壁紙の裏の扉

結騎 了

#365日ショートショート 101

 葉子の足取りは重かった。

「はぁ……。また今日から、あの地獄の日々。憂鬱だわ」

 彼女は資産家の屋敷でメイドとして働いていた。仕える相手は、齢八十の老人・天田典寿郎。一代にして莫大な財を築いたが、その正体は極度の偏屈。雇ったメイドが次々に辞めると地元では有名だった。しかし、給与形態は決して悪くない。生活に困っていた葉子は意を決して採用に応募。そして、あろうことか、もう二年もこの屋敷に通っていた。

「一度休んじゃうと、本当に気が重くなるわね」

 屋敷の外壁を塗り替える工事が行われ、それにあわせて天田が海外旅行に出かけることになり、一週間の休暇が与えられたのだ。なにせ、メイドの仕事は想像を超えた激務だった。この屋敷には労働基準法が存在しないのだろう。朝から晩まで休みなく、天田の数知れぬパワハラにも耐えながら、葉子は神経をすり減らしていた。

「あんなにお給料をもらえても、さすがに度を越しているわ。もう、今度こそ辞めてやるんだから」

 今日こそはと意を決し、屋敷に入る。どうやら天田は寝室で寝ているようだ。さて、まずは全ての部屋の掃除から。五十畳のリビング、厨房のようなキッチン、遊技場、大浴場、サウナ室まで、丁寧に汚れを落としていく。果てしない重労働である。


「あれっ」

 葉子がふと足を止め、しゃがんだのは、寝室横の廊下だった。壁紙の隅がほんの少し、めくれている。「気づかなかったわ。ここ、前からこうだったかしら……。いけない、修繕しないと怒られるわ」。ほんの数センチ、ぺらりとめくれた壁紙の隅。糊でも探そうかと立ち上がるも、ふと、なにかが気になる。

「こんなこと、いけないのに……」

 めくれた壁紙を人差し指と親指で挟み、つつっと、斜め上に持ち上げてみる。そこに、違和感の正体があった。

 扉。それは扉だった。周囲の壁と段差はなく、ぴったりと埋まっている。ドアノブはなく、凹んだ取っ手、つまりこれは引き戸なのだ。

 壁紙の裏の扉。そう、隠し扉である。なんてこと。こんなの、この二年全く気付かなかった。この扉の奥には、どんな隠し部屋があるのだろう。

「どうしたのかね」

 ひゃっ、と声を上げてしまった。背後にいたのは、主人である天田だ。

「いえ、なにもございません。掃除の途中でした」

 バツが悪く、葉子はそそくさとその場を離れた。


 誰もいないキッチン。葉子はあの扉のことが気になって仕方がなかった。「だめだ、頭から離れない。あれをどうにかして開けないと……」


 しかし、それは容易ではなかった。歳のせいか、天田は寝室にいることがほとんどである。寝室に隣接している廊下で、いきなり壁紙を剥がすなど出来るわけがない。では、トイレに行ったタイミングではどうか。いや、無理だ。勢いよく壁紙を剥がし、扉の中を確認しても、天田が戻ってくるまでに元通りに貼ることができない。どうにかして、自分だけがゆっくりあの扉に向き合える時間を作らなくては。


 それから一年、二年、三年。天田に隙らしい隙はなく、時だけが経っていった。天田の体は目に見えて衰え、寝たきりでいることが増えた。外出もしなくなった。ますます、寝室には近寄り難い。


 そういえば、天田が脱税しているという噂があった。葉子はメイドの求人を見た時のことを思い出していた。ハローワークの職員が、冗談交じりにそんなことを言っていたのだ。天田家には、隠し資産がある。金の延べ棒にでも変えて、あの家のどこかに隠しているのかも……。


 葉子の好奇心は、はち切れんばかりだった。なにをしていても、あの扉のことが気になってしまう。しかし、一向に隙は見られない。天田は朝から晩まで寝室で惰眠を貪っている。家事を全てやっているこっちの身にもなってほしい。

「お食事の用意ができました。失礼いたします」

 ある日、そう告げて寝室に入った葉子は、トレイごと夕食を床にぶちまけてしまった。天田が血を吐き倒れていたのだ。

 あっけなかった。翌日には通夜、そして滞りなく葬儀が終わった。どうやら、天田は自身の死期を察していたらしい。寝室は綺麗に整頓されていた。あの偏屈じいさんの、あっけない最後。葉子は言い知れぬ喪失感を抱いたまま、屋敷にひとり戻った。

 この家に勤めて、もう八年。こんな形で終わりがやってくるなんて。


 静かな、しかし確かな足取りで、あの廊下に向かう。壁紙は、今日も小さくめくれていた。ぐっ、と勢いよく剥がす。包装紙が破けるような、ぐしゃっとした音。その奥には、夢にまで見たあの扉があった。


 取っ手に手をかけ、力を込める。


 扉の数センチ奥には、壁があった。ただの壁だった。その中央に貼られた一枚の紙には、『すまない。ありがとう。 天田』と記されていた。

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