第八十二話 お姉さま
「うはははははは!くだらん!実にくだらん!!」
義元はその言葉とは裏腹にとても愉快そうに笑った。相変わらずいきなり笑いだすんじゃねぇよ、ホントこええな…
「よし千秋の!儂が許す!この者を娶れ!!」
そして突然の婚姻に顔をしかめるしかなかった…俺の都合とか全く考慮しねーな…もう妻を増やすつもりないし、それが美濃を攻める口実と先兵になるなんて論外も論外なのだが残念な事に俺は義元の手前「否」と言えない立場である。
だが当の帰蝶殿は「まっ!」と目を伏せて顔を赤らめ頬に両手を当てカワイイ仕草をしていた。
あざとい。
そこで空気を読まないというべきか読んだというべきか、おそるおそる佐久間がご隠居様に向かって当然の疑問を投げかけた。
「その…失礼ですが一体貴殿はどなた様でございますか…?」
俺と帰蝶姫との婚姻を突然仲介する筋骨隆々の不審人物、当然の疑問だ。そして残念ながら俺には織田弾正忠家の忠臣に対してその正体を明かす権利を持っていない。正体を知ったら…一応ここは俺の城で兵がいるとはいえ目の前の佐久間と柴田そして別室に控えている十人ばかりの織田弾正忠家の忠臣と敵対し、この場で殺し合う事になるかもしれない。
俺の口からは言えたとしても「越後のちりめん問屋のご隠居様」だ。ご隠居様と近習の二人を見やるが、当然彼らも俺と同様に答える権利を持ち合わせていないので口を噤んでいる。
だがご隠居様はそれに対し躊躇いなく応えた。
「儂が駿河遠江守護、今川義元である!」
佐久間と柴田の目が見開かれ、空気が凍ったのが分かった。
だがその凍った空気をやたらと気安い女の声がぶち壊した。
「しってるわよーそんなことー」
彼女は滝川のおっさんの報告からかご隠居様の正体を知っていたようだ。知っていてこの言いよう…そしてあの狼藉、とんでもない女である。
「お方様!」「それでは…」
そんな彼女の反応に佐久間と柴田が困惑する。目の前の男は彼女の夫の仇なのである。その忠臣に対して彼女は唇を尖らせ宣う。
「いいもん一発入れたから!」
ああ、あの
まぁ痛み分けどころか彼女が一方的にダメージを食らってたようだが。
困惑する佐久間と柴田、その事を思い出し眉を顰める一宮と久野。
小癪なといった風に鼻を鳴らす義元。
ドヤ顔の帰蝶殿。
俺は胃薬が欲しかった。
◇ ◇ ◇
美濃攻め、その口実を作る為にうしお…もとい奇妙丸に母親であるという帰蝶殿と引き会わせる事となった。うしおはよく見ると記憶にあった信長と目元か鼻筋か…何処となく雰囲気が似ていた。
「奇妙丸!」
うしおを抱きしめた彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。九鬼嘉隆から聞いていた奇妙丸を連れてきた女というのは十中八九彼女だ。
桶狭間で信長が死に五万の軍勢が那古野城へ進軍した当時、彼女ら織田弾正忠家がどのような混乱にあったのか想像に難くない。籠城し徹底抗戦を訴えた者もいただろう、生き恥を晒す事に異を唱え煽る莫迦もいただろう。どれだけの艱難辛苦を乗り越えたのかは分からない。だが織田弾正忠家の皆は彼女を中心に今まで逃げ生き延び今日に至ったのだ。
この再会を見て佐久間と柴田両名は拳を震わせている、きっと涙をこらえているのだろう、彼らを見ているとこの再会を認めないわけにはいかなかった。
その彼女は本当に再会を心から喜んでいるのか、そう演じているだけなのか?正直彼女は底が知れない。傾国の女か女狐か…俺を死地に追いやる彼女の権謀術数の中の一コマに対し俺は複雑な想いを抱かずにはいられなかった。
「あなたの母よ」
「母上…さま…?」
うしおは困惑している。物心ついた時にはしずかが母となって懸命に育ててくれていた。だがそれが本当の母でなかったのだとたった今知ってしまった。俺が本当の事を言わずに隠していたのが仇となってしまった、彼の困惑した顔と目に心が痛んだ。
だがそこに意を決し、物言いをつける者が一人。
「うしおは私の子です!」
必死の様子でうしおの袖を引っ張る、お祐殿である。
お祐殿は決して空気の読めない女ではない。むしろ場の機微に聡い女だ。
だが彼女にはうしおが織田信長の遺児である事を伝えていない。そして目の前のご隠居様がただ者ではないとは理解はしていてもそれが父親の主君、今川義元である事も知らないし当然美濃譲り状の事も知らない。
この引き合わせに政治的意図がある事はなんとなく理解はしているのだろうが、何も知らされていないが故の物言いだろう。
突然の見知らぬ女からの母親発言に困惑したうしおもそれなりに信頼を寄せていたであろう、お祐殿にとっさに助けを求めた。
「お、お姉さま!?」
皆の反応はお祐殿へと注がれた。
(((お姉さま?)))
皆の心の声を俺はありありと幻聴する。報告には聞いていたがやはり生の声は少々衝撃であった。明らかに動揺を隠せない者もいる。心の内を表さない女狐だと思っていた帰蝶殿ですら目を見開いてお祐殿をガン見していた。
お祐殿の年齢は…二十七くらいだったはず、対するうしおは七歳。二十ほど歳の離れた姉弟は…いない事もないだろうが…やはり少々違和感が拭えなかった。
だが皆の前で「お姉さま」と呼ばれたお祐殿は顔を赤く染め、目線を逸らしうつむいた。伏せられた長い睫毛、整った容姿の彼女が見せる恥じらう姿、それは儚い一輪の花のようだった。彼女を羞恥に染め上げる悩みの発端となった発言が頭おかしい事を除けば、それはとても可憐な仕草であった。
俺は頭が痛くなってきたがこういう時にどちらが本当の親なのか、子供の手足を引っ張って奪ったものが勝ちとする裁判があった気がする。この時代俺にも裁判権あるみたいだし先人の知識チートでワンチャン賢さアピールしてみるか?などと現実逃避をしていると義元がそっと俺に聞いてきた。
「井伊の娘はそなたと婚姻を交わし、うしおは彼女の義理の息子となったのではないのか?」
流石の義元も困惑の色を隠せていない。
「この城に来た時に彼女は心に決めた殿方がいると釘を刺されております故…」
俺は彼女の気持ちを尊重し手を出してないと伝えるが、それに対して義元は俺を小馬鹿にして言った。
「なんじゃおぬしも大概ヘタレじゃの」
失礼な…こっちにはこっちで都合があるんだよ…
「まぁそれならそれで良い!それならあの狼藉女との婚姻もやぶさかではないな!」
わっはっはと笑う義元。
義元は美濃攻めの口実が手に入ってニッコリ、帰蝶殿は美濃攻めの先兵が手に入ってニッコリ、俺は突然の厄ネタが降ってきてガッカリの一方三両損だ。
俺は頭痛薬が欲しくなった。
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