第一〇七話 朝靄の熱田

師走のまだ日も出ない暗い寒空に遠く雄鶏の声が響く。


やってしまった…傍らには艶めかしくも温い帰蝶姫の肢体が俺に絡んでいた。

十二割ハニートラップと分っていながら「毒を喰らわば皿まで!」と妙な勢いでいたしてしまったのだ…彼女もいつもの飄々とした感じはなく、普段からは想像出来ぬほど恥じらい必死で、そして初々しさがあってそれがまた煽情的であり…結局年甲斐もなく冷静になれず彼女に溺れてしまったのだ。


そうして俺はようやく冷静になり賢者の心で自のしでかした不義理さを悔いる。元とはいえ主家の正妻に手を出すなんて…具体的に言うと信長公の忠臣どうりょうに合わせる顔がない。


「…マジで何やってんだろうな俺…」


雄鶏は相変わらずけたたましく鳴いているが、まだ冬の夜が白む気配はない。室内は暗く意識を闇に集中すると彼女の静かな寝息が響く。吐息が腕にかかり、その温かさがこそばゆい。そんな未だ俺の腕に絡んで離さない帰蝶姫の寝顔を見つめた。


昨日までの俺と彼女の間の関係は希薄なもので正直に言ってしまうと「近寄りたくない面倒な女」だと思っていた。

この度の美濃乗っ取り計画で重要なのは死んだ信長の嫡子であるうしおだ。だが彼女にしてみれば養母という立場をお裕殿に奪われてしまっている。そしてお祐殿の排除は難しいだろう。だからうしおの義父であり後見人である俺に対してハニートラップを仕掛けたのだ。


体を重ねて情が湧かないハズもなく責任くらいとらねばなぁ…と考える。家を与えてある程度安定して食っていけるようにさせる事は(やろうと思えば)出来るが、彼女が求めているものはそんなものでない事は理解している。

美濃を手に入れる…彼女も言っていたが全土でなくても良い。美濃で彼女が安全に暮らせる土地を確保するのだ。こうなった以上ザルっぽそうな計画だが竹中の話に乗るしかないだろう。まぁそもそも義元からも美濃を取れと命じられている身なのだ。義元には美濃を管理する人材を派遣して貰わないとな…


面倒事をどうするか考え彼女の寝顔を見るともなしに見る。お姫様らしく整った顔だが少々憎らしくもある。一方的に振り回されるのは癪なのでなんとか少しくらい困らせてやりたいものだが…そんな事を考えていると彼女の表情に変化があった。瞼は閉じたまま唇をもごもごと動かした後、顔を俺にこすりつけて埋めようとする。何か違和感でも感じたのだろうか、瞼がうっすらと開き暫く微睡んでいたようだが意識がハッキリしだしたのかその目が見開かれ、それをずっと見ていた俺と目が合った。


「…おはよう」


何と声をかければ良いのか分からなかったので無難な挨拶をするが、どうも何時もと違う状況に寝起きの頭で処理が追い付かなくて混乱か思考停止をしているようだ。きっと今は昨晩の情事を思い出してしまっているのだろう。先ほどまで自然体で俺を掴んでいた身体は強張り震え、緊張しているのが分かる。

考えてもみれば彼女は美濃のお姫様だ、男性経験が多いという事はないだろう。

…気まずい。

俺は彼女の震えを誤魔化すように抱き寄せ、布団代わりの衣類で顔を覆った。


「あ…あの…季忠ちゃん…その…」


いつもと違うか細い彼女の声をあえて遮って言葉を被せた。


「帰蝶殿、昨晩は貴女が魅力的過ぎて抑えが利かなかった」


…後出しだが、昨晩は「久しく…」と言った彼女に相当無理をさせてしまった。多分反応から恨まれているという事はないだろうが、先も言ったように彼女はお姫様だ。無理を強いた事を詫びる。

衣類で覆われた彼女の表情はこちらからでは窺えない。だが羞恥からなのか殴りかかってきた。痛くはないので本気ではないのだろう。


「莫迦!莫迦!莫迦!」


そうして暫く殴られ続けていると疲れたのか彼女は殴るのを止めて、


「この…ケダモノ」


そう罵ってきた。

その表情を窺い知ることは出来ないが、声の感じから本気で怒ってはいないようだ。なんだか無性に彼女が愛おしくなりその身体を抱き寄せる。そうしてまだ暴れようとする彼女を衣類越しに顔を寄せて囁いた。


「貴女を離さない」


その言葉で彼女は大人しくなった、それどころか俺にしなだれかかり身体を預けてくるのが分かる。冬の朝はまだ暗い。俺はそんな彼女の肌の温もりを感じ…一瞬、二度目の情事をいたすか迷ったが……俺の判断は早かった。


◇ ◇ ◇


「その……また会って…くれる?」


俺の帰り際、帰蝶姫は衣類から真っ赤な顔を出して上目遣いで聞いてきた。


「ああ、勿論だ」


一方的に振り回されるだけでなく少しはやり返せただろうか?その分俺も情が移ってしまって一層振り回されそうな気もするが仕方がない。



そうして旅籠を出た。靄がかかっている朝の熱田の慣れ親しんだ道を歩きながら俺は考える。

史実で「濃姫」はどうなったのだろうか?俺は信長と末永く幸せに暮らしましためでたしめでたしかと思っていたが、信長には愛人という名の本命の女がいたようだ。帰蝶姫は信長の寵愛を受けれず子もいないと聞かされて驚いたが、そもそも美濃から政略結婚でやってきたし仕方がないのかもしれない。それが史実だったのか何処か間違ったこの歴史世界だけの事なのかは分からない。

だが俺は彼女に同情し、思い入れを深くしてしまった。


ゲームでは元気に本能寺の変で信長と一緒に戦ってた気がするが…信長は俺と同い年で人生五十歳とか言っていたから本能寺の変は二十年位先だろう。彼女もそれまで元気に生きていたのだろうか?でもゲームの設定はアテにならないからな…本能寺でも信長さんも濃姫さんもめっちゃ若いグラフィックだったし、そもそも彼女は最前線で銃をぶっ放して戦うような人物ではない。

史実で信長の妻である彼女がどうなったのかくらい教科書を読んで学んでおくべきだったな…

そうやって俺はまた歴史に興味が無かった事を後悔した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る