青春という病

佐薙概念

青春という病

 かつて失うものは何もなかった……だが、「かつて」と思うことじたいが、「失うものは何もない」という意識が意味を持ったひとつの時代の、その終わりを告げているのだ。


 三浦雅士『青春の終焉』


 1

 青春が返ってきた。

 僕が高校三年生の時、世界中を混乱に陥れた新型ウイルスによって失われた青春だった。


 その日はひどく晴れていた。人殺し以外何でもできそうな青空だった。仕事を辞めた次の日だったから、なおさら青かった。「世界が最も美しく見える瞬間は、自殺する間際だよ」と、かつて読んだ小説に書いてあったのを思い出した。

 何かを始めるのに理由はいらないのに、何かを辞めるのにはいつだって理由がいる。「飼っていた猫が死んだから」という理由で辞表が通ったのは、嬉しくもあり残念でもあった。愛着や未練などまったくない職場だったけれど、辞める時は少しくらい引き留めて欲しい気もする。けれどそんな考えも、歩いているうちに「馬鹿だな」の一言でどうでもよくなってしまう。


 2

「失われた青春が、返却されます」

 そんなハガキが郵便受けに入っていたのは、ちょうど一ヶ月前のことだった。はじめは単なる悪ふざけかと思ったが、差出人には「文科省」の文字が並ぶ。信じきれずインターネットで検索してみても、どうやら大真面目な話のようだった。

 突如として現れた新種のウイルスが世界を覆い、外出自粛が要請されたのも、もう六年前になる。社会人二年目で新卒採用された会社を辞めるような今とは違い、当時高校三年生だった僕はごく普通の真面目な高校生だった。

 始まりは二年生の終わり、学年末テストに向けてみんな焦っていた。テスト前日、担任は神妙な面持ちで僕らに伝えた。

 明日は休校であること。新型のウイルスが流行っていること。テストの有無も、次の登校日も未定であること。

 けれど後に世界で起こることを鑑みれば、深刻さが足りなさすぎるくらいだ。あの頃はまだよかった。

 結局、二月の終わりに出された休校令は六月まで続いた。七月に入って再開された後も、様々な制約付きの学校生活だった。誰かと向かい合ってご飯を食べることも、開催されなかった文化祭も、ゼロに等しかった夏休みも。今となっては懐かしいが、もう二度と戻っては来ない。

 パンデミックは一年とちょっとで収束したとはいえ、その被害は甚大だった。当時からよく言われていたことだが、高校生の一年と大人になってからの一年は、まるで価値が違う。高校生活最後の夏に手からこぼれ落ちた「青春」は、決して取り返せない。

 ところが、ハガキにはやはり「青春を返却します」とある。この文言だけではまったく理解できないが、この小さくて長ったらしい説明を読む気にもならない。どうやら、一ヶ月後以降に近くの市役所に行けば対応してもらえるとのことだったので、とりあえずスケジュール登録をしておいた。一月も終わりにさしかかっていた。


 3

「こちらの用紙に記入してお待ちください」

 市役所の一階、専用の窓口で受付を済ませると申請用紙を手渡される。必要事項はいたって普通で、氏名・住所・生年月日などの基本情報を書かされた。

 しばらくすると先程の事務員に案内され、奥の部屋へと入れられた。五つ並んだ部屋に一人ずつ順番に入っていく。やがて順番が巡ってくると、四畳ほどの部屋に通される。壁も机も椅子も白い、無機質な部屋だ。

 中には白衣姿の女性がいた。比較的若そうな、薄いフレームのメガネがよく似合う女性だった。

「それでは、カウンセリングを始めましょうか」

「カウンセリング?」

「もしかして、何も知らずにここまで来たんですか?」

「ええ、そうです」

 呆れるというより、明らかに面倒そうな顔で溜息をつかれた。

「お知らせのハガキにも、ホームページにもあったでしょう。六年前の青春を返却するために、まずはカウンセリングで当時の状況を聞くと」

「……ああ、なるほど。だからネームプレートに所属病院が書かれてるんですね」

 どうやら、目の前の女性は近くの大手病院に勤めている精神科医らしい。

「そうです。あなたの話を聞いて、ふつうの学校生活が送れていた場合に『起こりえたこと』をAIが診断します。そして各々に違う内容の薬が処方されるんです」

 女医の手には見覚えのあるカプセル薬があった。つい最近開発されたばかりの〈デーテル〉と呼ばれる薬だ。仕組みはよくわからないが、飲むと成分が直接脳に作用し、記憶の変化をもたらす。もともとはアルツハイマーや認知症を患った老人などの記憶に関する問題を持つ人々用に作られたものだった。つまり、パンデミックで青春が欠けている我々は病気扱いされているのだろう。あまり良い気分はしなかった。

「デーテルを使うなんてまるで病気みたいじゃないか、と思うでしょう」

 そんな僕の思考を見透かすように、女医は続ける。

「けれど、お知らせにもある通り、青春の返却は任意です。そもそも、六年前のあの時期に『青春が奪われた』と思っている人間が多数派ということはありません。制限の多い中で自分なりの青春を見つけ、納得している人も大勢います。そんな中、まるまる欠けた一年について思い馳せ、妙な欠落感がつきまとうのはやはり病気です。『青春病』とでも呼ぶべきでしょう」

 違う。僕が欲しいのはそんな理屈じゃない。ただこの塵みたいな感情とどうしようもない現状が、僕の所為じゃないことを示してくれたらそれで良いのだ。

「……ええ」

 きっと、僕はひどくひきつった顔をしている。こうして本心を隠して自分を無理に納得させるたび、大切なものがゆるやかに死んでいくのを知りつつも止められない。

「それでは、お話を伺います。学校再開から高校卒業までを教えてください」

「そうですね……」

 反省すべきことはやまほどある。思い返すのが辛いのも事実だ。とにもかくにも、僕の科白は「青春が欲しかった」で始まり、「素敵な話だと思いませんか?」で終わることになっている。


 4

 青春が欲しかった。けれど、高校二年でクラスが変わるまで、僕には友達がいなかった。僕の捻くれた性格とか、受験に失敗して選んだ高校が最悪だったとか、原因はいくらでも見つけられる。とにかく、部活にも入らず行事にも消極的、おまけに友達ゼロでぼっち飯が当たり前の僕は、真っ当な青春を送れているとは到底言えそうになかった。

 そんな状況が一変したのが、トヤマという男だった。バドミントン部のエースである彼は人望が篤く、成績も優秀だった。同じクラスになって席が隣になったあの日、彼は僕の目を見て真剣にこう言った。

「俺は、お前みたいなやつと友達になるために今まで生きてきたんだ」

 馬鹿だと思った。

 けれど、実際付き合ってみるとトヤマは本当に良いヤツだった。クラスの男子全員とほどほどに仲が良いのに、なぜか僕に対して異常に執着する。人間不信の僕も初めは何か裏があると思っていたが、ついぞそんなことはなかった。ただただ純粋で、性格の良い男だった。

 僕のような人間にもし友達が出来るなら、それはきっと僕のように空っぽな人間なんだろうな、とずっと思っていた。しかしその自虐は、僕が信じる彼自身を貶めることに他ならない。無為な卑下が少なくなったのも、確実に彼の影響だった。

 ところで、トヤマには恋人がいた。シナノという、サッカー部のマネージャーをしている女の子だった。

 シナノは目が大きかった。真っ黒で印象的な瞳は、快晴の夜に見る海に似ていた。顔立ちも整っているので、男子に人気が高いらしかった。僕とトヤマは1組、シナノは3組だったので授業が被ることはなかったが、昼休みや放課後など、実に多くの時間を僕らは三人で過ごした。けれどそんな時間も一年で終わってしまった。休校と制限のかかった学校生活は、急速に僕らの温度を冷ましていった。時々、夢に見る。あの幸せだった日々を。もしもウイルスなんか流行らず、あのまま三人で残りの一年を過ごせていたなら、今でも僕らは仲が良かっただろうか。いや、結局のところあのままの関係を保つのは無理だっただろう。

 正直に告白しよう。三人で過ごす時間を重ねるにつれて、僕は着実にシナノのことが好きになっていた。もちろん、僕の関わっていた女子の総数が少ないというのもあるのだが、それにしたって彼女は完璧だった。シナノは僕にとって100パーセントの女の子だった。

 トヤマが「お前みたいなやつと友達になるために今まで生きてきたんだ」と言って僕に近づいたように、僕も「シナノと結ばれるために今まで生きてきた」と思えてしょうがなかった。

 けれど、シナノはトヤマの恋人で、二人は僕の数少ない友人だった。想いを伝えてしまえば、この心地よい関係は崩壊してしまう。当然、そのことは理解していた。でも、僕は耐えきれなかった。想いを隠したままシナノと仲良くするのも、彼女を嬉しそうに眺めるトヤマを一番近くで見るのも、煮え切らない苦い感情を心に留めておくのも、すべてが嫌だった。結局、僕はシナノを呼び出すことにした。トヤマには言わずに、屋上で待ち合わせをした。いや、正確に言えば、待ち合わせするはずだった。学年末テスト終了後の予定で取り付けられた約束が果たされることはなかった。後から知ったことだが、あの約束をしたあたりから、既に外国ではパンデミックが発生していたらしい。文字通り、それは僕らにとってどこか遠い国の出来事だった。本当に子供だったなと、つくづく思う。

 僕の心は、欠落しているわけではない。青春が欠落した穴に、ちょうど後悔が埋まっている。けれどそれは、乾いた喉に塩水を注ぐようなものだった。


 5

「素敵な話だと思いませんか?」

 我を忘れて話し続けた僕はふと正気に戻ると、誤魔化すようにそう言った。

「……わかりました。そう入力しておきます」

 怪訝そうにこちらを見る女医にどう思われたのか、何もわからない。

「ところで、ひとつ質問があるのですが」

「なんでしょう」

「この話が嘘だった場合、どうなるんでしょう」

 女医は明らかに呆れた顔をした。

「嘘なんですか」

「いえ、もしもの話です」

「……そもそもこの『青春返却プロジェクト』は、夢を見せるようなものです。薬を飲んで得られる記憶は『起こり得たこと』であって、過去に起こった事実ではありません。言ってしまえば虚構なのです。虚構に対して嘘をつこうが真実を話そうが、不利益を被る人はいません。強いて言えば、本人でしょう」

「なるほど、ありがとうございます」

「もう一度、お話になりますか?」

「いえ、いいんです。嘘か本当かなんて、僕にはもう関係がないので」

「そうですか」

 カウンセリングは三十分ほどで終了した。軽く喉が痺れているのに気がつく。人とこんなに話したのはいつ振りだっただろう。一週間後に配送されるらしい薬を待つ以外、今後の予定はなさそうだった。


 6

 仕事を辞めれば自由になれると思っていた。ほぼニートとなった今の僕は、過労に喘いでいたひと月前より窮屈だ。

 夜以外、もはやよくわからなかった。夢うつつで聞こえたチャイムを手がかりに玄関へ這いずって辿り着く。

「お届けものです」

 こんなふうに、死神が訪ねてきてくれたら楽に死ねるのだろうか。

 鏡をしばらく見ていない。おそらく人生で最も酷い容姿になっているだろう。ただでさえ酷いというのに。

 ドアを開け、隙間から小さめの段ボールを差し込んだ宅配員は目も合わせなかった。僕はどうも、人間以下の生活をしているのに自分がまだ人間だと思っている節がある。

 差出人は、いつかの時と同じく文科省だった。国から僕に届くものといえば、生活保護と先週作られたアレくらいしかない。

 中には赤と青のカプセルが入っている。モーフィアスでも出てきそうな雰囲気だ。正方形の紙に、説明が書かれている。

『あなたのために処方された〈デーテル〉です。青いカプセルを飲むと数十分後に効果が現れ、かつて「起こり得たこと」が記憶として定着します』

 しかし、文はそこで終わらない。

『服用後、異変を感じた場合は赤いカプセルをお飲みください。定着した記憶が徐々に消失します』

 いくつか疑問は残っている。例えば、青い薬で定着した記憶は、それ自体が植え付けられた記憶だと認識できるのか。あるいは、赤い薬が消してしまうのは、「起こり得たこと」だけなのか。おそらく、赤い薬は体質的にデーテルが合わない人のためのもので、ほとんど使用を想定していないのだろう。

 考えてばかりいても仕方がなかった。ものは試しだ。蛇口をひねってコップに水を溜め、青い薬をケースから取り出す。なぜか手が震えた。コップを持つ手がカタカタ音を立てる。目を瞑って口に入れ、ごくりと飲み干した。

 数秒経ってから、僕は耐え難いほどの頭痛に襲われた。まるで、脳が記憶を拒否しているみたいだった。額に汗が浮かび、猛烈な吐き気も催す。これじゃダメだ、と体が叫んでいるみたいだった。なんとか赤い薬を手に取ろうとしたところで、僕の膝は支えるのをやめた。視界が暗く、遠くなっていく。やがて意識が回復した頃、スマホの表示する日付は翌日の昼になっていた。


 7

 背中に冷や汗をびっしりかいていた。これまでのことを思い出してみる。

 僕にはトヤマとシナノいう友人がいて、シナノに異性としての好意を抱いていた。その後悔を引きずったまま青春の病に侵された僕は……

 ものの見事に覚えている。文科省からハガキがきて、市役所でカウンセリングを受けたこと。その後青い薬を飲んで記憶が植え付けられた。

 ずっとなくしていたパズルのピースが、ぱしっとハマった予感があった。頭の中に、覚えのない記憶が存在する。


 予定通り学年末テストが行われた世界で、僕らはマスクもしていない。クラスメイトがテストまでの焦りを語り合う放課後、教室には夕陽が差している。僕は普段昇降口へ向かうような動きと表情で、けれど階段を降りるのではなく昇っていく。三階まで上がると鍵の壊れたノブを回し、屋上へと忍び込む。ここの鍵が壊れているのを知っているのは、僕を含め三人だけだ。彼女は、先に来ている。いくら暖かい地域とはいえ、二月の終わりに外で待たせてしまったことを少し申し訳なく思う。風を感じながらフェンスの下を覗く彼女が、扉の軋む音でこちらを見据える。それから、それから、それから……


 思い出せない。その先の映像だけが、浮かんでこない。ゲームの体験版のように、肝心なシーンだけは映されていない。まるで思い出すのを拒否するみたいに、脳が再び痛み始める。

 薬の不調だろうか。語った事実に齟齬があったのだろうか。

 ふと、強い衝動に駆られた。

 僕は、行かなければならない。シナノが、待っている。

 記憶喪失になった人間が記憶を取り戻した時、記憶を失う直前の行動を再現する傾向があると何かで読んだことがあった。入水自殺を試みて失敗し、記憶喪失になってしまった人がある日記憶を取り戻し、瞬く間に飛び込んだという話だった気がする。

 この記憶が偽物だなんてこと、僕が一番よく知っている。けれど、果たせなかった約束があって、それがまさに今進行している。そんな予感があった。

 気付けば財布とスマホだけを持って、家を飛び出していた。アパートの下にある自転車を乱暴に引っ張り出し、駅へと自転車を走らせる。シナノが大学卒業後どの進路に進み、どこで暮らしているのか。何も知らなかった。

 それでもいいと思えた。彼女がそこにいることは、他でもないこの記憶が教えてくれているのだから。


 8

 母校に出向くのは実に六年振りだった。大学入学時に東京に引っ越したため、電車で五時間という長旅だった。車内は空腹と沈黙が渦巻いていて、俯くことしか出来なかった。

 大人になってから見る高校は、至る所が輝いて見える。これが、僕が大人になるために失ったものの正体なのだろう。

 籠もりきりの生活で曜日感覚などとうになかったが、生徒が誰もいないので今日は日曜日らしい。B棟男子トイレの窓は相変わらず鍵が壊れていて容易に侵入できた。時計の時刻は十七時を示している。少し薄暗い廊下を、なるべく音を立てずに走った。

 息を切らしながら階段を昇る。一段。また一段。屋上で待っているであろう「彼女」以上の何かに、僕は近づいている。それはきっと僕にとって本当に必要なもので、これまでの人生で探し続けてきたものだった。


 屋上へ通じる扉の鍵は、同じく修理されていなかった。建て付けの悪いその扉は、体重を乗せて押し込めばいとも簡単に開く。

 彼女は、先に来ていた。いくら暖かい地域とはいえ、二月の終わりに外で待たせてしまったことを少し申し訳なく思う。風を感じながらフェンスの下を覗く彼女が、扉の軋む音でこちらを見据えた。それから、それから、それから……


 シナノはいなかった。残酷なくらいに美しい夕焼けが、彼女の不在をより際立たせていた。僕は夕日なんて見たくなかった。この視界を遮る女の子が、必要なはずだった。

 瞬間、僕は悲しくなる。僕は虚しくなる。僕は死にたくなる。

 いっそ飛び降りてみようかな。最期の景色としては贅沢すぎるくらいだった。下を見ようとフェンスに手をかけた、その時だった。


「ここは風が強いね。まださすがに寒いや」

 その声は鼓膜から侵入し、体内に素早く回る。ほんの数秒で僕の心臓をぎゅっと掴んだ。人は故人の声から忘れていくと言うけれど、僕が最後まで覚えているとしたらそれは彼女の顔ではなく声だろう。

 シナノが立っていた。

 制服を着たまま大人になって、赤と緑のマフラーを巻いて、ちょっぴり不機嫌そうな表情で。

 はぁはぁと掌に息を吹きかけながら、シナノは僕に近づいていくる。西日が照らす右目が眩しい。

「やぁ、久しぶりだね」

「シナ……ノ……?」

「はは、なんだよその顔。やけに情けない大人になってるじゃないか」

 このぶっきらぼうで飾り気のないしゃべり方は、高校の時から何も変わっていない。僕が好きになったシナノのしゃべり方だった。

「なんで、ここに?」

「なんでだろうね。私たちはいつだって物事には理由があると思っているけど、理由のない行動があると願いたい日があるのもまた事実だと思うんだ」

 彼女は目を合わせず、沈みかけた太陽を見ようとしながら続ける。

「キミは自分の意志でここに来たと思ってるだろう。そう思う自由は否定しないし、好きにすればいいと思う。けれど、やはり絶対的な事実として、私は色々仕込みをしたんだよ」

 話が見えてこなかった。僕とシナノがここで出会えたのは、奇跡以外の何物でもないはずなのに。

「私は法学部を卒業した後、官僚になった。配属されたのは文科省。私が一年目の時にちょうど、『ウイルスで奪われた青春を返してあげよう』と言い出した政治家がいたんだ。それで若者の支持率が上がると思ったんだろうね。その政治家が目をつけたのが開発されたばかりの〈デーテル〉だった。認知症の母が服用しはじめたことからアイデアを得たらしい。そこで、青春ロスト世代の当人である私を責任者としてプロジェクトは始まった」

 聞いたことがない話ばかりだった。たしかにシナノは優秀だったけれど、まさか官僚になっているなんて。

「表向きは滞りなくプロジェクトを進めていた。けれど、私はその裏であることを画策していた。『青春を返す』という文言で、ある人物を探そうとしていたんだ」

 唾を飲み込んだ。シナノは僕の目を見る。

「キミだよ。キミを探していたんだ。高校卒業後、何も言わずに引っ越して連絡先も消してしまった身勝手なキミのことだよ」

 言葉が出なかった。僕がずっとシナノを探していたように、シナノもずっと僕を探していたなんて。シナノは少し怒っているようにも見えた。

「私の経験則上、キミはこういう話に一番に飛びつく人間だと思っていたからね。なにしろ、あの三人で過ごした日々が瓦解したのを誰より悔やんでいた。カウンセリングで集まってきたデータは、私の権限があれば容易にアクセスできる。キミの処方データを弄くって、今日この場所に来るようにした」

「そして、来たんだね」

「ああ、来てくれた」

 シナノが初めて笑った。落とし物を見つけた子供のような笑顔だった。

「どうしてみんな私を追いていくんだよ。頼むから、一人にしないでよ……」

 僕はシナノをぎゅっと抱きしめた。春の始まりの香りがした。

「ごめんな、ごめんな」

「ねぇ、頼むからもうどこにも行かないでよ。ずっと好きだったんだよ。これからは二人で暮らそうよ。キミがどれだけダメになってもいい。きっと私が稼ぐから。キミの隣にいられたら、それ以外はいらないからさぁ……」

 とうとう泣き出してしまった。いつのまにか、僕の顎も涙で渋滞していた。

 抱きしめながら泣き続ける僕の頭が、急激に痛み出す。まただ。また頭痛が始まった。記憶が完全に定着していないのだろうか。

 あまりの痛さに、僕はシナノにもたれかかろうとする。その時、太陽が沈んだ。あたりの光はあたたかさを失い、一気に暗い影を落とす。

 まるで支えを失ったように、僕は膝から地面に崩れ落ちる。足と顔面を強打する。いや、「まるで」ではない。僕は本当に支えを失っていた。


「なにしてるんだ!」


 声が聞こえた。シナノの声でないことだけは分かった。

 身体を起こし、霞む視界を凝らす。警備員のような男が、扉からこちらを覗いていた。男はだんだん近づいてくる。不審者を見るような目だった。

「こんなところで、なにをしてるんだ!」

 耳障りで、不快な声だった。

「見ての通りですよ。僕らは再会したんです」

「……あぁ?」

「六年間、シナノはずっと僕を探していた。そして、今日ここでもう一度出会えたんです。奇跡だと思いませんか?!」

 警備員は引きつった顔で後ずさりすると、スマホで誰かに電話をかけた。僕はかまわず話し続ける。

「高校三年以来、僕がこれまで常に感じていた妙な欠落感の正体は、コンプレックスの真相は、後悔の姿は、これだったんです。僕はシナノに会いたかった! シナノに必要とされて、好きだよって抱きしめたかった! トヤマとの友情より、何より、僕はシナノが欲しかった! それが今日、わかったんです!」

 息が切れていた。胃酸が喉までこみ上げてくる。シナノはどこにいったのだろう。願わくば僕の方を支えて欲しかった。意識の糸は、もう限界だった。僕は最後の力を振り絞り、怯える警備員に言った。

「素敵な話だと思いませんか?」


 9

 目が覚めると、知らない天井があった。

 二日酔いの症状の数倍ひどい。頭が尋常じゃなく痛む。

「お目覚めですか」

「……ここは?」

「病院です。これまでのことは、覚えておられますか?」

「ちょっと待ってください。今は何月何日ですか?」

「三月一日です。あなたが搬送されてきたのが、昨日です」

「シナノは? シナノはどこです?」

「落ち着いてください。初めから、お話しします」

 汚らしい髭を生やした五十歳くらいの医者は、弱々しい声で話し始めた。

「まず事実確認をしておきましょう。あなたのカウンセリングデータと、デーテルの情報を調べさせて頂きました。その結果、驚くべきことがわかったのです。あなたの受け取ったデーテルは、実はあなたのものではありません。手違いで、他人に送られるはずのデーテルが送られてきていたのです」

 医者は一拍の間を置いた後、僕に訊いた。

「トヤマさん、という方に覚えはございますか」

 僕の顔を見た医者は険しい顔をして、話を続けた。

「やはり心当たりがあったのですね。あなたは間違えて、その方のデーテルを服用していました。カウンセリングデータには、シナノさんという方が登場していました。これも調べたのですが、シナノさんという方はどうやら本当に文科省のお役人さんのようです。きっと、シナノさんとは別の、お役所の人がそこだけを見て間違えたのでしょう。服用時、頭痛などはありませんでしたか?」

 こくり、と僕は頷く。

「それはデーテルの拒否反応です。デーテルは個人によって分量を微調整しないといけません。まして他人のデーテルを飲むなど、命に関わる行為です。青春を詰めたデーテルを制作する例のプロジェクトは、完全に中止となりました。先程、発表がありました」

 視界がぼやける。頭が働いてくれない。

「あなたが経験したのは、他人の青春です。本来あなたが見るべきではなかった、あなたは知るはずはなかった青春だったのです」

 医者はそう言うと、赤いカプセルを取り出し、僕に差し出した。

「デーテルは、服用してから時間が経つにつれて記憶を取り除くのが難しくなってしまいます。今なら、まだ間に合います」

「ふ、ふざけるな! これは、紛れもない僕の青春だ! 他の誰のものでもない。僕のためだけに作られた記憶なんだ!」

「カウンセリングの際に説明されたでしょう。薬によって見せる幻想に、本当か嘘かなどという問答は意味がありません。基本的に、不利益を被る人はいないのです。もし、いるとしたらそれは一人だけです」

 寒い。身体が謎の震えに襲われる。涙で顔がぐちゃぐちゃだ。

「本当に、ぜんぶ、嘘だったんですか……」

「あなたの言う『シナノ』さんは、一度も名前を呼ばなかったでしょう」


 0

 青春が返ってきた。

 僕が高校三年生の時、世界中を混乱に陥れた新型ウイルスによって失われた青春だった。

 そしてそれは、六年後、春が始まる頃、僕がもう一度失った青春だった。



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