わたしのたいせつなエミリー

七日

わたしのたいせつなエミリー

 付き合って一年と三か月が経った頃、エミリーは次第にめまいを訴えるようになって、金曜日の夕方に台所で倒れているところを私が見つけた。足がひどく痛むのだと言って下半身を見ると、彼女の足はヘラジカになっていた。週末恒例になっていた小さなレストランでの食事をキャンセルして私はエミリーを病院に連れて行った。

 「哺乳綱偶蹄目シカ科ですね」ひげを蓄えた院長はカルテを見ながら仰々しく伝えてきた。「今のところ命に危険はないでしょう、不安になっているからパートナーとなるべく過ごしてあげるように」それだけだった。私はふらふらと歩きづらそうなエミリーの手を引いて車へと戻った。


「哺乳綱偶蹄目シカ科だって?」運転席の私はあの無責任に告げてきた医者に今更怒鳴り返したくなった。大事な恋人の下半身がヘラジカになってしまったのに、軽いめまいを抑える薬を申し訳程度に処方されただけだなんて。

 私が怒っている横で、エミリーは自分の蹄をカタカタとリズミカルに鳴らしていた。「もうヒールのある靴を履かなくて済むわね」

 エミリーはそれからも普通に職場である出版社に通い、めまいの薬を飲みながら仕事をした。ときどきそれでふらつくのは後に松葉杖をつくことで解消した。元気に松葉杖をつきながら仕事に向かう彼女は以前と変わらず闊達そのもので、私は安心とも不安ともつかない思いだった。

 エミリーは以前にも病気をしている。付き合って四か月の頃、子宮がんのステージ3だと診断された。がんの侵食スピードがあまりに速かったため、診断後すぐに切除手術をすることになった。

 エミリーは、覚えてる限りで一度だけ泣いたと思う。

 手術後、患者衣のまま私の肩に頭をもたれ、うわっと溢れ出すように泣き出した。

 私はそれを、なんのために流れる涙なのかと考えてしまった。

 私はレズビアンで、彼女はバイセクシャルだ。

 エミリーが選べる未来は私よりも多い。

 そんなことに私は絶望を覚えたし、彼女の病気をまっすぐ受け止められない自分が嫌だった。

 病気を克服した後、エミリーと私は同棲を始めたけれど、私の心はいつでも不安だった。

 エミリーを愛すれば愛するほど、不安だった。

 彼女が色んなかたちで私を置いていってしまうことが。


「アンディ」エミリーが切羽詰まった声で隣の私を起こした。「どうしたの」眠たい目を越すってそう問い返すと、エミリーは無言で自分たちを覆うブランケットを取り払った。

 パジャマに包まれた足は私の知るきれいなエミリーの足だった。「よかった! 治ったのね」安堵の気持ちでいっぱいになった。起きてから初めてエミリーの顔を見るまでは。

 彼女の顔は一面白っぽい鱗に覆われていた。耳までびっしりと。大小の細かい鱗が朝日を受けてきらきらと珊瑚のように輝く。指先で自分の頬をつつきながら、「これ以上変なことって起きないものだと思うでしょ。これだから人生ってやつは」、と軽口を叩く。

 おどける彼女に反して、私は泣き崩れる。

 鱗だらけになったエミリーは私を抱きしめて、「愛しているわ、ベイビー」と慰めるように囁いていた。

 

 私たちはこの現象を変異(Mutation)と名付けることにした。

 そして今後もエミリーの体はなにかしらの変異を遂げる可能性がある。

 めまいの薬しか出さない病院のことはあてにならない。

 SNSでエミリーの病気を公表し、症状に心当たりがないか意見を募ったり、リアリティ・ショーに出演して有名な学者と対談したりもした。

 他にも治療に役立ちそうなまめまめしいことは続けていたけれど、効果は見られなかった。

 

 エミリーの体は変異が止まらなかった。

 鱗がびっしりの次は白と灰色の羽毛で覆われた翼が生えだして、衣類の背中に対応する穴を空ける作業に追われた。

 そしてある朝目覚めたとき、彼女の手足がアムールトラのように大きくて強靭なかぎづめをもって生まれ変わった。エミリーは服を着ようとするそばからびりびりに衣類を引き裂いてしまい、これは翼のとき以上に大変だと想像した。

 ただエミリーに膝枕しながら、ごろんと差し出された前肢の爪を切る仕事は、結構楽しかったけれど。

 エミリーの変異は誰にも真相が究明できないまま何度となく続いた。

 私はそれまで働いていた楽器店を辞め、エミリーの生活のサポートに徹するようになった。

 エミリーは驚くことに仕事を続けていた。だったら私が支えねばと思ったのだ。

「アンディ、ごめんね」ウールのように分厚くのしかかる髪の毛にブラシをかけていると、エミリーは私に謝ってきた。

 体毛がウールになって、エミリーの前髪はすっかり重くなって視界が良好とは言えなくなってしまった。いっそばっさり切り落とせば楽になるんだろうけれど、そしたらまた別の変異を起こしたときに支障が出るかもしれない。

 スキンヘッズでもエミリーは堂々としてかっこいいんだろうけれど。

 私がそんなことを考えていると、エミリーは言った。


「謝ることはないでしょ。私はあなたの恋人なんだから」

「ええ、そう。あなたは最高の恋人よ、アンディ。だからひとつ、お願いがあるの」


 エミリーはそう言うと、ファイルを取り出して、一枚の紙を取り出した。

 私がそれを受け取って眺めると、『★人生のやりたいことリスト★』というお題目が目に飛び込んできた。

「私は半分書いたわ」

 エミリーは重たいウールの髪を必死に持ち上げて、私を見つめた。


「もう半分はあなたが書いて」



 エミリーが言うには、あと一回、変異がきたらリストの全部を実行しようということだった。

 変異が起こるごとに、エミリーのめまいが酷くなっている。薬でも抑えられないほどに。

 だから、次で区切りなのだと彼女は言う。

 何の区切り?と訊ねると、区切りは区切りよとエミリーは言った。

 終わりが近いと言われたようなものだと思って、私は泣き、エミリーに怒鳴った。


「これが最後みたいに振る舞うのは許さない。どこまでも私を連れてってよ、だって恋人じゃない。私はあなたを愛してる! とってもとっても愛してる! だから許せないのよ、あなたの言うことが」


 エミリーは何も言わなかった。

 今夜は別々に寝ましょう、と言われ、私はそれに従った。

 今思うと、絶対にそうするべきじゃなかった。

 なぜ彼女のそばを離れてしまったんだろう。


 朝になっても、エミリーは自分の部屋から起きてこなかった。

 私は心配になって部屋の様子を見に行った。

 朝日を受けて、つるつると輝く水色の雫がいくつもベッドの上に連なっている。

 私は声をあげた。

 エミリーは大きな水色のスライムになって、シーツの上を這っていた。

 私はエミリーを抱きしめて、ごめんなさい、と何度も詫び続けた。

 エミリーは腕の中でもぞもぞと手を伸ばすようにジェル状の体を伸ばし、私の顔を触っていた。

 ひんやりしていて、気持ちがよかった。


 私はその日、『★人生のやりたいことリスト★』の自分の分を全部埋めた。

 エミリーがこの体になって、初めて本当にやる意義を見つけた。

 私たちは可能な限り一緒にいるべきだし、相手の意思を尊重するのも同じことだと思った。

 エミリーの体が持つうちに、私たちはやりたいことリストで書いたことを全部消化することにした。

 ニュージーランドでロードオブザリングの撮影地を巡ること。

 インドで本場のカレーとヨガを体験すること。

 イギリスのアビイ・ロードを歩くこと。

 私とエミリーは世界中を駆け回った。エミリーは近所の人に譲ってもらったガラス水槽に入り、私はそれをキャリー付きの台車で引いて移動した。


 そして最後は日本という国に行ってみることにした。オタクの私たちは昔から日本に憧れていた。

 東京を一通り観光すると、現地で出会った韓国人の女の子たちが、私たちをSNSで見たと言って、アイドルのコンサートチケットを私たちに譲ってくれた。韓国の方で押さえたチケットをシェアするとSNSで約束していた日本の女の子たちが新幹線の遅れで来られなくなったという。

 コンサートは最高だった。言葉は判らないけれど、楽しく盛り上がる演出とパフォーマンスのおかげでとても充実した時間だった。前列の席で写真入りのうちわを持つ私とエミリーを見て、茶髪の男の子達は一瞬ぎょっとした感じだったが、ウインクを投げてくれたし、エミリーに至っては握手もされた。日本のアイドルはファンサが最高だと聞いていたが本当だった。


 夢のような数か月が過ぎて、私たちは家に帰った。

 最後にもうひとつだけ、とエミリーは霧がかった歌声のような声をスライムの体から発した。


『海に行きたいわ。アンディ、海に行きましょう』


 私はゆっくりと頷いて、近所の海に車を走らせた。


『泳ぎたいわ』


 浜でそう言った彼女の言う通り、水槽から抱き上げて、浅瀬の海水にエミリーを浸してやる。

 エミリーはそこで本当に気持ちよさそうにスライムの体を伸び縮みさせ、波と戯れた。

 エミリーの透明ボディが夕日の色に染まっていくのを私は見つめていた。

 そして、波に攫われるごとに、エミリーの体が小さく溶けて、消えて、なくなっていくのを見ていた。


 変異のなれのはて。

 もう自分の体を構築できなくなったエミリーの、最後のすがたがそれだった。


 私たちはふたりともこのときをわかっていた。

 わかっていたからこの数か月、心から楽しく過ごしてきたのだ。

 だから耐えられるというわけではないけれど。


 私はエミリーを奪った波に向かって泣きじゃくり、砂を投げて、悪態をついた。

 許せなかった。でも、ほかにどうすることもできなかった。

 ただ、私たちが初めてデートした海に抱かれながら、ゆっくりとそのときを迎えることが彼女の望みだったのだから。


 私の足は、静かに波を追いかけていった。

 つっかけていたミュールを脱いで、素足で海の中に入っていく。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 顎先が海面に触れる。口と鼻が海水に満たされ、息苦しくなる。


 私はエミリーを愛している。

 だから、これを別れだなんて言わせない。


 ちょっと前まで、私は自分に自信がなく不安だらけで、いつかこんな私を置いてエミリーは別の未来を進んでいってしまうのだと思っていた。

 でも、さまざまな変異が訪れたエミリーとの生活は、今までになく満たされていた。

 変てこりんな奇病に一緒に翻弄されている間、私たちの未来は同じくひとつだと確信できた。


 だから、これからも。

 私たちは。


 海は私の体と魂と記憶を洗ってナノ粒子よりも微小な世界へといざなう。先にエミリーはこの海に溶け出しこの地球と一体となった。

泡となって消えた私はエミリーに抱かれ或いは抱き締めながらこの星の終わりまで彼女と共に過ごす。

 わたしのたいせつなエミリーとともに。

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