カントの朗読#15 少年の刃

 遺体の安置された石造りの無機質な部屋に、悲嘆に暮れる人々を慰める乳香と没薬の香りが満ちていた。イエス様の誕生の際に東方からやってきた三賢人が携えたというその贈り物は、今もなお時代を超え、こうして人々の生と死に関わっている。

 だが、その神聖な香りをもってしても生き物の腐敗したにおいというのは、なおのこと耐えがたく不愉快で吐き気をもよおす酷いものだった。

 ディーゼルはいくつかの棺を開けてしばらくして、かつて医師たちが被ったと言われるマスクをどうにかして手に入れなかったことを悔やんだ。すでに鼻に当てていたハーブを浸したハンカチの効果も気休め程度にしか感じられず、目もシパシパと涙が溢れそうだった。

「やはり、ひとりでここに来たのは正解だったかもしれん…」

 ディーゼルは安置所に並べられた棺を見ながら、ひとりそう呟いた。

「子どもまでも容赦もない…なんとも手荒い扱いじゃな」

 アルテミスはなおも安置所に置かれた椅子に気怠げに腰掛け、愛玩する烏のクチバシを撫でながらそう呟いた。

「…化け物に襲われたんなら、無疵な屍ともいくまいよ。以前、森で野犬に襲われてうち捨てられていた旅人もこんな有様だったぜ」

 ディーゼルはぶっきらぼうにそう言うと、棺のふたはそのままに立ち上がって壁の方へと歩いて行った。そこには聖職者が使うのであろう手洗い用のたらいが置かれていた。

「ふ、随分と皮肉なことを言う…」

 アルテミスは口角をにやりと持ち上げたあと、ふんとひとつ鼻を鳴らした。

「…この遺体は今日にでも動き出すのかね。俺は伯爵様とは縁もゆかりもないが、ルイスの坊やに見せるには忍びないぜ」

 ディーゼルはそう言って、たらいに張られた水で軽く手を濡らすと、神経質そうに手をハンカチでぬぐった。

「さてな。分からぬ」

 アルテミスはなおも興味なさげな様子ではあったが、しばらくしてひとつ悩ましげにため息を吐いた。

「そもそも、我なら眷属にするならこうまで惨たらしくはせん。これを食った阿呆のなれがしれるというものよ」

 アルテミスがどこか侮蔑をこめて話すのに対し、ディーゼルは無感情に答えた。

「なら、お前さんに襲われた方がこの家族もまだマシというものだったのかね」

「小僧…そう我がなんでも悪態を鷹揚に許すと思うなよ」

 凄惨な遺体の並ぶといえど、それでも教会の静謐な空間に、息も詰まるような張り詰めた空気が流れた。蝋燭が灯るだけの薄暗いなかでも吸血鬼の紅い瞳は爛々と輝いていた。ディーゼルはその雰囲気に思わず、腰に差したナイフに手を触れた。

「…だが、そうさな。我も長い暇の慰みに、眷属をひとりふたりと持ったことはあったが…さて」

 その様子を見て、いくらか溜飲を下げたのか、アルテミスは再びため息をついて続けた。

「理性のない屍鬼となるのは、劣等な吸血鬼に血を吸われた者だけよ。我のような高貴な吸血鬼に血を吸われた者は、理性も感情も残った人と変わらぬ姿で、ただ闇夜の住人となるのだ」

「それを治す方法は…?」

「ないな。まぁ、強いて言うなら…」

 アルテミスがそう続けようとした刹那、


――ガシャアアアアアアアアンンン


 二人は石造りの教会に響くけたたましい音に一瞬身を固くした。

 ディーゼルは霊安室の扉に身体ごとぶつかるようにして飛び出していった。

 

 礼拝用の椅子の並ぶ身廊の先にある祭壇と内陣の間に一人の…いや一匹の吸血鬼が佇んでいた。

「ぐ…ぐぅ」

 その口元には教会の司祭が首を噛まれてもがいており、狼が鹿の首元に噛みつき、決して離す気はないといわんばかりの執着心をもってしつこく噛みついていた。見れば、内陣の間にはルイスが首元を押さえ、血だまりのなかに横たわっていた。

「ちっ!」

 ディーゼルは走りながら器用に腰から片刃剣を抜き、レイピアの要領で一足飛びに突きかかった。ジパングの大きな戦乱を生き残った玄武から教わった強烈な突きを、吸血鬼は間一髪に逃れていた。明らかに前回の時よりも素早くなっている。

「ギギ…」

 だが、あの時とは違って、吸血鬼はより獣に近く歯をむき出しにし、敵意に満ちた眼でディーゼルを見つめるのみで意思の疎通はついぞ不可能に見えた。

「ギ!」

 ほんの一瞬の間をおいて、吸血鬼はくわえていた獲物を離すと、脱兎の如く駆け出した。その早さは、司祭の身体が床に落ちる前にすでに窓ガラスを割る程だった。

「くっ…」

 山の中で吸血鬼同士の争いを見た時でさえ冷静な様子を見せたディーゼルは、苦々しい顔でその後を見つめていた。一瞬焦って駆け出しそうになるのを、少年のうめき声が止めた。

「うぅぅ…」

 ルイスは首元を手で押さえていたが、その指の隙間からは紅い血液がとめどなくあふれていた。すぐにディーゼルはルイスのそばに駆け寄ると、倒れた燭台に敷かれていた布をとりあげ傷口に押し当てた。が、食道が見えそうな程にえぐられた首の傷から血が止まる気配はない。息も絶え絶えとなり、みるみる顔から生気が抜けていくのが目に見えて分かった。どう考えても、もう長くはない。

「小僧、噛まれたのか」

 アルテミスはその様子を冷めた目で見ていた。その姿は教会のミサに立つ司祭のように厳かにも見える。

「…諦めるしかない。吸血鬼に、それもあのような劣等なものに噛まれれば、もうお前の道は決まっておる」

 ハァハァという激しい呼吸に、どこを見ているか分からない虚ろな目で、それでもしっかりと少年はアルテミスの方を見ていた。

「ひとつ方法はある」

 アルテミスはまるで奇跡を授ける聖母のような優しい口調で、悪魔の囁きを告げた。

「我の眷属となることじゃ」

 ルイスは言葉には出さなかったが、明らかに戸惑ったように眉をひそめた。

「小僧…お前はなりたいか?あのような穢らわしい存在に。…我のような夜の住人になれば、今よりも強く、賢く、美しく、人よりも長い時を過ごすことができるぞ。我に同行する必要も無い。お前は永遠に自由だ」

 アルテミスはゆっくりと、アダムとイブを唆す蛇のような甘い言葉で、そう語りかけた。

「…私はあんな恐ろしいものに…貴女のような化け物には…なりたくありません」

 傷のせいか、はたまた目の前にある死へ恐れか、ルイスの肩はぶるぶると小刻みに震えていた。その声も、本当に静かな教会のなかでようやく聞き取れるほどか細く、それでも意志の強い言葉だった。

「小僧…我を拒むか?生意気な…」

 アルテミスは一歩、ルイスの元へと踏み出そうとして、途端止めた。

「…ディーゼル。何のつもりだ」

 アルテミスは静かにそう呟いた。透き通るような白い肌の首元に、ディーゼルの片刃剣が突きつけられ、蝋燭の炎に照らされ鈍い光を放っている。

「ルイスの坊やに対する温情痛み入るがね…。こいつも俺もヴィアレットの傭兵だ。誇り高きカルチェスだ。どう生きるかは雇い主が決め、いつ死ぬかは運命が決めるが、どう死ぬかは俺たちの自由なのさ」

 ディーゼルはそう言うと、剣を下げルイスの身体を抱き起こして尋ねた。首元を噛まれた司祭はすでに息絶えた後だった。

「ルイス。どうするね?」

「こ、この剣で…」

 ルイスは腰に差した短剣を振るえる手で抜くと、ディーゼルに手渡そうとしたが、逡巡した後、「…いえ、剣を握らせてください」と言い直した。

「お嬢には俺から言っておくよ」

 ディーゼルがルイスの弱々しい手に持つ剣に手を添えると、心の臓腑のある胸に切っ先を向けた。

「…お嬢様。お先に失礼します」

 ルイスはそう天井を見つめて呟くと胸に押し当てた刃を一気に突き入れた。

 薄い胸板に、銀色の刃が深々と刺さり、しばらく苦しげにルイスは息をしていたが、最期の一息を吐いた後、少年の魂は天に召されたのだった。

「ふっふふ…」

 アルテミスはその様子を最期まで食い入るように見て、目を閉じて笑った。

「若さ故の無欲さか…はたまた騎士の気概か…。この小僧は随分と気高いようだ」

 その表情をディーゼルは随分と長い時間が経った後も、印象深く覚えていた。

 楽しげで、無邪気な笑みを覚えていた。

 強いて言うなら、ユナリヤとの語らいの際にふと、ほんの一瞬だけ見せるような慈愛に満ちた顔だった。

「あの薄暗い部屋に置かれている者どもも、早いうちに火葬してやることだ。ミサで使った松明をくべればいい。そうすれば、屍鬼になることはない」

 アルテミスはさも満足したといわんばかりにそう言い残すと、つかつかと吸血鬼の出て行った窓へと歩み寄っていき、ディーゼルの方を振り返って言った。

「あの者は我が殺すとしよう」

 吸血鬼の女がそう告げると、烏が一羽ディーゼルの元へと降り立った。どうやら眷属の烏らしい。その烏に気を取られ目をそらすと、すでにアルテミスの姿はどこにもなかった。

 

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ヴィアレットの過去 Yuna=Atari=Vialette @AtariYunaV

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