第一〇〇話 永禄の変

五月二十二日、那古野は雨だった。

その雨の中を駆ける男が一人、男は那古野城に這う這うの体で入ってきた。


「とのおおお!!とのはおられるか!?」


堺から秀さんが帰ってきた。だがその姿は泥の中を必死で駆けてきたであろう、酷い姿だった。そのただならぬ様相に城の者は遠巻きにしていた。


「誰か!水を持て!」


そんな秀さんを落ち着かせる為に水を求めたが、秀さんは俺の姿を確認するや否や腕に縋りつき力を振り絞って耳元でなるべく小さく言葉を紡いだ。


「との一大事じゃ!将軍様が…殺された!」


「…どういう事だ!?」


柄杓で水を飲み息を落ち着かせる秀さんを引っ張って二人で話が出来る部屋に連れ込む。息を整えた秀さんが事の次第を説明してくれた。


「一報は酒場に入ってきた男の与太じゃ。ただ二報三報と届く錯綜したハナシに京で何かが起きた事だけは間違いないようじゃった。三好が帝にまで手を出しただの京の町に火をつけただの大分混乱しておってその日に京まで行って確かめてきた」


どうやら秀さんは堺でその事件の話を聞きつけ、真偽を探る為に京に上って短い間に噂話を集めたようだ。


「間違いなさそうなのは五月十九日の朝、二条御所が大勢の三好の兵に襲われ…将軍様は長い事奮戦した挙句に討ち死になされた…と」


「……確かなのかそれは?」


秀さんは真剣な面持ちで俺の目を見て頷いた。

にわかには信じがたい話だ…秀さんの勘違いかそのまま流言飛語の類であってくれと祈ってしまいそうになる。

だがその後に続く話は更に俺を驚かせた。


「その後三好の兵は近衛卿のお屋敷に行って将軍の奥方様…近衛卿の姉君の身柄を渡し許しを乞ったと」


…ああ、なるほど。姉の命が惜しければ朝廷を纏める三好の後ろ盾になれという脅しか…反吐が出る。軍が屋敷を囲っているなら人質どころか近衛前久の命だって危ういものだ。


「それに対し近衛卿は「麿の従兄弟を斬って許されると思うてか!」と刀を抜き賊に斬りかかったそうで」


「……は?」


あのおじゃる剣が使えるのか?いやいやいや相手は謀反を起こして今まさに将軍を斬ってきたまごう事無き凶悪犯だぞ!?馬鹿なのか!?


「三好の兵はその場で近衛卿を斬り捨て屋敷に火を放ち逃げるように京を出たとの事じゃ」


絶句する。なんだよあいつ…馬鹿なんじゃねぇの…脅しに屈しろよ…変な所で男みせてんじゃねぇよ…なんで斬られてんだよ…


地味に強請り集りは当たり前だし口を開けばおじゃる言葉が耳につく嫌味な奴だった。三か月もつるんで友情なんて毛ほども湧かない腹立たしいだけの男だった。

いつも顔は真っ白に白粉塗ってるし眉毛は丸く描いてるしお歯黒べったりで口を開くと黒いし高い声は癇に障る、良い所なんて何一つなかった!

いや一つ…令和ではアイツの顔文字があった気がするくらいしか良い所なんてなかった!そんな三枚目がなんで男みせて死んでるんだよ…!!



「殿!」「殿!!」



俺を呼び止める声があった気がする。

だが気が付くと俺は雨の降る中を馬で駆けていた。とにかく京へ、事の真偽を確かめたい、それだけで頭が一杯だった。


だがその願いはあっさり阻まれた。渡しのあった川が増水していて渡れなかったのだ。俺は阿呆のようにその場で立ち竦んでいた。

雨に打たれ増水した川を見て考える。今更ながらに何をやっているんだ俺は…完全に「殿がご乱心でござる!」状態だ。

程よく雨で頭も冷えて落ち着いていたのだが、どうにも帰る切っ掛けを掴めずにいた。京の方角は向こうか?降りしきる雨の中で俺はそんな事を考えていた。


足利義輝が死んだ影響は計り知れないだろう。まだ世継ぎもいないと聞いた。一応弟がいるような事を言っていた気がするが、どちらにしても後継者争いが起こる事は明白だ。それともこれが原因で足利幕府は潰れたのだろうか?


そして近衛前久も死んだ。その影響は…あるのか?でもあのおじゃるは一応関白とか自慢してたしきっと俺の知らない所で影響があるだろう。


歴史に詳しくない身としては今後どうなるのか不安で仕方がない。これだけの大事件なら多分教科書にもしっかりと載っていただろう。将軍足利義輝と近衛前久が死に、どう歴史が動いたのか…あの時もう少し勉強しておけば良かったと、今更ながらとても後悔する。



そして雨の中、ぬかるむ泥道を懸命に走り息を切らせた滝川のおっさんが追い縋ってきた。まじかよこのおっさん走ってきやがったか…体力あるな。最近滝川のおっさんは実は有能なのではないかと勘違いしそうになる。


「と…との……ご無事でございました…か」


滝川のおっさんの息が整うまで待ってやる。そうして俺の顔を見てぎょっとしたような表情をした。そしておっさんは言い難そうに言葉を紡ぐ。


「殿……泣いておられたのですか?」


何を言っているんだコイツは…俺が泣く要素なんてあったか?

天を見上げると降ってくる雨が容赦なく目に入る。


「…雨が目に入っただけだ」


俺は京の方角に向って暫しの間、黙祷をする。おっさんも俺に倣ってくれたようだ。そして踵を返す。


「那古野に戻って治部大輔様に早馬を出す」


「こ、心得ております」


偉そうに言ったが今の俺は「殿がご乱心でござる!」状態だ。頭が冷えて冷静になるとこれはなかなか恥ずかしい。その上滝川のおっさんに手間をかけさせてしまった…その手前少し厳しめな顔を続けておく。

遠くない将来この事を思い出し布団を被って足をバタつかせる日が来るだろう。

いやこの時代布団ないけど。


そしてこの時代に来て初めて知った「三好」とやらに怒りを憶えながら俺達は那古野へと戻った。

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