足利の次
第九十九話 熱田琥珀酒
俺の前には熱田で二番目に能天気な男が酒壺を携えてやって来ていた。先日まで一番は俺であったらしいが、それは返上したので今は一番能天気となった男である。
「まぁまぁ
俺の事を「シロちゃん」と呼ぶ男の名は常春、俺の悪友であり幼馴染であり石丸酒蔵の馬鹿息子だ。今日は石丸酒蔵の連中を引き連れて熱田の千秋家でビールの試飲会となっている。
千秋家は熱田の顔役である。地元の者とは密に付き合いがあるし同年代の者の顔と名前は全て覚えている程には繋がりが強い。ちなみに妻の「たあ」も熱田に住む医師の娘だ。
そんな常春に俺はビールを作らせていた。石丸酒蔵は地元の酒蔵で融通が利く…なんて思っていたのだが、そうは上手くいかないものだ。
「これはビールじゃないんだよなぁ…麦味のアルコールだ」
俺は盃に注がれたビールもどきを飲んでため息が出ていた。とにかく物足りない。なんかホップ?とか入れてた気がするがホップが何なのか知らないしこの時代で採れるのかも分からない。常春にビールがどんな味であるのかも伝えられないしモヤモヤだけが残る、そんなモヤモヤをこのビールもどきで味わっていた。
アルコール度数は比較的高いのだが濾した影響で泡は無く、当然キンキンに冷えているなんて事もない。
「酒なんてそんな難しい事考えて飲むもんじゃねぇだろ!」
常春は幼い頃からの悪友でお調子者であった。熱田で二番目に能天気な男の冠は伊達ではない。悪い奴ではない…のだがここまで頭が悪いとは思っていなかった。
「コイツは熱田琥珀酒とでも名付けて売り出せばバカ売れ間違いないっすぜ!」
このビール…というか麦酒に何故俺が渋い顔をしているかというと、わざわざ麦を発酵させる為には加糖せねばならず、この時代にも存在する水飴を足す事になったのだ。
とにかく引っかかっているのは「水飴」だ。
水飴の原材料は米だ。元々米を使いたくないから他の作物から安価に酒が造れないかと考えビールを作らせたのだ。まぁ俺がビールを飲みたかったのもあるが。ビールは麦酒というくらいだから麦だけで作れるのかと思ったら違った。俺の勘違いからきた誤算である。
尾張は比較的温暖で米の生産量も安定している。とはいえ米は貴重品、食ってよし、備蓄してよし、いざとなったら他国に売ってよしの戦略物資だ。俺だって平時は稗の粥を食っている。
そうしてこの麦酒には米を使っている。庶民向けの安価な酒に…とはならなさそうだった。
俺は令和の知識を持っているが、水飴を作る知識など持ち合わせてはいない。米だって炊飯器が無ければ炊けないほどには文明人なのだ。
そしてこの時代において水飴の知識と製造、そして権益を持ってるのはお寺だった。俺は寺には相応に寄進をして教えを乞った。滅茶苦茶渋られたのだが「甘味として流通させなければ…」との条件で特別に作り方を教えて貰い、製造の許可を貰ったのだ。
トントン拍子に話が進んではいるが、これは三河の一向一揆を鎮圧した後に聞いたので、今から考えるとあの坊さんは脅されている、殺されるのではないかと戦々恐々としていたのかもしれない。そういうつもりはなかったのだが…悪い事をした。
というわけで貴重な米を使って水飴を作る方法まで伝授してもらっても甘味としては使ってはいけないという縛りがあり、発酵させ酒にするしかない。
そうしてこのお調子者の常春に米と麦芽糖を使って水飴を作らせ発酵させて酒を造らせたのだ。だが出来たものがこのビールですらない何か残念な物だ…このビールもどき、物足りないどころか明らかに別物のアルコール飲料である。
前に作らせて試飲した時はこのもどきでも「まぁ試作品だし仕方ないかな?」という気持ちで半年時間を与えて改良してもらうつもりだった。だがその時間でコイツは大量生産をしていやがった。
伊勢の中山屋の栄吉さんとコイツの精神性は真逆過ぎた。職人気質過ぎる栄吉さんに当時は頭を抱えたものだが、常春のここまで意識が低い精神性は想定外だ。頭が痛い。
「いやいやいやいやシロちゃん!コレで使うコメの量は大分少なくて済んでるからな!?」
俺のこだわりは米の消費量が少ない事という事を一応は理解しているようだ。
「これでも大分安価に飲めて酔えますぜ?」
安く提供出来る大衆の為の酒と考えれば新しい酒として良いのかもしれない。
俺はちびりと盃に注がれたビールをなめる。相変わらず物足りない…何かハーブか香辛料のような物を入れれば風味にもう少し深みみたいなものが出るのではなかろうか?…それがホップか?
今の時代で俺が手に入れられそうな香辛料は…生姜、山椒、わさび、それか塩…味噌?とりあえず全部試してみようとは思うが、生姜はいけそうな気がする。勿論俺が飲みたいビールとは別物だろうが。
「コイツはこれで結構評判は良いんですぜ?」
しかももう一般に流通させているような発言をしやがったな…さっきは「熱田琥珀酒とでも名付けて売り出せば…」なんて言っていたクセに舌の根も乾かぬうちに…
冷静に考えよう。もちろん作ったビールの破棄なんて選択は欠片もない。酢にするとか論外だ。もうこれだけ作ったら売るしかないのは確かだ。
この貴重な水飴を使ってこんなビールもどきを作るくらいなら芋か葡萄から酒を作れば良かったのでは…と思いもしたが、俺の知る限りぶどうは山ぶどう、そして芋は山芋くらいしかないのできっと出来る酒も別物になるだろう。
「…今後も品質向上に努めろよ?」
「もちろんでさぁ!!」
常春は返事だけは良かった。
「オッシャ!旦那からお許しが出たぞ!おめぇらこれから忙しくなるぞ!!」
「「オオー!!」」
後ろに控えていた石丸酒蔵の連中が雄叫びをあげた。たった今話した「品質向上に努める」という話は常春の頭には一切残っていないだろう…俺はそう確信する。
こうして「熱田琥珀酒」は謎のスタートを切ったのだった。
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