第一一六話 今川の書状

俺は今川氏真からの書状を見て天を仰いでいた。氏真名義なのは正式な今川からの通達だからだろうか?内容は悪い話ではないのだが胃が重くなる面倒事であった。


『今川と武田と北条で馬を競わせる。ついては神無月に鳴海競馬場を使わせろ』


…との事だ。これを拒否する事は出来ないし特別に競馬大会を開催する事も吝かではないのだが今川と武田と北条、ど偉い人を招いてとなるとこちらも諸々の支度に奔走しなければならないし心の準備もある。神無月なんて米の収穫後すぐだ。俺もこの時代に馴染んでその時期がどれだけ忙しく重要なのかは骨身に染みて理解している。

早めに刈り入れを行うかと頭を悩ませつつ面倒な時期に面倒な事をぶっこんできたな…という感想が漏れた。


「殿、お耳に入れたき話が…」


そんな折に滝川のオッサンが俺の耳にだけ聞こえるように髭面を近付け耳元で囁く。

息がくさい。


「なんでも幕府から京に上り朝敵の三好を討てとの命が届いているようです」


「え…幕府って…誰から?」


足利義輝が三好の馬鹿どもに討たれ幕府がどうなったのか?義輝には男子もいなかったようだし暫く後に弟も討たれたような事も聞いた。自称将軍の血筋を引く姓は劉、名を備、字を玄徳とか名乗る何者かでも湧いたのだろうか?


「そこまでは分かりかねます…」


まぁそりゃ控えめに言って機密文書だ、仕方ない。そもそもそんな情報をどうやって手に入れたのかこのオッサン…?


「与太の類じゃないのか?」


「はっ」

「それがこの話を裏付けるように大名各々方理由をつけ戦を回避し、京へ上る支度をしているようにございます。治部大輔様も松平殿を筆頭に兵を連れての上洛を考えているようにございます」


なるほど…それはさておいて。


「お…俺の所には届いてないぞ…?」


「届くわけないでしょう……」


届くわけがなかったようだ。俺が戦国の世に覇を唱えるのはまだ少し先のようだ。そうして咳ばらいをしてオッサンの髭面を遠ざけ、ふとした疑問を口に出す。


「そもそも今川と武田と北条って仲良いのか?」


三国で同盟を結んでいるという話は聞いてはいるのだが俺はイマイチ三家の関係を知らない、なのでこれを機に聞いてみた。


「同盟…ですので互いに婚姻関係を結び信に足りるという間柄でございます」

「武田と北条には共通の敵である上杉を相手に力を合わせ跳ね除けております」


ヤベー奴だな上杉…北条と武田の二正面とか正気じゃねぇ。


「上杉って上杉謙信だよな?」


間の抜けた質問にオッサンは少し考える間を空けてから答えてくれた。


「…謙信という者は分かりかねます、当主は上杉輝虎にございます。前には長尾景虎と名乗っておりました」


この時代の人、気分で名前変えるのやめてくれねぇかな…輝虎は謙信っぽい気はするのだが…もう少し経ったら改名するのだろうか?

俺は関東管領という奴に酒を送っているのだが礼状には長尾景虎名義で返ってきていたのが上杉政虎に改名したようだった。だがまた改名したのか…?まぁ多分上杉謙信だろう。このヤベー奴、武田と北条と敵対してはいるようだが俺には関係ない。何より今は亡き近衛前久が紡いでくれた縁だ、少しは大切にしたいと思う。


「そうか…忘れてくれ」


「今川は直接は上杉の脅威と対峙してはおりませぬが、武田と北条と縁を結ぶ事で三河の安定と尾張、美濃へと足を延ばしました。」

「ですが武田は今は三国の盟約を守っておりますが、基本的に侵略を是とする気質がございます」


「ほう?」


なんだか武田に対して唐突なディスりをぶち込んできたな?


「殿は美濃にもご縁が出来、今後は信濃と土地を接する事で武田との軋轢もあるやもしれませぬ。ゆめゆめお気をつけ下さいませ」


え?やだこわい。武田って山梨…甲斐だけでなく信濃も支配してるの?山梨の隣って長野だよな?信濃が長野だとすると武田領大きすぎない?

山梨と長野に隣接する県……地図が無いから全くわからんが滝川のオッサンの言い方だと美濃は長野に接している?そうなると美濃は…えーと長野の横?………ぎふ…?チート知識で県名を思い出しても日本地図も県境も曖昧で全く意味をなさない。今度うろ覚えで日本地図を描いてみるか…?でも山の名前やら峠の名前やら村の名前、道の名前、川の名前を聞いても場所も形もわからんからなぁ…


思考の海に沈んだ俺は「下手な考え休むに似たり」を止めて話を戻す。


「要するに朝敵を討ちに京都に向かうので上杉は上京し、武田と北条は兵を尾張に集める事で一時的に鉾を収める。そして同盟同士で戦場から離れ尾張に集まり平和の祭典で親睦を深める…そんな所か?」


「そのような意図もあるやもしれませぬ」


面倒事に巻き込まれるのは今更だ。そして俺でも足利義輝と…まぁ近衛前久おじゃるについても少し思う所がある。俺は三好を討つなんて大それたことは出来ないが、この競馬大会が三好を討つ為の一助になると思うなら少しはやる気も出るというものだ。


「京に向かうのは治部大輔様でそれに松平が付いていくのか?」


「おそらくはそのようになるかと」


三河勢が競馬に参加しなかった事から何かあったのではないかと思っていたが、今川義元が松平元康を伴って幕府の要請に従い軍を伴い三好の征伐か…上杉謙信も行くようだし後世の歴史に残りそうな一幕だ。

まぁ残念な事に俺はそんな歴史的な場面に居合わせる事はない。せいぜい裏方で平和裏に競馬を楽しもう。


そういう訳で悪い話ではないのだが俺はまだ見ぬ義元の倅、多分俺の上司になるであろう氏真とやらと会う事を考えると少々胃が重くなるのであった。

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