18●補足:『同志少女よ、敵を撃て』感想のまとめ①:イェーガー君が可哀想すぎる……
18●補足:『同志少女よ、敵を撃て』感想のまとめ①:イェーガー君が可哀想すぎる……
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さて『同志少女よ、敵を撃て』につきまして、私個人の疑問と感想をまとめさせていただきます。
① 作品の設定を変更して修正加筆する過程で、描写に混乱を生じているのではないか?
第一章に語られる、惨劇の舞台となったイワノフスカヤ村についてですが……
おそらく最初の設定で、村は「1941年夏の独ソ戦開戦まもなくに、侵攻したドイツ軍によって焼かれた」とされていたのが、
「数か月後の冬、1942年2月に、敗走中のドイツ軍による村民虐殺の直後、赤軍のイリーナによって焼かれた」に変更されたのではないかと思われます。
つまり物語の出発点で、大きな設定変更があったと推測されます
そのため、原稿があちこちと細かく修正加筆されました。
その過程で、第一章の季節感に夏と冬の混同による違和感が残り、また、P425の4行目、P427の14行目にあるように“村を焼いたのはドイツ軍”であるとする表現が残ってしまったのではないでしょうか。
② セラフィマが憎むべき“敵”が、いまひとつ曖昧ではないか。
イワノフスカヤ村の虐殺の責任者はドイツ軍の「指揮官」ですね。それはP28の8、9、12行目で明らかです。
まずはその「指揮官」が、セラフィマが憎むべき敵となります。
この「指揮官」はP33の4、10行目の「士官」と同一人物でしょう。だとすると敵の「指揮官」はそこで殺されてしまうのであり、セラフィマの“敵”は早々にあの世へ旅立ったことになります。
その代わりでしょうか、セラフィマは狙撃手のイェーガーを憎みます。
これがまた、イェーガー君にとって“とんでもない、とばっちり”とでも言うしかない、“八つ当たり”的な憎悪で因縁をつけられているのです。まるで冤罪です。
と言いますのは……
セラフィマは再会したイェーガーに「村の虐殺を止めるために、何かをしたのか」(P424)と、猛然と責任を追及します。
しかしイェーガーは「指揮官」でなく一介の狙撃兵であり、ドイツ兵の指揮官に銃口を向けて発砲寸前だったセラフィマの母を(パルチザンとみなして)撃つのは兵士として正当な戦闘行為であると考えられます。
そして何よりも、村人の虐殺に加担していません。P31の3行目にあるように「家の隅に椅子を置いて、ただ座っていた」とあるのです。
さらにP31の15行目では「女への暴行は軍機に反する」と紳士的だし、サンドラを、互いに合意の上で(P219の4行目でサンドラ自身が「愛し合っている」と告白している)愛人にしたことは婦女暴行とはいえませんし、彼もサンドラを全身全霊で愛している様子ですし、P425の11行目以降では「申し訳なかった」とセラフィマに謝罪するあたりは人間的だし……
つまり、どうみても悪人には見えない好人物なのです。
イェーガー、いい奴じゃん。作品中の人物で、友達にするならイェーガー君ですよ。ちょっと小心者で、強気の女性にめっぽう弱いという印象ではありますが。
しかも「頼む、許してくれ」と泣いて謝ったイェーガー(P425)が瀕死の状態なのに、P441の前半でネチネチといたぶって「なんでこいつの死に際を安らかにしたのだろう」と毒づくあたり、セラフィマってなんだかすごくヒステリックで残酷すぎやしませんか?
イェーガー君、彼は実のところ、ほぼ罪なき模範的善人です、ただ彼は任務と愛人に忠実だっただけなのです。
しかもP448の9~10行目で、セラフィマの罪は全て、セラフィマとイリーナの悪知恵で、善人イェーガー君になすりつけられてしまいました。
セラフィマ、鬼ィィィィィィっ!
そんな印象なのですが。
P443の2行目の描写「同志少女よ、敵を撃て。」で“敵を撃つ”のは理解できますが、その責任を結局、哀れなイェーガー君に「死人に口無し」とばかりに押し付けてしまったのは、どうなんだか……
イェーガー君、これでは全く浮かばれません。
セラフィマと関わりを持ったばかりに、悪いことは何もしていないのに人生の破滅へ追い込まれてしまいました。
いや、ストーリーとしておかしいとは言いませんが、私はセラフィマみたいな女性とは、あまりお近づきになりなくないなァ……と思うのであります。
だって……怖いもんね。
この作品、読めば読むほど「罪なきイェーガー君の受難と残酷物語」なのです。
ここが不思議でなりません。
作中でずっと、セラフィマがイェーガー君を執拗に追い求める理由が、いまひとつ解せないまま、ラストまで進んでしまうのです。
③ 映画『ロシアン・スナイパー』(2015)、『スターリングラード』(2001)と比較してしまう。
『同志少女よ、敵を撃て』は文字媒体なので、作品世界を視覚的にイメージする上で、同時代を描いた映画を見てから読む、という鑑賞方法がお勧めです。
特に『ロシアン・スナイパー』(2015)はまさに同時期の女性狙撃手リュドミラ・パヴリチェンコの出征から戦後を描く佳作です。
彼女は『同志少女よ、敵を撃て』の作品中に登場してイリーナやセラフィマと直接対話する場面もあるので、必見ですね。
また『ロシアン・スナイパー』は今や貴重な「ロシア&ウクライナ合作」の映画。
2014年にロシアの勝手なクリミア併合で両国関係は事実上の戦争状態に突入したので、合作される大作映画はこれが最後かと思われます。
そしてもうひとつは、ジュード・ロウ主演の『スターリングラード』(2001)。
こちらは男性狙撃手ヴァシリ・ザイツェフの、まさにスターリングラード戦そのものにおける苦難の活躍が描かれています。『同志少女よ、敵を撃て』におけるスターリングラードの戦場を想像する上で、これも必見作品。
『ロシアン・スナイパー』、『スターリングラード』とも、フィクションの演出は随所にあるものの、概ね史実をなぞっていて、突拍子もない設定やご都合主義のオーパーツな物事が出現するわけではありません。だいたい、当時に起こりえたエピソードを組み合わせて構成されているようです。
この二作の映画を観たうえで、『同志少女よ、敵を撃て』を読みますと、そこはかとなく、共通点とか、類似した場面に遭遇します。どちらの映画作品も公開翌年あたりにはDVDが出ていますので、『同志少女よ、敵を撃て』の作者様は絶対にこの二作を観て参考にされたことでしょう。
気になるのは、スターリングラードの狙撃手ザイツェフは生身で登場しないからいいのですが、パヴリチェンコ女史は登場して、かなり重要な役回りをこなしていますので、やはりどうしても映画と小説を比較してしまうこと。
なにぶん欧米人が描く欧米人の歴史の映画ですので、迫力もディテールも、比較すれば映画の方が優越してしまいます。この点は、『同志少女よ、敵を撃て』の文字媒体ゆえの辛い宿命と言うしかないでしょう。
【次章へ続きます】
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