黎明風涼し

篠哉

第1話

 夜が徐々に明けていくあの景色は、いつも長い幻想のような感覚を私の心に残す。眠ってしまえば刹那、でも起きていればまるで自分だけしか存在していないかのように思える時間。眠れない夜はそっとカーテンを開けて空を見上げる。やがて白む空は、眠れない理由も、漠然としたこの心も、全て包み込み、溶かしてくれる。



 午前一時。緩やかな坂を登りきったところにある新聞販売店の駐車場にバイクが続々とエンジン音を立てながら集まってくる。細々と交わされる挨拶、大きなあくび。やがて全員が集まり、それぞれが作業を始めた。

 トラックで届けられた新聞の束から自分の担当する区域の部数を数えて取り、チラシを挟み、黙々とバイクに積んでいく。一番の新人である私は皆に遅れを取らないように、軍手の甲で額の汗を拭いながら早足で新聞の束をバイクの前カゴと後部に積んでいく。

「明希ちゃん、飲み物忘れてるよ」

 新聞を積み終わり出発しようとバイクに跨がったとき、店の中から声がした。エリアマネージャーの晴海さんだった。

「この時期は特に水分補給が大事だからね。団地の階段駆け上ったら暑さですぐにバテちゃうから。もし体調が悪くなったらすぐに私に連絡すること。いいね」

「ありがとうございます」

 ペットボトルを受け取ると、晴海さんが私の顔を覗き込んで笑う。私は小さく頭を下げ、ペットボトルをかごに入れる素振りをして目をそらした。彼女の中性的な顔立ちとくっきりとした二重まぶたの大きな目は、心の中の秘め事まで全て見透かされてしまいそうでいつも直視できなかった。

 晴海さんは十年前、二十歳のときにここで働きはじめたらしく、仕事も所長に一目置かれている。初対面の五人に一人はハーフと間違えるという彫りの深い顔立ちや常に堂々としている立ち振る舞いは、テレビで長年人気のある女優にも負けていないと休憩中に男性スタッフたちが話していた。中には何人かが性的な話を持ち出していたけれど、彼女はレズビアンだからどんなにアプローチをしても無駄だ、と一蹴されていた。

「どう、一ヶ月経って少しは配達に慣れてきた? まあ、まだまだ身体はキツイと思うから無理はしないようにね。大変なときは手伝ってあげるから遠慮なく言いな」

 そう言うと晴海さんはもう一度笑い私の肩を軽く叩いた。それから背を向けて、肩にかけているタオルでこめかみの汗を拭いながら店の中へと戻っていった。私はその背中を見つめながら飲み物を一口飲んで喉を潤わせ、一息ついてバイクのエンジンをかけた。新聞のずっしりとした重みを前カゴと後部に感じながらアクセルグリップを右手でしっかりと握りしめ、目の前に広がる真夜中へ思い切り飛び出した。

 走りはじめて一人になるとひんやりとした風と静寂が全身に染み渡る。最近聴いている流行りの曲を口ずさみながら次々と新聞をポストに投函していく。

 この街は坂が多く、それまでバイクに一度も乗ったことのなかった私は入社初日から苦戦した。ブレーキとアクセルを間違えて電信柱に衝突しかけたり、バイクのカゴをこれでもかというくらいに凹ませたり、カーブで転倒して足首を捻ったり、二十キロのスピードを出すことすら恐怖心を覚えて所長に呆れられるほどだった。バイクに慣れると今度は配達をする百八十件近い家の順路と新聞の種類を暗記し、順路帳をボロボロになるまで何度も読んだ。そうしているうちにいつのまにか頭も身体も自然と動くようになり、今では昼とは全く異なった顔を見せる人気のない道路を走り抜けるのがこんなにも気持ちのいいことなのかと胸が躍るようになった。夜更け特有のこの感覚は、幼いころ近所にあった森の中を好奇心に駆り立てられ一人で探検したときの高揚感によく似ていた。

 地元を離れ今の新聞販売店で働きはじめるまで、この街のことは地名も何も知らなかった。きっとあのまま地元で生活をしていたらこの街も、この仕事も、勢いよく肌を掠めるこの夜風の心地よさも、一生知らずに終わっていただろう。生まれついた一つの地で人生の選択肢が狭められてしまうのが嫌だった。慣れ親しんだ環境が必ずしも快適なわけではないと、いつのころからか感じるようになっていた。

 配達も終盤になって後部に積んでいた新聞の残りを前カゴに移し、大通りの信号を右に曲がって少し進んだところにあるマンションの自転車置き場の前にバイクを停める。ここが最後だ。残りの新聞の種類と部数を頭の中に浮かべながら片腕に順番に並べる。ぴったりだ。ミスなく配達をするのは最高に気分がいい。私は軽い足取りで目の前の階段を駆け上がった。エレベーターで十階まで上がり、横一列に並ぶドアのポストに新聞を差し込んでいく。九階、八階、七階、といつもの調子で新聞を配り終え一階への階段を駆け下りていたとき、突然けたたましい音がして顔に何かがぶつかってきた。私は階段から足を踏み外しそうになって思わず階全体に響きそうな声量で叫んでしまった。ぶつかってきたものの正体が壁に張り付いていた蝉だと気付いたのと、一番手前のドアが開いたのはほぼ同時だった。

 怒られる、と身をすくませたけれど、ドアの中から出てきたのは小柄な少女だった。

「あ……」

 少女の方もこちらを見て固まり、そのまま沈黙が流れる。たった今ぽつりと宙に浮かんで消えた声が自分のものか相手のものかわからなかったくらいに頭の中が真っ白になっていた。でもお互いに目だけはそらすことなくその場に立ち尽くしていた。

 少女が動いたのは、私がこの場からすぐに立ち去らなかったことを頭の中でぼんやりと後悔しはじめたときだった。

 彼女は静かにドアを閉め、華奢な背中には似合わない大きなリュックを背負い直し、私の目の前まで歩み寄ってきて、そこでぴたりと足を止めた。黒い粒のような虫が集まっている頭上の古い蛍光灯が、不規則に点滅を繰り返しながら彼女を頼りなく照らしている。その顔立ちは間近で見るとまだ幼いように思えた。

「誰?」

 彼女の声を聞いた瞬間ようやく緊張が解けたように身体から力が抜けた。何か言葉を返さなければと私は口を開いた。

「あの、驚かせてごめん、今新聞を配達していたところで……」

「新聞屋さん?」

 うん、と頷くと突然彼女が大きく息を吐き出してその場にしゃがみ込んだ。背中のリュックが重いのか後ろによろけそうになったのを見てとっさに私もしゃがんで腕を伸ばしたけれど、彼女は何とか持ち堪え私を見て薄く笑みを浮かべた。

「ねえ、新聞屋さんってことはバイクでここまで来たんだよね? ちょっとお願いがあるんだけど」

 忙しなく点滅していた蛍光灯がついに力尽きて消えたのと同時に、薄暗闇の中で腕を掴まれた。そのまま引っ張られるままに立ち上がり駆け出す。声を出す間もなかった。私のすぐ後ろで、蝉が鳴き声を上げてけたたましく飛び立ったのが聞こえた。


【続】

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