第一二〇話 千秋龍興
「龍興、馬には乗れるか?」
「あったりまえよ!美濃の暴れ馬とは俺の事だ!」
微妙に頓珍漢な回答を寄越してくる龍興。ここのところ酒は控えめに、昼間は汗をかいて農作業に従事し体調もすこぶる良くなって健康そうであった。
「実は駿河、甲斐、相模の三国で競馬大会を行う話が出ていてな」
「…随分規模の大きな話だな?」
龍興は面食らっている。同盟関係とはいえ戦国の世に他国との軍事交流ともいえる集まりだ。音に聞く「武田の騎馬隊」なんて戦場以外で見る事は叶わぬだろう。
「その競馬大会に何故か尾張からも一人出す事になった」
「…そりゃまたえらく場違いだな」
怪訝そうな顔をする龍興。
「馬の枠が余ったからという話だが、騎手について要望があってな」
「「織田家と関りがなく」「尾張の者」「美濃に縁がある者」が「好ましい」と言ってきている」
「そりゃ完全に旦那に乗れって言ってるな」
龍興もすぐに気が付いたようだった。俺はしばし黙考したフリをして答える。
「いや、言ってないだろ」
言ってないしな。
「…そこは文脈から雰囲気を察するべきなんじゃないか?」
龍興は怪訝そうな顔を深めて言う。
「いや、言ってないだろ…」
俺は馬は少々苦手だ。戦国時代で記憶を取り戻した直後、俺は桶狭間でうんこを漏らして馬から振り落とされ何処かに逃げられた。あいつら人間じゃねぇ、人でなしだ。
それからリハビリをして今でこそ普通程度には乗れるようにはなったが、やはり何処かぎこちない。馬は乗り手の機微に敏感でその意識が伝わってしまっているようだ。
そういうわけで普通に乗るならまだしも馬を全力疾走させるような危険な競馬には出たくない。
「ともかく俺には大会の運営もある、出たくないものは出たくない」
平時であれば運営は小平太に任せているのだが、今回のように貴賓を招いての政治的な大会は責任者としてその場にいたい。別段接待が好きというワケではないし正直おなか痛くなるし勘弁して貰いたい。だが馬で走っていたら運営でトラブルが起こっていて俺の預かり知らぬ所で首が飛ぶ事が決定していましたでは困る。
「それで俺か?」
「そうだ」
この出走に万が一にも「勝利」なんて望まれていないが、俺が出ない事で手を抜いた人選だと思われ不興を買っても困る。
「だが俺は尾張に縁などないぞ?」
「それなんだが…俺の弟として千秋の名を名乗る気はないか?」
氏真は俺を引っ張り出したいようだが、千秋の名があれば納得するだろう。一応熟慮したが結局これは一色式部大輔を名乗る斎藤龍興が受けてくれるかどうかが問題だ。家格は龍興の方が上、それに千秋を名乗って弟になれというのはかなり無理がある。だが仮だろうが今回だけだろうが千秋の名があればそれは熱田に連なる者だ。
そして可愛い三歳の娘の婚約者として正式にコイツと血縁関係になるのは御免である。なお龍興の性癖は考慮しないものとする。
「ま、まぁ旦那には世話になってるしな」
「伊勢の澄酒で手を打ってやるよ!」
どうやら酒に釣られて了解してくれたようだ。もっと難儀するかと思ったが、変に拗れずすんなりと話が進んで有難い。だがコイツに酒を飲まさないのはコイツの健康の為なのだがな…ちなみに酒豪ではなく単にアル中なので性質が悪い。
「だが出て欲しいと言っておいてなんだが…あまり本気で走るなよ?」
「は?なんでだ?全力で走って狙うは一等だろう?」
龍興は俺には空気読めと言っておいてそこの空気を読むつもりはないようだった。確かに普通に考えれば一等を全力で狙うべきだろう、だが尾張は招かれざる者なのだ。それこそ空気を読んで八百長気味にでも最下位にでもなった方が良い。なので俺は適当に理由をでっちあげる。
「お前は競馬で落馬事故を見た事が無いと思うがあれは結構大変な事になる」
「速度を出した馬の背の高さからの落下、その後に後続の馬に轢き潰されるのは悲惨だぞ」
実際この時代の競馬はかなり危険だ。これまでにも何度か出走中の落馬事故があった。
馬場も平坦になるようにはしているが土と砂利が交ざってもので色々と危うい。馬を本気で走らせると小石は飛ぶわ滑るわ…本当は芝にしたいがそれも技術的に無理だ。
馬も令和よりは大分小柄でスピードも出ないがそれでも馬の背に乗り全力疾走をすればとんでもなく揺れる。馬上は原付より高いしそこから落ちれば大変な怪我になる。
そしてヘルメットはない。稀にデコレーション旺盛な兜を被って出る者もいるが、アレは風の抵抗が凄そうな割に落下時の衝撃には効果あるのかが分からない。横に長い枝を番えた兜を被って追い抜きを抑止しようとした馬鹿がいたがそもそもスピードが出ずに最下位だったのを思い出す。
「…あー」
龍興は事故には思い至らなかったようで納得したようだ。
昨今の騎手の間では栄誉を賭けて落馬を恐れずに馬を限界まで全力疾走させる…そういうチキンレースににも似た精神性が形成されつつある。これは自らの命を顧みず、恐れ知らずである事が誉れとなっているようだった。
「鞭の代わりに蜂に刺された方が早く走る」などと訳の分からないことを言って蜂を持ち込もうとした馬鹿までいた。戦国蛮族マインドで汚染される前になんとか文化的で健全な競馬に育てたいと切に願う。
「せっかく身内になるんだ。こんな事で縁を失いたくない」
俺は龍興の身を心配するような事を言っておく。正直死なれても夢見が悪い。
そして大会にはかの有名な武田の騎馬隊も参加するのだ。馬に慣れしっかり訓練された武将を出してくるだろう。そもそも甲斐の国は名馬の産地だ、変に背伸びしたところで勝てるわけがない。俺の感覚では八割がた馬の能力で勝負が決まってしまう。勝ちを望まれてもいない勝負で無理をして怪我などして欲しくない。なので安全第一で走って欲しい。
「ああ、うん。そうだな」
そう言う龍興は何処か照れ臭そうだった。
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