06●“パヴリチェンコの亡霊”の呪縛(2):架空人物の存在感が実在人物に依存する危険。★★★(20220504、自伝を踏まえて改稿)
06●“パヴリチェンコの亡霊”の呪縛(2):架空人物の存在感が実在人物に依存する危険。★★★(20220504、自伝を踏まえて改稿)
ソ連をナチスから守った英雄である、20世紀最高の女性のカリスマスナイパー、リュドミラ・パヴリチェンコ。
彼女は実在の人物ですが、架空の物語世界の中で、重要な登場人物として、主人公セラフィマと上官イリーナに直接対面します。
パヴリチェンコは、セラフィマの上官イリーナの親友として親しく会話します(P367)。引き続いてセラフィマは、そのあと10ページにもわたって、パヴリチェンコから狙撃手としての心得や、一人の女性としての生き方について薫陶を受ける……という場面が、フィクションであるはずの作品世界に挿入されています。
それで、どうなったかというと……
否応なく、イリーナの存在が、かすんでしまいました。
実在人物が、チョイ役ではなく、主人公セラフィマと上官のイリーナに“天の声”とも言うべき大切な教示を懇々と授けたことで、セラフィマを導くべきイリーナの決定的な役割が、どこかへ飛んで行ってしまったのです。
あくまで私個人の感想ですが、物語の中でパヴリチェンコ女史が語る内容は、むしろイリーナがセラフィマに対して、実戦を通じて、その気合いと行動で教える……といった場面に代えられていた方が、面白かったのになあ、と思いました。
というのは、物語が進行して、そのクライマックスに達するとき……
セラフィマのセリフ「だから私の側にいて、イリーナ……」(P460の6行目)を中心として、P454から461までの展開は、百合の香りもかぐわしい、女同士の真摯な純愛の場面が展開するからです。
つまり……
主人公の、当初は激しく憎む感情が、ラストでは愛に昇華される。
すばらしい、美しい結末です。しかし……
セラフィマの心の決定的な転機をもたらすきっかけに、実在人物であるパヴリチェンコの存在感が介在して(P460の4~5行目)しまいました。
これも、あくまで私の個人的な感想ですが、ある種の違和感を禁じ得ません。
本来、パヴリチェンコがいようがいまいが、セラフィマに対してイリーナがどのように関わってきたのかが、この作品のドラマの中心軸だと思うからです。
そのことが最も重要であって、“パヴリチェンコ様がこんなことをおっしゃっていたから”といった感情は、イリーナとセラフィマの間に成立する愛の本質とは別次元の、“差し出がましい指図”にあたるのではないでしょうか?
*
私の余計な評論でしかありませんが、実在人物で、しかもカリスマ性の極めて高いパヴリチェンコ女史の登場は、さすがにインパクトが強烈で、他の登場人物を一発で蹴散らしてしまいます。
パヴリチェンコ女史の自伝が原書房から出ていて、巻末の参考文献にも挙げられています。『同志少女よ、敵を撃て』に使われるパヴリチェンコ女史の言葉は、必然的に、その自伝に準拠しなくてはなりません。
だとすると、パヴリチェンコ女史の人物像を知るには、フィクションとしての、この作品でなく、彼女の自伝を読んだ方が正確だ、ということになります。
しかしパヴリチェンコ女史は、ながらくソ連のプロパガンダの主人公であったので、自伝に
2022年4月現在の、ウクライナ戦争におけるロシアのプロパガンダ報道の実態が報じられるにつけ、パヴリチェンコ女史の本当の実像は、自伝では、おそらく
彼女の自伝から、ソ連とロシアの政権にとって、都合の悪い部分があらかじめ伏せられるとか、あるいは部分的に
結局のところ、リュドミラ・パヴリチェンコというカリスマスナイパーは、どのような人物だったのか……
近現代史の研究の中で、まだ、評価が定まっているとは言い難いでしょう。
しかし『同志少女よ、敵を撃て』では、実在のパヴリチェンコ女史が登場して語り掛け、主人公に多大な影響を与え、物語の結末にまで関与してしまいました。
架空の物語の中に、実在する人物が“理想像”として取り込まれている。
しかし、その人物の本当の“実像”はまだ歴史の中で明らかにされたとは言えない。
この“理想像”は、ある日突然に覆される“虚像”かもしれません。
そのことが、架空の作品世界に奇妙な違和感をもたらしているのではないか……
もちろん、この物語はフィクションであることがP494に明記されていますので、作品的に問題はありません。
しかし、これはやはり、作品が“パヴリチェンコの亡霊”による呪縛から逃れられない……という宿命を背負ったことを示しています。
なぜなら……
パヴリチェンコを語らずして、イリーナとセラフィマを語れなくなったからです。
イリーナとセラフィマは、実在するパヴリチェンコの存在感の偉大さに依存しなければ、この架空の物語世界の中に存在できなくなったのではないでしょうか。
それは……
“実在人物の存在感なくして、架空人物が存在できない”という不思議な現象。
そのような物語構成を採用した瞬間、作品は実在人物パヴリチェンコのカリスマ性を超えることができなくなり、イリーナとセラフィマは、“牧者たるパヴリチェンコに率いられた子羊たち”という立場に甘んじるしかなくなります。
これが、“パヴリチェンコの亡霊”による呪縛です。
しかもパヴリチェンコの人物像は、大戦中の国家的プロパガンダによってガチガチに神格化され、戦後もソ連とロシアの国家体制に不利な事実は避けるように形成されていったと思われます。
なので、大戦中の狙撃兵としてのパヴリチェンコ女史の戦歴が正しく記録され、客観的に分析されたか否か、2022年の現時点では、まだ判断することができません。
パヴリチェンコ女史の青春からスナイパーとしての出征、オデーサからセヴァストポリへの転戦、そして米国訪問を描いた映画『ロシアン・スナイパー』(2015)と彼女の自伝『最強の女性狙撃手 レーニン勲章を授与されたリュドミラの回想』(原書房2018)とを比較すると、対戦車狙撃や敵の熟練スナイパーと差し違える射撃、恋人の献身によるセヴァストポリからの脱出、といった見せ場は映画にありますが、自伝にはありません。
まあ、そのあたりは映画にありがちな演出でしょうが、一方、ソ連最高指導者スターリンとの二度にわたる対面や、またパヴリチェンコが出征前に結婚し子供も生まれていたこと、しかし米国訪問時は“未婚”とされていたこと(自伝P303の7行目)、といったエピソードは自伝にあっても映画にはありません。
また、彼女は自伝のカバー表3折り返しの略歴紹介で「1916年ウクライナの小村で生まれる」とあり、“ウクライナ出身”と考えてもよさそうですが、本人はウクライナ人なのかと尋ねられたとき「違います、私はロシア人です」とキッパリ否定しています。(自伝P100の最後の行)
彼女のアイデンティティは、ウクライナでなくロシアにある。
彼女は“大祖国戦争”の勝利者であり、英雄としてふるまっていた。少なくとも、そのように行動すべくプロパガンダによって規制されていたのでしょう。
“祖国防衛の英雄”とされる彼女の人物像は、少なくとも自伝では、ファシストを心底から憎み、冷徹に射殺する優秀な狙撃兵であり、同志スターリンと親しく接した経験を持つ、忠勇なるロシア人であり、たとえば『戦争は女の顔をしていない』で取材された、戦争の傷跡を心に深く刻んだソ連女性たちとは明らかに異なるものがあります。彼女は自分が育成したスナイパーを戦場に送り出す立場となり、そして教え子の女性スナイパーは相当数が…おそらく千人以上…が還らぬ人となったわけです。
彼女には、表面に出せない、複雑な事情が隠されていたことでしょう。
パヴリチェンコは本当はどのような人物だったのか。
そのあたりの真相は、おそらく、いまだに解明できていないのです。
それらのことを踏まえて『同志少女よ、敵を撃て』を、今一度読み返してみては、いかがでしょうか。
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