クネリ

南沼

第1話

 山間部の日暮れは早い。

 日没まではまだ間があるはずだったがそれはあくまで平地の話だ。くねる山道を染める茜色もようよう幽けく、すぐそこに迫る黄昏時を迎えようとしている。

 私は窓を大きく開け片腕を外に放り出し心地よく肌を冷やす冷気を味わいながら、愛車のピックアップを緩やかな速度で走らせていた。


 今日は土地勘のない場所での仕事だったが、思ったよりも早く済んだ。

 こんな時は、高速道路を使わず下道でのんびりと帰る。

 それが私のささやかな趣味だった。

 曲がり角は勘任せ、ナビも起動だけはするものの縮尺は最大に固定。大体どちらの方角を向いているか分かりさえすれば、そうそう迷うこともない。幸い明日は休暇だし、ガソリンもたっぷり残っている。

 仕事の報告も電話で一報を済ませてあるのだから、どう寄り道をしようが構いはしない。


 そのはずだった。


『目的地まで、あと2時間30分です』


「ほんとかよ」


 ポーンというサウンドエフェクトの後に流れる抑揚のないナビの機械音声に、独り言じみた愚痴をついぶつける。

 えいやと三叉路を適当に曲がったのが、早や1時間は前になろうか。それ以来ずっとくねくねと曲がる山道を走り続けていた。山肌もガードレールも、その向こうの視界を防ぐ生い茂った葉の自然林も、よそ者の私にとってはいつまでも変わり映え無く続く風景に過ぎない。分岐路どころか対向車も全くなく、同じところをぐるぐる走り続けているようにも錯覚してしまう。

 ふと煙草を吸いたくなってしまうが、ぐっと我慢する。

 車内で吸えばどうしても臭いが付く。一時の欲求に負けて、後で相棒にくだくだしく文句を言われるのは御免だった。


 ポーン。

『しばらく道なりです』


「知ってるよ」


 しかし、いよいよ焦れてきてしまった。

 これはまずったかもしれない。そう思い始め、意地を張ったように縮尺を固定していたナビ画面を弄ってみるが、この先もずっとこんな調子のようだった。


 戻るか?


 いや、それでも最低1時間分は戻らなければならないし、方角自体は間違っていないはずだ。このまま進めばそのうち、山を越えて市街地に抜ける筈だった。

 元来がものぐさな私はそちらに賭けた。

 再び縮尺を最大化し、視線を前に戻したところで、


 すぐ目の前の人影にすんでのところで気付き、急ブレーキを踏んだ。


 ABSのお蔭でタイヤはロックこそしなかったが、急制動を掛けた勢いで身体は大きく前にのめり、シートベルトに引き戻されるようにどすんとシートに戻る。

 一瞬前方から逸れた意識を慌てて戻すが――


 目の前には、誰もいなかった。


 大きく早鐘を打つ心臓の音だけが耳の裏側に響いている。

 おおかた、道路脇から張り出した枝を人と見間違えたのだろう。

 焦燥と不安が、判断力にバイアスを掛けたのだ、と私は結論した。きっとそうに違いない。

 舌打ちをひとつ、再び車を発進させる。

 遅れて出てきた冷や汗を窓から入る山風がなぶり、体温を奪っていく。

 私は肌寒さを覚え、窓を閉めた。


 しばらく走る内に、本当に煙草を吸いたくなってきてしまった。それも加熱式のやつではない、本物の、紙巻の煙草だ。

 確かグローブボックスの中に吸いさしの箱が残っていた筈だ。

 どこか適当に停めて、休憩を兼ねて一服しよう。そう思った。


 それからもう10分ほど走っただろうか。景色に変化が見えた。

 それ自体は微妙な変化で具体的にどこがどうと挙げるのも難しいのだが、ここ数時間それに飢えていた私にはぴんときた。

 人里の気配だ。

 それが濃厚になるにつれ、兆候は明らかになっていった。

 定期的な手入れを覗わせるガードレール脇の雑草の短さや、一見無造作に置かれている農機具たち――

 そしてきついカーブを曲がった先、路肩のスペースにぽつんと立つ掲示板が見えた。

 ガラスの引き戸が前面に付いているタイプで、慶弔ごとをはじめとする地域のニュースをそこに掲示するのだろう。路肩も広く、少し寄せれば車を停めるにも十分そうに見えた。

 私は好奇心に負け、車を停めて外に出た。勿論、煙草を持って出るのも忘れない。


 外に出て、改めて夕暮れが近い事に気付いた。

 太陽はもうとっくに山の端に隠れ、あたりは最早残照を残すばかり。

 辺りを見回しても街灯らしきものはない。遠からず完全に日は暮れ、灯りがなければ掲示板の張り紙も読むどころではなくなる。

 私は気持ち足早に掲示板に近づいた。

 引き戸のガラスもまめに掃除されているようで、表面には微かに水拭きの跡があるのみだった。

 私は煙草に火を点けて、煙を深々と吸い込みながら、ぼんやりとくすんだ緑地を眺める。

 心地よい刺激が喉と気管を刺激し、軽いニコチン酔いが自分がそれとすら認識していなかった緊張を解していく。

 張り紙は全部で三つ掲示されていて、茜に染まる夕空のせいか、そのいずれもが妙に黄ばんで見えた。


『ごみの日は守りましょう ○○町町内会』


『ふるさとを守る会 次の定例会は×月△日』


 もう一つは……読めない。

 黄ばんでいると見えたのは見間違いでは無かったのだ。

 貼られているのが何かの新聞記事の切り抜きだと言う事は分かるものの紙面全体が色褪せインクの色も落ちてしまっていて、見出しですら所々しか読むことが出来ない。


『■■村■■■女児■行方■■遺■■』


 表側の手入れは小まめにされているにも関わらず中の張り紙だけがこの有様なのは、酷くちぐはぐな奇妙さを感じさせる。


「それねえ、この村で起きた事件なんですよ」


 隣で声がした。

 中年の、男の声だった。


「女の子が一人、行方知れずになってねえ、村民総出で探したんですけど、結局見つからなくて」


「はあ」


 私は極力、そちらを見ないようにして答えた。

 掲示板のガラスはやや逆光ぎみで、隣に立つはずの男を映す事は無い。声と、視界の隅に微かに映る姿だけがその存在を伝えている。巡査の制服を着ているようだった。地元の駐在員なのかもしれない。

 ちょうど私の隣に立って、一緒に掲示板を眺める格好だった。


「小さい村ですけど、当時は随分大騒ぎになってねえ」


「はあ」


 私は車を停めた事を後悔し始めていた。

 煙草の吸い口を咥える気も起きず、じりじりと指を焦がしそうなほどに煙草は短くなっていく。


「あ、ここ、禁煙です」


「ああ、すみません」


 私は男に視線を向けず、かといって注意を逸らすこともないように緩慢な動作で携帯灰皿を取り出し、煙草の火を押し付け消した。


「で、どうなったと思います?」


「さあ……」


 知りたくもなかった。

 私は踵を返し、足早になろうとする気持ちを努めて殺しながら、車までゆっくりと歩を進めた。


「あれ、あなたの車ですか? いい車だなあ」


 男は私の後を歩きながらまだ声を掛けてくるので、私は振り返ることなく「どうも」とだけ答えた。


「あんた、人と話す時はちゃんと相手の眼を見た方がいいよ」


 私はもう、答えない。

 車のドアの前まで男は近づいてきた。手入れの行き届いた光沢のボディとウィンドウに、男のシルエットが写り込む。だから、それを見ざるを得ない。


 男には、眼球が無かった。

 目があるはずのところに、のっぺりとした皮膚以外、何も。


 私は黙ってドアを開け乗り込むと、シートベルトも締めずに車を発進させた。

 男はそれを咎める事もせず、黙ってこちらを見つめるままの姿勢で立ち尽くしていた。


 バックミラーから男の姿が消えたのを確認してから、全身の毛穴から冷や汗が出た。

 うなじの辺りの皮膚は粟立ちっ放しだ。


 何だったんだ、今のは?

 そもそもあいつは、どこから現れた?

 車の止まった音もしなかったし、隣に並ぶまで足音も聞こえなかった。


 私は先ほどまでよりも幾分荒いアクセルワークで、山道を走り続ける。

 山は日暮れこそ早いが、その分黄昏時は長い。空は茜から濃紺へと徐々に移ろいゆく過程にある。その下で木立やガードレール、時折目に付くコンテナやあばら家のような古民家は、やや遠近感を欠いた姿で行く先々に浮かび上がっていた。

 コンテナやあばら家。

 そう、明らかに人里に近づいていた。いや、人里よりは山里と言った方が正確だろう。まだ山は下っていない筈だ。山の斜面に貼りつくように集落が形成されているのだろう。

 変化は他にもある。

 人影が増えた事だ。こんな辺鄙な場所でどうやって生計をたてているのか想像もつかないが、様々な服装の男女とすれ違うようになった。


 彼らは一様に、何をするでもなく路肩に立ち尽くし。

 必ずこちらに、背を向けていた。


 どう考えても異常だった。

 何が起きているのか、訳が分からない。

 だからと言って、路肩に車を停めて「皆さん何をされているんですか」などと訊ねる気も起きない。ミラー越しに彼らの正面を見るのも絶対に嫌だった。

 つい先刻まで人里を恋しく思っていた筈なのに、今は少しでも早くここを抜け出したかった。

 だから、つい叫んでしまった。


「おい、いつになったら着くんだ!」


 ポーン。

『目的地まで、あと99時間99分です』


 有り得る筈のない機械音声の返答に、身体がびくっと跳ね上がった。

 慌てて車を停め、ナビの画面を見る。


 現在地を示すはずのマークが、山中の何もない箇所をぐるぐると回っていた。

 GPSが明らかに死んでいる。


 ポーン。

『目的地まで、あと99時間99分です』


 ポーン。

『目的地まで、あと99時間99分です』


 ポーン。

『目的地まで、あと99時間99分です』


 震える手で叩くようにミュートボタンを押して、ナビはようやく黙った。


 勘弁してくれ……


 私は泣きそうになりながらハンドルに突っ伏した。

 しばらくそうやってから、顔を上げた。ずっとこうしていたいという衝動に身を任せていても始まらない。兎に角、今は山を降りなければ。


 すぐ後ろでどさりと音がした。重量のある、柔らかい何かが落ちる音だった。

 それが何かを想像するより先に、アクセルを踏み込んだ。


 山道はまだ続く。くねくねとくねる道は、終わりをその先に伺わせることは無い。

 いよいよ暗くなってきた。黄昏が闇夜に変わる一線を、いよいよ跨ごうという時間帯。周囲の景色はもう殆どシルエットとしか見えない。


 オートセンサーが光量の減少を感知し、自動でヘッドライトを着けた。

 だが、妙に前方が暗い。光量が左右で偏っている。

 左側のヘッドライトが切れていた。

 何から何までついていない。

 そして、もうひとつ気付く事があった。

 後ろにもう1台、車がいる。ヘッドライトの灯りが見えている。他に誰かが私の後ろにいるのだ。少なくとも、運転する意思を持った誰かを載せた車が。

 これは吉兆か、或いは凶兆か……

 藁にも縋る想いで、私は意図的に車速を落とした。

 だが、何時まで経っても後ろの車は追いついて来ようとしない。じれったい程に、一定の距離を保っている。

 長い直線に入り、ようやく後ろの車をバックミラー越しに見ることが出来た。

 左側のライトが切れた、大柄な車影。

 何度も磨いたグリルの形は、言われずとも分かった。


 あれは、私のピックアップだ。


 遅まきながら、ここに至ってやっと私は気付いた。


 ここは、クネリだ。

 私はそこに、足を踏み入れてしまったのだ。


 うなじのちりちりとした感覚が止まらない。

 どこが境界だったのだろう。思い返しても分からない。頭を掻き毟る手を止め、助手席に置きっぱなしにしていた煙草を取り上げた。

 後で何を言われようが構わない。私は躊躇いなく火を点けた。

 口の端から煙を吐きながら、両手でハンドルを握る。

 急なカーブを減速無しで曲がり、車体が大きく傾いだ。後ろには100メートルほどの距離を保っていたヘッドライトの光がミラーから消える。

 しかしその後、またしても私は急ブレーキを余儀なくされた。

 目の前で、道が塞がれていた。山手側の崖が大きく崩れ、剥き出しの土や岩が道を塞いでいた。地崩れだ。


 嘘だろう……


 私はハンドルを拳で叩いた。

 だがよく見ると、ただの地崩れにしては不自然のような気もした。重力に任せて崖を滑り落ちたにしては妙に高く積もり過ぎではないか。礫土はほぼ一様の高さで――2メートルほどだろうか――道幅一杯に跨っており、どちらかというと不格好な壁に近い。

 いや、違う。

 違う。

 片目のヘッドライトが照らす土塊の中で、何かが動いた。


 ああ、よく見るんじゃなかった――


 一対の、妙に黒目がちな目が、大ぶりな岩の中ほどで見開いていた。

 それは、土塊の中に半ば埋もれた大小様々な岩と見えたそれらは、全てが、人の顔だった。


 すべての顔が黒目だけの眼を開け、そのどれもが私を見ていた。


 ひぃ、と喉の奥から自分のものではないような悲鳴が洩れた。

 慌ててギアをバックに入れ、リアバンパーを崖に打ち付けながらUターンした。前方に片目のヘッドライトはもうない。それは常に後方に位置するものだからだ。

 アクセルを目一杯踏み込むと、タイヤがアスファルトの上で空転する感覚があった。じれったい程の一瞬の後ようやくタイヤが路面を噛み、ありったけの推進力でピックアップが発進する。身体がぐっとシートに押し付けられた。


 来た道をひたすらに、戻る。

 戻る。

 戻る。

 それも出来るかぎりの速度をもって。

 じきにあの集落や、あるいはまだいるかもしれない人影や警官姿の何かとすれ違うかもしれないが、もうそれすらどうでも良かった。

 何故なら――


 もう山道は夜の闇に埋もれている。街灯など無く、ただピックアップのヘッドライトがその一部を切り取っているだけだ。

 今私が乗っているこれと、そして後方に映し出されるもうひとつの。

 どういう光の具合か、後ろのヘッドライトに正面を照らされながら、それはピックアップを追い掛けてきていた。


 道幅いっぱいに広がる、顔の壁が。


 もう気が狂いそうだった。さっきまで口に咥えていた煙草をどこへやったのか、それすら意識から飛んでいる。

 唇が痛い。きっと短くなった煙草の火が焼いたのだ。

 なるべく後ろを見たくないという思いと、少しでも安心を得たくて彼我の距離を測ろうとする本能が交錯し、前方とミラーを視線が忙しなく行き来している。


 だから、気付くのが遅れてしまった。

 ナビの画面の中、あらぬ場所をうろうろと指し示していた筈の現在位置を示すカーソルが、規則正しいスピードで山中を進んでいる。

 まさか、という思いでナビのミュート機能を解除した。


 ポーン。

『車内に3-エテニルピリジンを検知しました』


 ポーン。

『嗅覚センサのクロスチェックを実行します』


 ポーン。

『車内に3-エテニルピリジンを検知しました』


 来た!


とっとと起きろゲダファッカきょうだいアスホール!」


 ガツン、とダッシュボードで殴りつけるとナビの画面が一瞬乱れた。「ツピ」と抗議じみたノイズ音の後、ナビ機能だけを使用する時のものとは違う、流暢な男声音が流れた。


『状況の説明を。それと、車内喫煙の釈明をお願いします』


 GPSによって位置情報を担保されない状況下での火器支援機能を備えたAIの運用は、国際条約で固く禁止されている。


「後ろのデカブツが見えるか!?」


 ほんの一瞬のラグの後、ポーンと鳴る。


『視認しました。所属、アンノウン。データベースに該当する個体はありません』


「ご自慢のを出せ! あのケツの穴野郎にぶちこんでやる!」


『平時でのバルカンファランクスの使用はカラコルム条約に抵しょ

「緊急EMGコード99991683! 責任はおれが持つ!」


『コピー』


 リアキャノピーに偽装した後部装甲が堅い音と共に大きく口を開け、20mm口径の黒光りする砲身がせり出す。


「やれ!」


 マズルフラッシュが轟音と共に山間部の闇を切り裂いた。


 後に第一次人魔大戦と呼ばれる、その開戦の狼煙である。



<了>

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クネリ 南沼 @Numa_ebi

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