第一〇六話 密談

地元の連中とよく使う旅籠を見上げ、肩を落としため息を一つ。沈みかかっている日の光と白い息とが混じる。

美濃乗っ取り計画の発端となった帰蝶姫に俺は呼ばれていた。


美濃三人衆を懐柔する為に美濃を奔走した明智光秀や竹中は強い手応えを感じているようだったが俺にはそもそもの計画である稲葉山城の城主一色式部大輔…彼女の甥に当たるという斎藤龍興を追い出し、うしおを後釜に据えるという無謀極まりない計画に納得出来ずにいた。

確かに義元が京へ向かう道を欲しているという意向もあるし「これだけお膳立てをされておいて臆病風か」などと言われるのも心外だが、信長さんも手を焼いたという美濃を平定出来るイメージが全く湧かないのだ。

「美濃に帰りたい」というだけで周りを巻き込み話を大きくした彼女に対し、俺も言いたいことがあったので良い機会とばかりにこの言い出しっぺ姫に説明を求めた。


「帰蝶殿は皆を焚き付けて何をしたいのです」


時刻は夕刻だが師走の空は既に暗くなり空気は冷えていた。帰蝶…濃姫は七輪を独占して不思議そうに俺を見上げにっこりと笑顔で応えた。


「あら、言わなかったかしら?わたし美濃に帰りたいのよ?」


「…今回の計画が上手くいくとは思えません。よしんば一度は上手くいったとしましょう。ですがその後美濃の国人衆を纏められるとは思えません」


尾張が纏まっているのは偏に今川と斯波の協力体制、そしてお祐殿のおかげだ。その威光が全く通用しないのだ。そこをロクデナシという噂の国主、一色式部大輔を廃して今川が入ったりしたらどんなカオスになるのか想像がつかない。


「あら、別に全土を掌握しろなんて言ってないわ!季忠ちゃんは街道だけ抑えれば良いんじゃなくて?」


…まぁ義元の注文通りなら街道周りだけでも良いのか…だが俺の事は良いのだ。俺は彼女が何を考えているのかを知りたい。


「貴女には信長公とのお子もいるし尾張には織田家臣も今も忠節を違わず貴女とうしおを支えるつもりでいる。なのにどうして彼らの忠義を無下にしてまで今更故郷だからと美濃の地へ踏み込もうとするのです?」


彼女が桶狭間の後かくまわれ生き延びれたのも織田弾正忠家の家臣団が尾張に土地を持ち根付いていたからだ。「濃姫」はゲームでは女傑として描かれる事もあったと思うが、今の彼女を見て他国に攻め入って土地を平定する戦国武将となるのは無理がある。俺の目からすると忠臣を無為に死地に追い遣る様にすら感じてしまうのだ。


「そうねぇ…」


そう言って七輪に覆い被さった彼女は目を伏せて少し考えて言葉を紡いだ。


「ノッブちゃんの家臣は皆よくやってくれているわ。柴田も弾正忠家に忠節を誓うと言ってくれたし池田はずっとわたしを匿ってくれた。そして滝川は貴方と、そしてあの井伊にまで渡りをつけてくれたわ」


……俺は滝川のおっさんを何処まで信じたら良いんだろうな?


「那古野にいた先代の井伊の城主は恐ろしい男だったわ。織田弾正忠家を根切りにしようとずっとわたし達を探し回っていたのよ?」


え…井伊直盛のおっさんそんなだったの?こわ…俺の知るおっさんはお祐殿に尻拭いを任せて那古野を出て隠居したいダメなおっさんかと思ってたけど…よく俺はうしおを連れてのうのうと生き延びれたな…


「苦しい時にこそ人間の本性が出るというのであれば彼らの忠義は間違いないでしょうね」


「彼らの働きを認めているのなら何故尾張に住む彼らの忠節を無下にするような美濃取りを進めようとされるのです?」


そもそも彼女は彼らの主ではない。主命なら彼らも戦を厭わないだろうが彼女は信長さんの妻というだけだ。彼女の一存で無謀な美濃取りに命をすり潰して良いワケがない。

少しの沈黙…そして彼女は悩むような仕草をして言葉を選ぶようにして紡いだ。


「兄さんも死んだし、たっちゃんに頭を下げれば何処かで平穏に暮らせるかもしれないけれどね…たっちゃんにしてみればわたしには何の価値もないの」


兄さんというのは斎藤義龍だったか?たっちゃんというのは龍興…一色式部大輔の事だろう。名前と役職名とあだ名でもうわけがわからんが、彼女の美濃での立場は決して良い物ではないと理解した。


「私は尾張で井伊に追い回された織田弾正忠家という面倒事と共にやって来る厄介者なのよ」


今でこそ帰蝶殿はお祐殿とうしおを巡って義母と育ての親のキャットファイト染みた事をやっているが、少し前まで織田弾正忠家は今川と井伊に追い回されていた。その時に美濃に逃げ込んだなら最悪今川が美濃に攻め入る口実になったかもしれない。もしそうなったら一色式部大輔…斎藤龍興とやらはどうしただろうか?彼女を守り全面戦争をしただろうか?それとも彼女以下弾正忠家の家臣の首を差し出し事無きを得たか…?


「それが今では明智が美濃の諸侯を懐柔し、竹中とやらの妙な計画にのれる程時節が変わった…と」


彼女にしてみれば長く雌伏の時を過ごし、今は千載一遇のチャンスに見えるのかもしれない。


「竹中ちゃんには腰を全く上げようとしなかった季忠ちゃんのお尻を叩いてくれて感謝してるわ!」


彼女はけらけらと笑ったが俺は対照的に苦い顔をしてしまう。だが彼女は明るかった表情を崩して言った。


「わたしにとってね…尾張は異国なの」

「この国はね、ノッブちゃんと…彼が大切にしていたの国…わたしはまだ彼女の影の下で生きているわ」


…ん?信長とその愛人の国?まぁこの時代において愛人や妾や側室あ珍しくはない、現に俺もいたし…だがどうして彼女が信長の正妻である自身ではなく「愛人の国」などと表現するのはどういう事だろうか?


「…わたしにはね、ノッブちゃんとの間に子はいないの」


え……?じゃあうしおは…?


「そ、それだと美濃を嫡子に譲るという前提が崩れないか!?」


この時代義理の子というのは珍しくはない。だが縁もゆかりもない子を信長の嫡子としてまつり上げ、美濃の領有権を口にするのはちょっと不味い。


「大丈夫よぉうしおちゃんはノッブちゃんの子よ。ノッブちゃんの面影もしっかりあるわ」


そう言って彼女はけらけらと笑う。

…一応正当性はあると思おう。美濃譲り状に書かれていたのは「美濃を信長に譲る」という文言だけだ。本来なら信長に相続するはずのものを拡大解釈して「信長の嫡子にも相続権があって嫡子はうしお」という事にしているのだ。そして嫡子の母親に関しては書かれていない。だから帰蝶殿の子でなくても問題はない。うしおが一色式部大輔の土地やら権利を取れるのであれば彼女が美濃に戻るという目的に不都合は無い。

そうして内心ほっとしている事に気が付く。美濃乗っ取りの口実を「ギリギリ有りか?」と思わせられていると感じ、どうにも空恐ろしい。


「それじゃあうしおは…帰蝶殿の子ではなくその…側室の子なのか?」


我ながら配慮に欠ける質問で失言だった…と後悔したが彼女はあっけらかんと話をした。


「ええ。でもあのはね、うしおちゃんを産んでそのまま亡くなっちゃったの」


…この時代出産は命をかけるものだというのは知っている、そういう事もあるだろう。そうして彼女は言葉を続けた。


「……その時はね、これでノッブちゃんは私だけのものって思ったわ…でもノッブちゃんは一人で彼女の死をずっと悲しんでいたの。彼の気持ちはそれからずっと…亡くなった彼女に向いていたわ」


そう吐露する彼女からはいつものような快活さが抜け落ち陰のある笑みを浮かべていた。


「元々わたしの居場所は尾張に無いのよ」


元々…か。


「子も生せず頼れる家族は無く、ノッブちゃんが残した家臣のお世話になっているだけ。わたしにあるのはこの美濃譲り状からてがただけなのよ」


そうして彼女は七輪から身を起こしたが着物を着崩し胸をはだけさせていた。七輪の仄かな明かりが彼女の白い肢体を冬の闇に浮かび上がらせる。


「女の武器…なんていうには期限切れだけど…うしおちゃんの義父の季忠ちゃんとはを持っておかないといけないの」


自嘲するように、だが努めて妖艶に俺に迫ってくる帰蝶姫だったがその体は小刻みに震えていた。寒さからではない、このような経験が足りていないのだろう。彼女は明らかに無理をしている。

こんな慣れない事までする彼女にどれだけの覚悟をもって事に当たっているのかを理解する。俺は彼女に恥をかかさぬよう覚悟を決め身体を重ねた。冬の寒気に身を震わせるが、七輪のおかげか彼女の身体は思った以上に熱く火照っていた。


夜の帳はまだ降りたばかりだった。

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