05●“パヴリチェンコの亡霊”の呪縛(1):セラフィマの憧れの英雄、しかし……

05●“パヴリチェンコの亡霊”の呪縛(1):セラフィマの憧れの英雄、しかし……




 リュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコ(1916 - 1974)。

 第二次大戦におけるソビエト赤軍の伝説的な女性狙撃手。

 ソ連邦英雄の称号を持つ。

 その戦果は、計309人。

 別名、“死の女レディ・デス

 「1941年、バルバロッサ作戦によってドイツ・ルーマニア・ハンガリー・イタリアによるソ連領への侵攻が開始されると、まだ大学に在籍中だった24歳のパヴリチェンコはキエフ市内の赤軍事務所へと赴き入隊を志願する」(ウィキペディアより、以下同じ)

 彼女は「支給されたPE4型望遠照準器(3.5~4.0倍率)を装着したモシン・ナガン狙撃銃を手に1941年8月、オデッサ市防衛の任務に就いた」

 「パヴリチェンコの確認戦果は後退戦開始から防御戦終了までのわずか約2ヵ月半という戦闘期間で、独軍の狙撃手10名以上を含む射殺187名にまで上っていたとされる」

 「オデッサから脱出したパヴリチェンコと第54狙撃連隊は、そのまま黒海艦隊の艦船で激戦の続くクリミア半島セヴァストポリに派遣された。(中略)数ヵ月後の1942年5月の時点で中尉に昇進していたパヴリチェンコの確認戦果は257名にまで増加して」いた。

 1942年6月、迫撃砲弾の破片を受け負傷したパヴリチェンコは、北コーカサスの赤軍病院に移送されることとなり、クリミア戦線を離脱した。



 パヴリチェンコは自伝を残しています。

 『最強の女性狙撃手―レーニン勲章を授与されたリュドミラの回想』(2018年 原書房 訳:龍和子)。

 また、映画化されています。

 『ロシアン・スナイパー』(原題:BITVA ZA SEVASTOPOL/BATTLE FOR SEVASTOPOL、 ロシア・ウクライナ合作、セルゲイ・モクリツキー監督、2015年)。


 私は、自伝は未読ですが、映画はDVDで観ました。

 当時の女性スナイパーの訓練と戦闘の実態にせまる、貴重な作品だと思います。

 もちろん『同志少女よ、敵を撃て』を理解するサブテクストとして、必見!!


       *


 ということで……

 『同志少女よ、敵を撃て』では、実在人物であるカリスマスナイパー、パヴリチェンコが物語中に登場します。なんと、セラフィマの上官イリーナの親友として、親しく会話するのです。(P367)

 そしてセラフィマは、そのあと10頁にもわたって、パヴリチェンコから狙撃手としての心得、あるいは一人の女性としての生き方について薫陶を受けるのです。

 パヴリチェンコは、単なる歴史上の実在人物というだけでなく、この物語の重要な登場人物として、欠かせない大きな役割を果たすわけです。


       *


 さてそこで、例の仮説です。


 ……『同志少女よ、敵を撃て』の最初の原型オリジナルに近い原稿では、物語のスタートを“1941年の夏”としていたが、何らかの事情で半年後の“1942年2月”に改稿されたのではないか……


 なぜ、“1942年2月”にしたのでしょうか?


 その理由のひとつは、このパヴリチェンコにあると思われます。

 パヴリチェンコが309人ものスコアを叩きだした活動期間は、1941年8月から、1942年6月までの、およそ10か月間しかありません。



 物語のスタートを“1941年の夏”にしていたら……

 パヴリチェンコの実戦参加は1941年の8月から。

 ですから、第一章のセラフィマは、まだカリスマとなる前、無名であるパヴリチェンコのことを知らないことになります。

 したがって、P22の12行目で「女性なのにクリミア半島で戦っているよ」というセリフは成立しません。


 女性の狙撃兵自体が、戦場ではまだほとんど活躍していない、戦力としては未知数の存在なのです。

 つまり、“1941年の夏”の時点では、セラフィマはまだ一介の猟師であり、戦場のスナイパーになることなど、全く思いもよらない、ということになります。


 ところが、物語のスタートを“1942年の2月”に変更すれば……

 天才女性狙撃手パヴリチェンコの実績は天下に轟いており、赤軍のプロパガンダによって世界中に喧伝されている頃です。

 しかもパヴリチェンコはまだ現役で戦っていて、負傷によって狙撃兵を引退するのは四か月後の6月です。

 ですから、セラフィマはパヴリチェンコの名前をよく知っていて、女性狙撃手という花形兵種があることを認識しており、パヴリチェンコのことを偉大なカリスマとしてリスペクトしていることが、P22の12行目の「女性なのにクリミア半島で戦っているよ」というセリフからうかがい知ることができるわけです。


 セラフィマが本心から女性スナイパーを志すかどうかは別として、パヴリチェンコのことを尊敬し、ある種の憧れも抱いている……という前提条件を作ることで、彼女がイリーナに強制されるような形で村を去り、“中央女性狙撃兵訓練学校・分校”に身を投じることになる伏線を敷くことができたと考えられます。


       *


 だから、セラフィマとパヴリチェンコの間の関係性をあらかじめ作り出すために、物語のスタートを1942年の2月へと、半年遅らせる必要があったのでしょう。


       *


 ただし、実在のカリスマスナイパー、パヴリチェンコ女史を物語中に登場させたことで、ある種の弊害も生じています。


 詳しくは次章で。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る