お隣の御子柴麗ちゃん
天宮ほーが
お隣の御子柴麗ちゃん
「わたし、みちるさんのこと、好きで好きで仕方ないの」
お隣さんちの御子柴麗(うらら)ちゃんは、わたしの右腕にしがみつくようにしてそう言った。
「好きで、好きで仕方ないの」
絞り出すような声のか弱さに胸がきゅう、と締め付けられた。
それは、捨てられている子猫を見つけた時に似ていると思った。見つけたことはないのだけれど。
もちろん実際に拾ったこともないけれど、ちょうど子猫を拾うのにおあつらえ向きの、小雨の降る夕暮れ時。
雨が降っているのに、綺麗なオレンジ色の夕焼けがわたしたちをあたたかく照らしている。
狐の嫁入りだ。
そう思ったことと今の状況が、わたしの頭と心をぐわんぐわんと揺らす。鐘でも鳴っているかのようだ。
肩口で綺麗に切りそろえられた、細くて艶のある髪がさらりと動く。そこから銀の鈴の音でもしそうな美しさで、涙が出そうになった。銀の鈴の音なんか聞いたこともないくせに。
麗ちゃんが通う学校の近く、廃業した駄菓子屋の軒先で雨宿りをするわたしたちに、こんなドラマティックなロマンスが訪れるなんて想像もしていなかった。
彼女の首筋が赤いのは、夕焼けのせいだけではないだろう。
右腕に麗ちゃんの体温と小さな震えを感じながら、わたしは思った。
「ッまじかーーーーーーーー!!!!!!責任取んなきゃーーーーーーーー!!!!!!(大歓喜)」
そこからどうやって麗ちゃんと別れたのか覚えていないが、帰り道をスキップで往くわたしは無敵の存在だった。
いつもチリンチリンと小煩いベルを鳴らして人避けをし走り抜けていくチャリンコのジジイにも、いつもわたしに吠えてくる猛犬注意と札付きのイヌ公にも、「ま、わたしには超絶かわいい彼女がいるんでね!」というメンタルでスルーできた。
スキップできない運動音痴の足で、スキップもどきを踏みながらわたしは帰った。
そしてその日の夜、離婚届を間に挟んで夫と向き合っていたのだった。
「君はばかなの?」
夫の第一声はそれだった。
「ばかじゃない、わたしは真剣に考えている」
「いや、お隣の御子柴さんとこの麗ちゃんでしょ?彼女まだ中学生じゃない」
そうなのだ。
御子柴さんちの麗ちゃん(長女)は、中学二年生。
そのかわいさたるや、町内…いや市内でも知らない者はいないという美少女中の美少女である。
すれ違った人間は必ず振り向き、男ならば幼稚園児もお年寄りも犬や猫も杓子も、女ですら全員麗ちゃんが好き、くらいの超絶美少女。
なぜこんなしょぼい町に生まれ育っているのかわからない、掃き溜めに鶴どころか白鳥、いや天使である。
しかも性格まで良いというから、これはもはや神のお墨付き。神に祝福されし奇跡の存在。
ご多分に漏れず、わたしも麗ちゃんのことが大好きだ。あんなにかわいい子、全人類好きに決まっている。
「いや会う度に君が麗ちゃんかわいいかわいいって言ってたのは知ってるけどさ」
「あんなにかわいい子を前にしてかわいいと言わない選択肢がなかった」
「まぁわかるけど」
「その美少女が、わたしのことを好きだって言うの、それはもう、責任取るしかないよね」
「どうしてそうなるの」
夫はため息をついた。
「こんなありきたりなセリフ言いたくないけど、あの年頃の子は憧れと恋を間違えちゃうことあるよね」
「わたしに、あの美少女から憧れられる要素があるとでも?」
「ないね」
「このやろう」
確かに自分でも、なぜ麗ちゃんがわたしのことなんかを好きだと言ってくれたのかまったくわからない。
まして憧れなんてことは地球上の陸が全てプリンになってもありえない(プリンは麗ちゃんの好物である。好物までかわいいとはさすが天使)。
接点と言えばお隣さんであること、顔を見れば挨拶を交わし、そのついでにかわいさを褒め、「学校どう?」「部活どう?」みたいなありきたりな世間話をするくらい。ほんとうにそれくらい。
わたしのような生き物が麗ちゃんのような美少女と交わせる会話の種類など、指で数えるまでもない。
そして自分で言うのも悲しいが、わたしは年下の美少女に憧れを抱かれるような「お姉さま」ではないのである。
「20歳歳上のお姉さまは厳しくない?」
「うるさいな」
それでもわたしは、麗ちゃんが好きだと言ってくれた自分を信じたいのだった。
なぜならわたしは、麗ちゃんに好きだと言われた瞬間から麗ちゃんの全てを信じると決めたのだ。
麗ちゃんは宗教。
「それで離婚」
「うん」
「みちる、専業主婦でしょう。生活どうするの」
「わたしバイトいっぱいして麗ちゃんを養うから…わたしがんばるから…」
「それロリコン糞野郎が幼女に結婚申し込みながら腰振ってほざくセリフみたいで嫌だ」
「それはロリではなくぺドだ、ぺドはころす」
「同意はするけど今はその話じゃない」
何も離婚することないじゃない、と夫は続けた。
なんだ?相手が女の子だから浮気にはならんという解釈か?
それならそれでいいやとか、浮気であったとしても一緒に居てくれとか、そういったことを夫に求めているわけではないのだ。そんな都合の良いことはありえないし、麗ちゃんの気持ちを知りつつこのまま夫と暮らすこともできない。
わたしにとって至極当然の選択だったのだが、夫にとってはそうではないらしい。
「もしかして、君は百合に挟まりたい男なの?」
「何を言っているのかわからないけど違うよ」
「良かった、もしそうならころすところだ」
「それで、」
僕を捨てて、麗ちゃんをとるの?と夫は言った。
捨てる。
捨てるのとは違う気がした。
いや名前をつけるとしたらそういうことになるのだろうけれど、
「麗ちゃんがわたしを好きと言ってくれた瞬間から、わたしには、麗ちゃんしか選択肢がなくなった」
「なるほど?」
「麗ちゃんをとるとかとらないとか、君を捨てるとか捨てないとかの話じゃないのこれは」
「わからないよ」
「だろうね」
君にとって麗ちゃんって、何なの?
夫は心底困った顔でわたしに聞いた。
麗ちゃんは、と声に出して名前を呼ぶと、彼女の顔が浮かんだ。
ああ、眩しいほどにかわいい。
思い描いただけで、こんなにもかわいい。
そんな彼女が、わたしのことを好きだと言って震えたのだ。
わたしは、それだけで無敵になったようだった。
天にも昇る気持ちというのはまさにこういうことを指すのだ。
そりゃ、天にも昇るだろう。だって、
「麗ちゃんは、わたしの天使なの」
そう答えると夫はわからないと言った。
結局、離婚届に判は押されず、その日は寝ることになった。
事件は、思いもよらぬ翌朝に起きた。
麗ちゃんが、母親と一緒に上京してしまったのだ。
どうして。
三日三晩泣き明かし、夫に呆れられ続けること一ヶ月。
わたしは、テレビ画面の向こうに麗ちゃんを見つけた。
一ヶ月ぶりに見てもかわいかった。当たり前に一ヶ月前もかわいかったし、これからも一生かわいいに決まっていた。
思わず画面に駆け寄った。
うららちゃん、と届かぬ声をかけた。
テレビの向こうの麗ちゃんは、ナチュラルに見えるがしっかりと綺麗にお化粧をして、かわいい衣装を着て歌って踊っていた。
アイドルだ。
天使はアイドルになっていた。
わたしは泣いた。
麗ちゃんはかわいかった。
変わらずかわいくて、かわいくて、きれいで、誰の手も届かないくらいに遠くうつくしかった。
あの日鈴の音でも聞こえるかと錯覚した髪が、動く度に一本一本眩しく輝いている。
あの日わたしを好きだと言ってくれたあの声で、歌が紡がれていく。
麗ちゃんの歌声を、初めて聞いた。
うららちゃん。
歌って踊ったあとに、誰か知らない人が麗ちゃんにマイクを向けて何かを訊いていた。
麗ちゃんは天使のような微笑みを浮かべてそれに答えていたが、うまく聞き取れない。
耳鳴りのように麗ちゃんの歌声が残っている。
ーーーどうして、アイドルになったの?
やっと聞き取れた。
麗ちゃんがにっこりと笑う。
天使だ。
天使がにっこり笑って、こちらを見る。
うららちゃん。
わたしは声をかける。
麗ちゃんはそれを聞いたかのように少し頷いてから、こう答えた。
「すきなひとに、振り向いてほしくて」
あたまが、まっしろになった。
スマホを手に、「御子柴麗」と検索する。
麗ちゃんのプロフィールがすでに公表されている。なるほどここの事務所からデビューしたのか。芸能事務所に全く詳しくないから知らんけど。
宣材写真がへたくそだ。わたしの麗ちゃんはもっと、これの2億倍はかわいい。
この写真を撮ったカメラマンよ、麗ちゃんを撮る機会を得たくせに、お前はこんな写真しか撮れないのかよ。わたしはスマホ越しに毒づいた。
麗ちゃんのかわいさは、あのきらめくようなうつくしさは、はかないような透明感は、カメラなんかに収まりきらないのだろう。だとしたらカメラなんてもの、どれだけの存在意義があるのだ。
写しても映しても、本物の麗ちゃんには遠く及ばない。
本物の麗ちゃんには届かない。
わたしのことを好きだと言ってくれた、麗ちゃんの震えを思い出して、また泣いた。
わたしの右腕はもう、麗ちゃんには届かない。
結論から言って、その後わたしは夫と離婚した。
御子柴さんのお隣という位置を譲りたくなくて泣きついて、住んでいた部屋を譲ってもらった。
夫は心底悲しそうな顔をして、「元気でね」と言って出ていった。
結局のところ、彼は「理解ある夫くん」だったようだ。
テレビの向こうには、今日も麗ちゃんが居る。
人気者だ。当たり前だ、天使なんだから。
「すきなひとに、振り向いてほしくて」
ひどいな麗ちゃん。
わたしはこれからずっと君に振り向き続けるのに、君はわたしよりずっと先の、遠い遠いところにいる。
わたしと麗ちゃんはキスどころか、手を繋いで歩くことすらしなかった。
あの夕焼けのきれいな日、小雨のカーテンの中で、わたしの右腕にしがみつくようにして好きだと震えた彼女の熱だけが、わたしと麗ちゃんの間の全てだった。
わたしも好きだよ。
その日のうちに言っておけば何か変わっただろうか。
好きで好きで仕方ないの。
その言葉が何より嬉しかったと伝えておけば、今ごろ何か違うことが起きていただろうか。
けれどなぜだか、
麗ちゃんのあの「好きで好きで仕方ないの」という言葉と、わたしの右腕に伝わる体温と震え以外に、わたしには何も想像できないのだった。
あれが、あれがわたしにとってのすべてだったのだ。
あれが、麗ちゃんにとってもすべてだったのだ。
「だいすき、麗ちゃん」
そう呟いて、
わたしはばかみたいに、テレビの前でペンライトを振る。
仕事をして、君のためにお金を稼ぐよ。
君が表紙で微笑む雑誌、君が歌を紡ぐCD。
君が使うコスメ、君がCMに出ていたヘアケア用品。
コンサートもあるね。会いに行く。
でも不思議なことに、麗ちゃんに手紙を書いたり、わたしの居場所を知らせたりしようという気持ちにはならなかった。
「すきなひとに、振り向いてほしくて」というあの言葉。
あれさえあれば、十分だった。
麗ちゃん。
麗ちゃんはわたしに振り向いてほしくて今日も歌うの?
明日も、わたしに振り向いてほしくて歌うの?
恋のうた。失恋のうた。希望のうた。祈りのうた。季節を喜ぶうた。
全部、わたしのために歌ってくれるの?
『わたし、みちるさんのこと、好きで好きで仕方ないの』
「ずるいよう、麗ちゃん」
わたしはこれからもずっと君に振り向き続け、
わたしはずっと、君に恋し続けるのだ。
わたしは涙を拭いて、右腕に残る麗ちゃんの体温を抱きしめた。
お隣の御子柴麗ちゃん 天宮ほーが @redfalcon
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