第八十六話 熱田と三河の人質
疋田文五郎という男は正しく天才だった。
俺と滝川のおっさんの二人がかりでも全く手も足も出ない。別に俺が滝川のおっさんの足を引っ張ったとかじゃないから?
歴史に名も残らない男のくせに…まぁ俺も人のコト言えた身分じゃないが…
だがしかし!もしかしたらこの世界でなら鋤剣法の創始者として名が残るかもしれん。可哀想に…
俺は大物らしく彼に同情する事で溜飲を下げる事にした。
「こんなモノでは戦えませぬよ」
などと言っていたがそれでも根が真面目なのか色々考えてくれたようで改善点等をフィードバックした結果、短めの鋤の柄に手で掴める横棒を付けたトンファーのような武器になった。
まぁ俺には全く扱えないのだが。だが疋田が使っているのを見ると確かに強い。剣だろうが槍だろうが変幻自在の動きでいなしてみせた。
というか疋田のヤツが強いだけなんじゃなかろうか?
そしてウチの兵共がそれを見て最初は馬鹿にしていたが、その謎のスコップ剣法でボコボコにされ疋田を見る目の色が変わった。疋田は言葉こそぶっきらぼうではあるが真面目で面倒見が良い、そうしてまるで剣術指南役のような事をしていた。いや、一応そのつもりで招いたのだが。
想定しているのは防御陣地の構築とそれに引っ掛かった敵兵との近接戦闘なので完全に受けの姿勢ではあるが警備兵とかで使っても良さそうだ。これで少しでも戦力アップになれば良いんだろうが、先ずは治安維持部隊を構築する事にした。
◇ ◇ ◇
そうして年の瀬も迫ったある日、俺は松平元康に呼ばれ岡崎城に登城した。
最近知ったがコイツは将来神君大正義徳川家康となるお方であるので全力で靴でも草履でも舐めておいて損はない男だ。
…まぁそのルートはどうにも潰れてしまったかもしれないがとりあえず積極的に媚びを売っておくべきだろう。
これから聞かれたくない話をするつもりなのだろう、元康は人払いをした。
まぁ俺はこれから話すであろう内容に覚えがあった。
だがどうにも元康の口が重いので酒を勧めてみた、そうして酒で口を湿らせると重い口を開けぽつりぽつりと語りはじめた。
「年明けの頃、今川より質を差し出せと要請があろうとまことしやかに囁かれております」
やっぱりその話か、義元もそんな事を言ってたしな。代替わりをして主従関係を明確にしたいのだろう。
「千秋殿にも同様の要請がありましょう…如何されるおつもりか?」
織田の先兵として今川と戦った千秋家の立場では人質を出して今川の下で生きる以外の選択肢は無い。寄らば大樹の影というしなんだかんだ義元の事も嫌いではない。それにウチの愚息にはしっかりとした教育が必要だと思っていた。
だが雰囲気から察するに元康は人質を出すのを躊躇っているようだ。まぁ普通はそうだよな。
「俺は息子の楠丸を今川に送るつもりです」
俺のその言葉を聞いて元康は苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。
「我が子を…愛おしくは思われないのですか!?」
思ったよりドライな反応の俺に対し酒も入ってか元康は少し感情的になっているように見える。そうしてぐいっと酒をあおった。器を持つ手が震えている。
「親になって分かりました、我が子がどれだけ愛おしいものか、手放したくないものなのか」
元康はこんないかつい面してるのに俺より余程愛情深い奴なのだと感じた。
嫡男の竹千代は今五歳くらいだったか?可愛い盛りで手放したくない気持ちも分かる。
「きっと我が父もこのような気持ちで某を送り出したのだろうと思うと…」
それよりも意外なのは、なんとなく家康は耐え忍ぶの武将ってイメージがあったのだが結構感情の起伏が激しいしなにより家族思いだ。まぁ感情の起伏に関しては酒が入っているからかもしれないが。
「そうしてその苦労を我が子にも強いらざるをえない自らに怒りを覚えます!」
誰に向けるでもない拳が畳に振り下ろされる。
なるほど…自分と同じ苦労をさせるのがしのびないのか。
結構三河武士の中には独立を煽るアホ家臣もいると聞く、もしかしたらそういう連中の耳障りの良い言葉に唆されてつつあるのかもしれない。
ただ俺が人質を出す事に決めた決定打は徳川家康、おまえだぞ。
「ですが俺が息子を今川に質として出す事を決めた理由は松平殿を見てですよ」
「…某が?」
元康は怪訝そうな顔をする。
「松平殿が幼少期に今川で経験された艱難辛苦は筆舌に尽くしがたいでしょう…しかしそれらの教育あってこそ今こんなにも立派になられている。正直それにあやかりたいと思いました」
元康は目を見開いて俺を見ていた。
正直楠丸がこのまま熱田で育ったらアホの子になって熱田神宮潰れるまであるんじゃないかとすら思う。俺もこの時代の心構えとか蛮性とかを含めた常識を教えられる気がしない。なら楠丸は何処かでしっかり教育をつけてもらわないといけない。本当に一体誰に似たんだ。
そうして元康が慌てて謎の弁明をした。
「いやいやいや…あの頃は雪斎殿がおられましたし…」
いや、個人名出されてもわからんが?
「苦労されましたであろう事は理解しております、そして我が子は想像以上に可愛く…手放し難いのも分かります」
ぐぬぬと元康は歯ぎしりをする。
「ですが自分は尾張織田の先兵となって治部大輔様のお命を狙った身、そんな俺の境遇では拒否などとても出来ませぬ」
俺はははと笑う。
「拒否出来ぬ身ですので納得が出来る理由を探した次第です。ですので松平殿のような一廉の男に成る事を祈って送り出すと決めました」
「ただ妻のたあは身重の身ですのでご寛恕いただけますよう願おうと思っております」
元康は相変わらず苦い顔をしてはいるが、その表情はどこか柔らかかった。
本当の歴史だったら元康は強い織田と組んで竹千代を人質に出す事もなく親の元でのびのびと育って徳川幕府の二代将軍になったのだろうか?
信長が死んでしまったのは俺のせいではないが、その代わりになれない事に少し申し訳ない気持ちになった。
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