは仕事の話をするのが精一杯の憧れの先輩だった人と、近くで触れ合った証。シャワーを浴びている間も名残惜しさがずっと胸の片隅にあった。唾を飲み込むと、晴海さんがビールを勢いよく飲み干したときの喉の動きがやけに色っぽかったのを思い出した。
午後、出勤すると晴海さんが入り口で煙草を吸っていた。ガラス戸を開けようとしたところでちょうど晴海さんが顔を上げて目が合う。私はその場で会釈をしてから戸を開け駆け寄った。
「昨日は家まで送って下さってありがとうございました」
「いいんだよ、遅くまで付き合わせちゃったし。アルコール抜けた? 私久々に飲みすぎたからちょっとやばいかも」
酔いはすっかり覚めていたけれど、昨晩二人でいたときのふわりとした心地よさは晴海さんの顔を見た途端に瞬時によみがえった。
「でもびっくりしたよ。明希ちゃんがあんな可愛い女の子と一緒に住んでいたなんて」
夢見心地から一転、はっとした。晴海さんが持っている煙草の、穏やかに昇っていた煙が一瞬その身を大きくくねらせる。
「明希ちゃんの妹? ではないよね」
「えっと……ただの、友だちです」
友だちとは少し違う気がしたけれど、しっくりくる言葉が見つからなかった。晴海さんが何かを確認するかのように「ただの友だち」と私の言葉を繰り返す。
「友だちならいいんだけどね。あの子、まだかなり若く見えたから、親御さんがよく外泊を許可したなって」
伊月ちゃん自身、親に何も言わずに家出をしたと話していた。彼女の親が帰ってきたときのことは以前にも考えたけれど、晴海さんに言われた途端、その危惧が急速に現実味を帯びてきた。今朝のみぞおちの不快感が再び込み上げてきたとき、晴海さんがかぶりを振った。
「あっ、いや、別に明希ちゃんを責めてるわけじゃないからね。何か事情があるんでしょう? 誘拐したとかじゃないなら全く問題ないと思うよ」
晴海さんになら伊月ちゃんのことを話してもいいだろうか。また、二人きりでゆっくり時間が取れるときがあれば……。
「それよりさ」
ぼんやり次の機会を考えていたとき、ふいに晴海さんの顔が耳元に近付いてきた。
「明希ちゃんはさ、その子のこと、抱きたいとか思わないの?」
「えっ?」
「私だったら、あんな可愛い子が家にいたら我慢できないけどな」
晴海さんの顔が近い。質問の意味が上手く理解できないまま、目の前の笑みに答えを急かされているような気分になる。
「抱くって――」
ようやく口を開き聞き返したところでガラス戸が開き、気怠げな挨拶がこだまする。ぞろぞろと出勤してきた先輩たちに挨拶を返しながら、もう一度晴海さんの方を見ると「また後でね」と軽く背中を叩かれた。
賑やかになった室内で、一本だけだった煙草の煙があっという間に増え、充満する。その燻りを眺めながら、晴海さんはどうしてあんなことを聞いてきたのだろうかと考えた。抱く、という感覚を私は知らない。でも抱くのなら、と漠然と考えたときに真っ先に浮かんだのは伊月ちゃんではなく、ついさっきまで隣にあった無邪気な笑みだった。
仕事を終えて家に着くと、伊月ちゃんの姿がなかった。テーブルの上の「お腹空いたからコンビニ行ってくる」と書かれたメモを一瞥し、床に荷物を置いて浴室に向かった。
蛇口を捻り、足の指先にかかったシャワーの飛沫で温度を確かめる。冷たい水がだんだんと熱を持っていく。晴海さんの体温を思い出そうと目を閉じる。その手に触れられている想像をすると両脚の付け根の間が熱くなる。唾を飲み込んで、熱いそこに手を伸ばした。
「晴海さん……」
晴海さんは、女性とどんなセックスをするのだろう。あの細長い指で、まずどこに触れるのだろう。鮮明に想像ができるほどセックスというものを知らなかった。それでも反応している身体。指に触れるお湯ではないぬるりとしたもの。目を閉じるとシャワーの音に混じって晴海さんの囁きが聞こえてくる。
”大丈夫、怖くないよ。身体の力を抜いて”
”私が優しく教えてあげるから”
瞼の裏で晴海さんが笑みを浮かべる。私の髪を撫でる。身体の線を細長い指が執拗になぞる。いいようのない感覚に思わず伸ばした手を、晴海さんに握られる。
「晴海さんっ……」
名前を呼んだ直後、両脚がガクガクと震え、力が抜けた。遅れてやってきた動悸と息苦しさ。鏡に映った自身のあられもない姿に急に頭の中が冷静になって慌ててシャワーを止める。一体、何をしているのだろう。自分の息遣いだけが聞こえる浴室内で、私はしばらく放心していた。
そのままどのくらいの時間が経ったのだろうか、ドアの開く音、それから名前を呼ばれ我に返る。
「明希? 帰ってる? アイス買ってきたから食べようよ」
返事をしようとしたけれど声が掠れて出なかった。私はまだ両脚に残る気怠い感覚を押しながら、ゆっくりと浴室を出た。
【続】
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