第一〇三話 さや
激動の永禄八年はあっという間に過ぎ、秋も深くなっていた。
秀さんは村長を務めている都合、羽豆崎へしばしば帰っているのだが俺はどうにも足が遠のいてしまっていた。そうして俺は久々に可愛い姪御に会わせてやろうと気を利かせ、滝川のおっさんを伴って羽豆崎へ向かった。道中おっさんは再会を寿ぐには少々鬱陶しい曇り顔だったが、姪御さんの顔を見るなりその渋い眉間の皺を更に深めた。
「いらぬお世話でございますが?」
滝川のおっさんの姪、さやである。
元々不機嫌が服を着て歩いているような女だが、この叔父を前にするとその毒舌が一層冴える。
「今度こそ賭け事などにうつつを抜かさず殿にお仕えしておられますか?」
質問というより詰問のような厳しい口調である、とても自らの叔父に対しての口調ではない。ともすれば女上司か何かかと勘違いしてしまいそうな雰囲気であった。
「ああ、勿論じゃ!儂はやれば出来る男ぞ!」
この時代でそんなダメ人間の定型句を聞く事になるとは思わなかったが、滝川のおっさんがむさい顔をこちらに向けて縋るような目をしてくる。普通にキモイが正直このおっさんが控えめに言って有能である事は疑いようもなかった。
「…正直ここまで仕事が出来る男だとは思わなかった。俺も相当助かっている」
忌憚のない素直な感想でおっさんの援護をしておく、出来る男だから側に置いているのは確かなのだ。そうしておっさんは髭面を赤くして照れている。キモイ。
「殿、本人の前だからといって世辞は無用にございます」
だがそんな賛辞の言葉は微塵も心に響かないとばかりにバッサリと切って落とされた。
「はぁ…昔は「いち兄いち兄」とワシの後をついて来たというのに…かわいげのな…」
言葉はもう少し続くかのように思えたがそこで途切れた。おっさんのみぞおちには女性とは思えぬ見事な右拳が刺さっており、意識を強制的に刈り取られたようだ。彼女の表情はいつもの能面のような顔ではなく、朱に染まってはいるが…そこにはかわいげとは無縁の般若がいた。
◇ ◇ ◇
「静香姫様は大変元気がよろしくて…」
そうして通された広間では本来なら静香と目通りをする手筈だったのだが、その場には教育係であるねねさんが一人で座っていた。
数えで二歳になるウチのお転婆姫の評価は優しくオブラートに包んで「元気がよろしい」ようだ。
…まぁ血だろうな。俺は今は亡き彼女の面影を濃く継いでくれている事を少し嬉しく思うが、ねねさんと娘さんのおつるには内心申し訳なくも思う。あのしずかが幼児の頃…と想像すれば控えめに言って怪獣だ。その教育は想像以上に大変だろう。
しかしこの才女の手に余るお転婆…血脈は教育に勝るのだろうか?
そうしてにわかに外が騒がしくなる。聞き覚えのある大声…だが、彼にとってはこれが当たり前の声量だ。
そうして髭の大男の肩に乗って件の姫がやってきた。
「おう!帰ってきたか!婿殿!!」
「おーう!かえってきちゃかー!むこどのー!!」
彼女の伯父である海の男、九鬼嘉隆の肩に乗って静香がやってきた。
ああ、これはダメだ…この男と一緒にいては絶対情緒教育によろしくない…
「静香!婿殿ではないぞ、そなたの父上だ!!」
「ちちうえー?」
静香は体をくねらせながら俺を見る。この微妙に足りなそうな雰囲気は楠丸に似ている…これは一体誰の遺伝子なんだ…?
「俺は千秋季忠、お前の父だ」
この自己紹介は俺がどれだけ彼女を放っていてしまっていたのかを表すものだ…本当に今更ながら後悔の念が湧く。そうして娘、静香はまじまじとその大きな眼で俺を見遣り、そして何処となく死んだ彼女を思わせる言葉を口にした。
「よわそぅ……」
そりゃ今までお前が肩に乗ってた九鬼嘉隆と比べれば俺などモヤシだろうよ…九鬼嘉隆は姪の言葉に大笑いしている。
だが俺は軽く罵倒されたにも関わらず、死んだ彼女をしっかり受け継いでいる事が嬉しくもあった。
◇ ◇ ◇
俺は今回の目的であるしずかの墓に供える椿油を作っていた。
前は俺を監視していたさやも何か心情の変化でもあったのか、今年は油作りを手伝ってくれた。しずか付きの侍女だった彼女はしずかの死の際に側にいてやれなかった俺を憎んでいるだろう。だが時が経って気持ちに整理がついたのかもしれない。
そう思い俺達は黙々と椿油を作って、そしてそれをしずかの墓前に供えた。
「殿、改めまして申し上げます」
しずかの墓前で俺が手を合わせ祈るのを終わるのを見計らってさやは声をかけてきた。
「私は殿の事が嫌いです」
いきなりド直球のデッドボール発言が飛んできた。まぁなんとなく知ってはいたが、口調こそ穏やかで冗談といった風だったのとは裏腹に、その言葉には本気の殺意が含まれていた。背中を汗が伝う。
「私は主人をしずか様だけと決めておりました。彼女は女だてらに何かを成す器であると確信し、それを見届けるつもりでした。」
さやの昔語りが始まる。俺は先ほどの殺意にあてられ話を聞くに徹する事にした。
「いざという時にはしずか様の鉾となり盾となり、身代わりとなって果てる所存でした。ですがつまらぬ男にしずか様は唆され、お変わりになられてしまいました」
さやは俺を一瞥する。
「口を開けばその男のことばかり、やれいつ求めてくれるのかだの子供は何人が良いのだの、男だったらあんな弱い男にならぬようしごいてやるだの…まるでただの町娘のような他愛もない恋話を毎日のように聞かされ辟易としたものでございます」
自分が弱い事に変な自信はあるがメタクソ言われてるな…
「ですが…しずか様は幸せそうでした」
そういって彼女は俺に向けていた殺意を消し、墓石に目を移す。
後ろには伊勢湾が広がっていた。
「しずか様が亡くなり、御身の身代わりにもなれず、生き恥を晒してございます…私も身の振り方を悩んでおりました」
…なんだかきな臭い方に話が逸れそうだ。変に事を起こす前に俺は話をデッドボール上等気味に投げつけた。
「お前の叔父の監視をしてはくれないか?」
「は?」
さやは話の腰を折られ素で驚いた顔をしている。
「アイツは出来る男だが俺の預かり知らぬ所で何をしでかしているかわからん。借金を作っていても俺に隠す事は容易だろう。なにせただでさえウチは賭け事に手を出している、滝川にとって誘惑が多い。俺の目では届かぬ場所でアイツがまた借金をこさえないよう見張ってはくれないか?」
借金という言葉を連呼してみる。
このところ良い仕事をしてくれている滝川のおっさんをダシに使うのは少々申し訳ないが、姪っ子が自死でもされたらおっさんもかなわないだろう。まぁ後でしっかり説明しておこう。
だがこれが存外に効果があった。
「…叔父上はまだ賭け事から足を洗っておりませんので?」
そう言ったさやは全身から憤怒からくる殺意を滾らせていた。
「い、いや、そういう訳ではない!俺は滝川を信じている!だから間違いが起こらぬよう監視を頼みたいのだ!」
目を瞑り、こめかみをピクピクと動かす彼女からは今までにない気迫を感じる。
「…わかりました。一度は人生を終わらせると決めた身の上です。何か叔父上が粗相致しましたら、叔父上を刺して私も果てましょう」
俺は無言で頷く事しかできずにいた。
とりあえずなんとか穏便にこの場は収めたような気がするが、滝川のおっさんにババを擦り付けただけのようにも思えた。俺はとんでもないヤツを流れで引き込んでしまったかもしれないと、ちょっと怯えていた。
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