第3話
日曜日の午後、晴海さんにご飯に行こうと誘われた。待ち合わせ時間の十五分前に駅前に着いて行き交う人たちを眺めていると、五分前になって人混みの中から晴海さんが現れた。
「早いじゃん。待たせちゃったね」
「いえ、全然」
私服の晴海さんは、仕事をしているときとは印象が全く違っていた。前髪を整髪剤――ワックスか、あるいはジェルか、私には馴染みがないから分からないけれど――で上げて額を出し、襟付きのチェック柄のワイシャツにジーパン、涼しげなサンダルを履いていた。ベリーショートの髪から覗く左耳にはリング状のシンプルなピアスを付けている。
「お腹も空いてきたし行こう。私の行きつけの飲み屋があるんだ」
晴海さんに案内されたのは駅から数分歩いたところにあるお店だった。ドアを開けると中はカウンターが五席とテーブル席が二つだけのこぢんまりとした空間だった。
「ママ、久し振り」
「晴海、待ってたわ。先週来なかったから寂しかったわよ」
晴海さんはカウンターに立っていた長身で華奢なママと親しげに抱擁を交わし、奥のテーブル席に私を促した。
「明希ちゃん、お酒は飲める?」
「そこそこは」
お酒は実家にいたときに缶チューハイをたまに飲んでいた程度でそこまで好きではなかったけれど、店内の雰囲気と、晴海さんと出かけているという新鮮さが刺激になって、飲んでみれば案外いけるんじゃないかという気分になった。晴海さんは生ビール、私はレモンサワーを頼んだ。つまみとグラスが運ばれてくると、二人で乾杯をした。
レモンサワーは過去に飲んだものよりずっと飲みやすかった。缶で飲んだときの特有の苦味が全くなく、グラスの底に沈んでいるレモンの果汁がアルコールの味を打ち消してあっさりと喉を通り抜けていく。美味しい。グラスの半分くらいを飲んだところでぼんやりと顔が火照ってきたのを感じた。
「あそこにいるママ、美人でしょ。元男なんだよ」
えっ、と声を上げた私を見て晴海さんがにやりと笑い、ビールのおかわりを頼む。私もウーロンハイを頼んだ。残りのレモンサワーを一気に飲み干してもう一度ママを見る。
「元男性なんですか」
「そう。今は身体も戸籍も女だけどね」
ぼんやりとする頭で、晴海さんはママの身体にずいぶん詳しいな、と思った。長くこのお店に通っているから当然か、と思いつつもなぜか胸の中に靄がかかった。
「その子が、前に晴海が言ってた子?」
器用な手つきでビールサーバーのレバーを捻り、傾けたグラスに泡を注いでいるママが言う。
「そう。先月新しく入ってきた明希ちゃん。可愛いでしょ」
「確かに、あんた好みの子ね」
「まだ若いのに仕事も一生懸命で。放っておけないの」
普段は業務的な話しかしたことのない晴海さんの口からそんな言葉が出てくるとは思っていなくて、反応に困ってしまう。でも晴海さんに言われるのは嫌な気はしなかった。
「今日は好きなだけ飲んでいいからね、明希ちゃん」
晴海さんもお酒が回ってきたようだ。大きな目がとろんとして、頬がほんのりと赤みを帯びている。喋り方もさっきよりゆったりでところどころ呂律が回っていない。
晴海さんの飲むペースは凄まじいものだった。私がまだ半分も飲み終わらないうちにグラスを空にし、次々に新しいものを頼む。つられて私もペースが上がった。こんなに飲んだのは生まれて初めてだった。でも、晴海さんを見ていると、まだまだいけるような気がしてくる。
新しいお酒を運んできて空いたグラスを下げていったママの背中を眺めながら、スタイルがいいな、と心の中で呟く。新しく届いたグラスに手をつけたとき、晴海さんの手がおもむろに胸元に伸びてきた。
「やっぱり。明希ちゃん、胸潰してるよね」
シャツの上から晴海さんの手の感触が肌に伝わってくる。心臓の鼓動が大きくなる。私は頷いて、晴海さんの手の上に自分の手をそっと重ねた。まるで自分の指先が痺れているかのように、掴んでいる晴海さんの手の感触がぼんやりとしている。仕事中、炎天下にいるにもかかわらず白さを保っている肌、細長い指と筋が浮いた手の甲、それらが女性的で綺麗だ、と思う。
「前から明希ちゃんに聞きたかったんだけどさ、明希ちゃんって、今付き合ってる人いるの?」
離れていった晴海さんの手を名残惜しく思いながら首を横に振る。
「じゃあ、好きな人は?」
アルコールで蕩けた頭は、不思議なことに直感が冴える。まるで第六感がむき出しになっているかのように、晴海さんの質問の意図が分かってしまう。
「女の人で、ってことですか?」
グラスを持ち上げた晴海さんの手がぴたりと止まる。いつもは見ることのできない大きな目をまっすぐ見つめて、私は続けた。
「私、誰かを好きになったことがないんです。今まで、一度も」
「一度も? ……そっか。明希ちゃん、レズビアンだと思ったんだけどな」
レズビアン。その言葉を初めて知ったのは高校生のときだ。夏休みに図書館で宿題のテーマを探していたとき、聞き覚えのないそのタイトルが目に止まった。本を手に取るとなぜか血の通った人の温もりのようなものを感じて不思議で、ページをぱらぱらと捲っているうちに気が付くと宿題を忘れ読み耽っていた。本の中で知った「セクシャルマイノリティ」という言葉を家でもインターネットで毎日のように調べた。でも周りにその言葉を知っている人はおらず、実際に口にしようとするとまるで覚えたての外国語を初めて使おうとしたときの恥ずかしさのようなものが生まれて、躊躇われた。やっと、この言葉を口にする人に出会った。喉に残っていたアルコールの後味を唾と一緒に飲み込む。
「でも私、セクシャルマイノリティの人と実際に話してみたかったんです」
お酒はこんなにも理性を麻痺させるのか。自分でも何を言っているのか、何が言いたいのか、よく分からなくなる。実際に話してみたかった、いやそれだけじゃない。確かめたかった。そこに広がる情景を。血の通った人のような温もりを感じた理由を。
「もしかしたら明希ちゃんも、そうなんじゃない?」
私をじっと見る晴海さんの目には確かな温もりがある、と思う。私の目には果たして同じものがあるだろうか。
「私には隠したりしなくていいよ。私もビアンだし」
「知ってます」
私が答えると晴海さんは一瞬驚いたように目を見開いて、それから笑った。
「私、分かりやすいってよく言われるし、さすがに明希ちゃんも気付いてたか」
皆が話していた、というのは言おうとしてやめた。他にも言いたいことはあったけれど呂律が上手く回らなくて声を出すのが億劫だった。何かを言ってからビールをあおる晴海さん、それを見て笑うママ。強烈な眠気に意識を飲み込まれながら、瞼の裏で、晴海さんがママを抱いているところが浮かんでは消えた。
【続】
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