第一四六話 池田恒興の嘆き
池田恒興は自らに才がない事を嘆いていた。
桶狭間の戦の後、織田家復興を掲げた五百の同志は那古野に駐屯した今川配下の井伊直盛によって残党狩りの憂き目にあっていた。その手から逃れる為に皆で息を潜め隠れ、鉄砲の腕を磨き一矢報いるべく機会を狙っていた。
だが桶狭間の戦で先陣を切った熱田の千秋はいの一番に今川に臣従を誓っていた。
それだけ聞くと「一当てしただけで最初から今川に臣従を考えていたのでは…?」などと勘繰ってしまうが、その時に友と臣下も全て亡くし更には馬にまでも逃げられ味噌を漏らし雷雨の中、這う這うの体で熱田まで逃げ帰ったと聞く。最初にその無様を聞いた時にはつい「何故腹を切らなかった…?」と呟いてしまったのも仕方がないだろう。臣従を念頭に置いての一当てにしては些か傷が深過ぎではなかろうか。
熱田の千秋季忠の印象は一言で言うなら自信過剰、典型的な
そうして桶狭間にて蛮勇に逸ったのか飛び出したものの、今川臣下の久野軍に鎧袖一触とばかりに蹴散らされ驚くほど易々と潰走していった。そのあまりの負けっぷりから味方は皆一様に苦虫を嚙み潰したような顔をしていたのを覚えている。
そうしていの一番に今川に臣従する…そんな生き汚さを見せた熱田の千秋に不快感を感じずにはいられなかった。
普段なら沙汰の一つもあろう失態だが、主君が討たれた後の混乱にあってはあらゆる事が些事、再び落ち着いて千秋の名を聞くまでこの記憶は彼方にあった。
だが桶狭間での戦の後の千秋の動きは驚くべきものであった。信長様の御霊を祀った上にそれを今川義元にまで認めさせ、織田狩りをする怨敵といっても差支えのない井伊に取り入り、信長様の敵対派閥であった信清を討ち取り、尾張守護である斯波様を立て…なにより信長様の遺児、奇妙丸様を名を変えてまで今川から匿い育てているという報告まで受けた…それも信長様の御生まれになった那古野城でだ。この奇妙丸様のご存命の報には家臣団一同大いに喜びに湧いた。
我々家臣団が望む織田家再興は奇妙丸様を戴き信長様の仇である義元を討つ事だ。これがどれ程荒唐無稽な話であるか理解はしているつもりだ。しかしそれでも主君の仇を討つ、首を取られたのだから首を取り返す、それ以外では納得出来ない。それが総意であった。
だが今川は六万もの兵を動かす大大名、その為には美濃の姫である帰蝶姫様を頼りに斎藤家に渡りをつけ、美濃の援軍を借り受け駿河に攻め入る、そういう計画だった。
そうして織田家再興、信長様の仇討ちの為、熱田とどう向き合うべきか悩んでいた。家臣団の中では千秋は桶狭間で無様に敗走した尾張男児の風上にもおけぬ不貞の徒、味方に引き入れても大切な時にまた逃げるのでは?そのような認識もあって余り積極的になれずにいた。
そんな折に滝川が体よく千秋の懐に入ったとの報告を受けた。彼は草を何人も抱え自らも忍びの術を修めている。なにより父方の従弟に当たり信頼のおける男だ。
聞けば千秋は那古野城に屯する井伊の女城主を篭絡せしめたなどとも聞き、俄かには信じられる話ではなかったが少し溜飲を下げたのも確かだった。
だがある時長らく我々と行動を共にしてきた帰蝶姫様が千秋を頼り那古野城に押し入ったと聞いた時には目の前が昏くなった。
奇妙丸様共々無事と知り胸を撫で下ろしたが、その後千秋は美濃斎藤家を排し稲葉山城を落とし、帰蝶姫様はあっさりと美濃へ帰られてしまった。
計画が狂ったが我々も尾張での活動に限界を感じており帰蝶姫様を追って計画を美濃に移す事となった。
美濃鷺山の地にて織田家復興の悲願の為の拠点として田畑を接収し防備を固めるも村の大きさに対して兵が多すぎて食うにも不安があった。
援けを求める為に一度稲葉山城に帰蝶姫様の護衛という名目で入ったが、城主代理という明智光秀という男は食えぬ者だった。援助どころか奇妙丸様を保護したいというこちらの要求まで躱され、奇妙丸様にお目通りが叶う事もなかった。
「ちょっと堀とかやめてよ!作るなら舟遊び出来る池にしなさいよ!」
「これから稲葉山城に拘束された奇妙丸様を取り戻す為、戦になります。最低限城の防備を固めるのは必定かと」
帰蝶姫様にはそう強く説いた。奇妙丸様の為にも目と鼻の先にある稲葉山城との戦は必定、とにかく防備を急いで固める必要があった。元々鷺山には城のあった名残から再度塁を掘り、城とするべく防備を固めた。
帰蝶姫様も不貞腐れた様子ではあったがご納得頂けたようで大人しくなられ安堵していた。だがその数日の後に姿を晦まされた。
そうして今、美濃で千秋季忠と対峙している。
尾張で織田弾正忠家の忠義の徒として井伊の目を逃れ、細々と畑を作り今川に一矢報いようと皆で刃を研いでいた頃より状況は悪い。
鉄砲を持ち去り寝返るならまだしも鉄砲と引き換えた米を鷺山に持ち帰った者もいた。貴重な鉄砲をたった米一斗で奪われ言うに事欠いて「飢えた仲間にも米を食わせてやりたかった」などとぬかす。何年も悲願成すべしと寝食を共にしてきた同志だ、周りからは温情を求める声も上がっていた。
だがこれを認めては鉄砲を敵の手に渡し米と換える事を認めるも同然だというのに…仲間想いのその者の首を刎ねぬわけにはいかなかった。
貴重な鉄砲の数は減り兵は既に二百余名、見知らぬ地で織田弾正忠家の再興という大願で結ばれた結束が解けてゆくのが分かる。千秋季忠、ぱっとしない男だが敵に回すとこれほど厄介な者だったとは…
そうして池田恒興は自らが将の器でない事を獄門に処した者の首の前で嘆いていた。
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