第2話

 バイクのアクセルグリップを握る私の手に汗が滲んでいる。その汗を冷たい風が冷やしている。

 住宅街の狭い道路を道なりに進み、緩い下り坂の途中のマンションの駐輪場に着いたとき、私の心臓は全速力で駆けたときのように激しく高鳴っていた。バイクのエンジンを止めすぐそばの階段を上って、ついてくる背中の気配を確認しながら廊下を進む。ドアの鍵を開けて狭い玄関に彼女を急かしながら入り、ドアを閉めた。肺に深く溜めた息を一気に吐き出す。

 ――一日だけでいいから、あなたの家に泊めて。

 配達を終えたマンションを出たあと彼女にそうお願いされ、私はすぐに断ろうとした。けれど何やら切羽詰まったような彼女の様子に、結局、普段新聞を積んでいるバイクの後部に彼女を乗せ家まで帰ってきてしまった。途中、店にタイムカードを切りに戻ったときも配達を終えた誰かと会いはしないかと冷や冷やしたし、ここに来るまでもなるべく人目を避けてきた。手を当てた心臓は息をするのも苦しいくらいに脈打っている。ワンルームのドアを開けた彼女が室内を不思議そうに見回しながら陽気な声で言った。

「バイクの後ろに乗るのってすごく気持ちがいいね。ちょっとお尻は痛かったけど」

「そりゃ痛いよ、あのバイクは本当は二人乗りは禁止なんだよ。誰にも会わなかったし無事にここまで来られたから何ともなかったけど、相当危なかったんだから」

 そうとはいえ断りきれずに彼女を乗せてきてしまったのは事実でそれ以上は強く言う気になれず、私は彼女を五畳ほどの部屋の長座布団の上に座らせテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした。

「突然、無理言ってごめんなさい」

 カーテンを開け放したままの窓から差し込む朝日に私が目を細めていると、ぽつりと彼女が言った。窓から目線を移すとちょうど目が合う。

「あの家から一秒でも早く離れたくて」

「家が嫌いなの?」

「今は嫌い」

 その投げやりな口調が引っかかったけれどその理由を深く聞くのは憚られて私は小さく頷いただけで黙っていた。彼女も何かを頭の中に思い浮かべているのか無地のカーペットが敷かれただけの何もない床に目を落とし口をきつく閉じていた。外から聞こえてくる鳥の囀りが沈黙をいくらか緩和してくれていたけれど、息苦しさはじわりじわりと空気中に混ざりはじめていた。

「でも本当に泊めてくれると思わなかった。ダメ元でお願いしてよかった」

 その空気を先に破ったのは彼女だった。突然私の手を引いて走りだしたあの一連の行動はかなり堂々としていたように思えたけれど内心はそうでもなかったらしい。私はあぐらをかいていた足を組み直しながら言った。

「睡眠時間さえくれれば私は別に迷惑じゃないからね」

「じゃあ、頼まれたら誰でも泊めるの? 全く知らない人を?」

「悪い人はもちろんお断りだけど本当に困っているなら放っては置けないしね」

 彼女にそう答えながら、私は頭の片隅で中学生のころを思い出していた。真夜中に家を抜け出し近くの公園に行って一人で涙を流した日のことを。夜が明けるまで家に帰りたくなくて人目につかない道をあてもなく彷徨ったことを。初めて朝日が昇る瞬間を見たのは確かそのときだった。あの日のことは、今でも自分の胸の中だけに留めている。

 着替えとトイレを済ませてから朝食をとろうとキッチンに立つ。座る彼女はうとうとと身体を揺らしている。「お腹空いてる?」と声をかけようか迷って、やめた。昨晩の残りのご飯でチャーハンでも作ろうかとフライパンを取り出しながらもう一度リビングを覗くと、華奢な身体は座布団の上で横になって静かに寝息を立てていた。なるべく音を立てないように手早く二人分の炒飯を作り、片方はラップをかけ、もう片方はその場で食べた。

 洗い物を済ませリビングに戻ってぼうっとしているうちに気が付けば午後の出勤時間が近付いていた。簡単にシャワーを浴びて眠気を払い、制服に着替えてバイクの鍵をポケットに入れる。ラップをした炒飯の皿をテーブルに置いたとき、彼女が気だるげに身体を起こした。

「仕事行ってくる。これ、お腹空いたら食べてね。あと、ここには好きなだけいていいけど、もし帰るなら鍵だけよろしく。閉めたらポストの中にでも入れておいて」

 彼女が目を擦りながら小さく頷いたのを確認して、私は靴箱の上に置いていたヘルメットを持って家を出た。



 夜の八時過ぎ。仕事を終えて帰宅するとポストにはハガキしか入っていなくて、ドアの鍵も開いていた。もしやと思って中に入ると、彼女がキッチンでフライパンを振っていた。卵とケチャップの香りが家中に漂っている。

「おかえり。この家、冷蔵庫に卵とケチャップしかなくてびっくりした。私、奇跡的にオムライスだけ作れるからよかったけど」

「あれからずっといたの?」

「だって、好きなだけここにいていいよって言ったのはあなただよ」

「でも家族が心配するんじゃ」

「大丈夫。しばらく誰も帰ってこないし。それに私が家出するなんて想像もしてないよ」

 器用な手付きでケチャップライスに卵を乗せて包む彼女の背中が、ふいに実家の母親の姿に重なった。母親も私が休日に家にいるとき、よくオムライスを作ってくれた。

「また夜中から配達に行くの?」

「ううん、明日は休みだよ」

「本当に? じゃあ朝まで話そうよ。夜通し起きてるのは慣れてるでしょ?」

 そういうと彼女は冷蔵庫からアセロラジュースを二本取り出して片方を私に差し出した。私が受け取ると、かんぱーい、と自分のジュースを一気にあおった。その姿が夕飯の時間に何よりも先にビールをあおっていた父親と重なった。私は右手に持っていた缶を音を立てずにテーブルの上に置いた。

 夕飯を食べ終わったころ、おもむろに彼女が自分の話を始めた。

 彼女は高校一年生で、伊月と名乗った。昨日から夏休みが始まって、両親が仕事で数日家を空ける間留守番を頼まれたという。

「でもね、お母さんは本当は仕事じゃなくて別のところに行ってるの。いつもお父さんと喧嘩すると家を飛び出して向かうところ。別の男の家」

「それってつまり」

「そう。不倫」

 伊月ちゃんは、まるでその日あった出来事を何気なく話すかのような淡々とした口調で続けた。

「前に一回だけお母さんがその男を家に連れてきたことがあって。その男が私の顔色を窺うように何回も話しかけてきたの。気持ち悪かった。だからまたお母さんがあの男を家に連れて帰ってくるんじゃないかって考えたら家にいるのが嫌になって、家出しようと思ったの。行くあてなんかなかったからしばらくどこかでぼーっとしているつもりだったけど明希が泊めてくれて本当に助かった」

「初めて会った人の家にいきなり泊まるのは怖くなかったの?」

「あの家にいるよりはずっといい。それに、明希は会ったばかりなのになぜか安心するの。不思議」

 女の人だからかな、と呟く伊月ちゃんを見て私は苦笑いだけを浮かべた。

 入浴と歯磨きを済ませ、二人で布団に横になってからも話は続いた。

「そういえば明希はどうして家を出たの?」

「私は……好奇心かな」

「好奇心?」

「生まれ育った土地で一生を終えるのが嫌だったんだ。まるで鳥籠の中にいるみたいで。知らない世界を、もっと広い世界を知りたかった」

 鳥籠の中、いや、見上げるほど大きな行き止まりの壁の前に立ち尽くしているような感覚と言った方が近いかもしれない。鳥籠には出口があるれど、壁にはない。出口がないから自分で壁に穴を開けて飛び出した。

「家族は? 家を出るって言ったとき何か言われた?」

「最初は止められた。一人で生活するのは大変だから家にいた方がいいんじゃないかって何度も言われた。でも、どうしても出たかった」

 ふいに頭の中に、家を離れる当日の朝の情景が浮かぶ。駅まで送ってくれて改札の前で手を振り合ったときの母親の顔を思い出す。まだ何か言いたげだったあの顔を、こっちに来てから今日まで一度も思い出したことはなかったのに。

少し、話しすぎたのかもしれない。反動のようにやってきた眠気。閉じかけた目を擦って時計を見ると日付がちょうど変わったところだった。

「明希は仲がいいんだね。家族と」

 仰向けになった伊月ちゃんと同じように天井を見つめ、ゆっくりと目を閉じ、瞼の裏に焼き付いた照明に視点を集中させる。仲がいい。言われてみれば確かにそうなのかもしれない。一日中くだらないことで笑い合い、何かあれば助け合い、揃ってどこへでも出かける。きっと、他の家と比べても家庭内の明るさや団結力は突出しているだろう。あくまで表面的には。

「私思うんだけど。きっと、親が想像している子どもの幸せの形と、子どもが自分で想像している幸せの形って、必ずしも同じとは限らないんだよね」

 夜が更けていくにつれて、伊月ちゃんもいくらか饒舌になったような気がする。夜というのはどうしてこんなにも気分を開放的にさせるのだろう。

「ねえ。明希が想像している幸せって、一体どんな形なの?」

 伊月ちゃんの言葉がただの音となって耳に響きすぐにすり抜けていく。瞼の裏の残像が薄れ、消えた。起きたらまた話を続けよう。私は心の中で伊月ちゃんに謝りながら、眠りの渦に飲み込まれていった。


【続】

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