第六十九話 静香

俺は冷えた水に頭を突っ込み火照った顔と目の奥を十二分に冷ました。焦れた心は多少は冷え、少しは冷静に思考を巡らす事が出来るようになった。

座敷に座り、俺の腕の中には女の赤子が静かな寝息を立てていた。しずかが命を賭けて産んだ娘…俺の娘だ。

今の所俺に似ているのかしずかに似ているのかもわからない…若干猿のような…?奇妙丸と名付けたどこぞのうつけ親父の気持ちもわからんでもない。

だが俺が娘を抱いていつまでも呆けているように見えたのか、傍らでその様子を窺っていた九鬼嘉隆が進言してくれた。


「いつまでも名なしでは不憫じゃ、早いところ名を決めてやれ」


「…そうだな」


俺は娘の名前を思案する。冷静になったといっても頭が冷えて血の巡りが悪いだけなのかもしれない、幾つも候補を考えた…だがどう迷っても俺の頭からは安直な名前が一つ、他を考えようとしてもその名しか浮かんでこなかった。最初から俺の心は決まっていたのかもしれない。


「静香…おまえの名は静香だ」


静香と名付けた娘は相変わらず俺の腕の中ですやすやと、大人しく眠っている。どうか名前に「たがう」元気で姦しい娘に育ってほしい…我ながら妙な願いを込めた名付けだ。

元康が息子に自分の幼名と同じ名前をつけたのを笑えない安直さに我が事ながら呆れてしまった。


「旦那様失礼致します」

「うしお様をお連れいたしました」


ふすまの向こうから侍女のさやの声が聞こえた。うしおを連れてきてくれたようだ。

しずかに振り回されかわいがりという名のしごきを一身に受けてきたうしおだったが、いつのまにかうしおは大きくなった。もう六つになるのだったか、体格は良くないがその目はいつのまにか知性の光を宿していた。


「この子には静香と名付けた…お前の妹だ、大切にしてやってくれ」


「はい」


素直に頷くうしお、そして俺から目を逸らさずに質問を投げかけてきた。


「ちちうえ、おききしてもよろしいですか」


うしおが俺に質問するとは珍しい。とはいえ俺は羽豆崎は留守がちだったからしずかやさやが答えていてくれていたのかもしれない。だがうしおが俺を見つめる瞳に少しの戸惑いを感じた。


「ああ、どうしたうしお」


うしおはいつになくしっかりと俺の目を見て座っていた。その幼いながらも強い意志を感じる瞳に、俺は真摯に答えないといけないと感じた。


「ちちうえは…どうしてははうえのそばにいてあげられなかったのですか」


うしおの言葉に俺はつい表情を強張らせ息が詰まった。

瞬間部屋に乾いた音が響いた、うしおの頬が叩かれた音だ。叩いたのは侍女のさやだった。


「若!!しずか様はそんな事を望んではおられません!!」


側仕えの者が立ち上がったがそれを手で制した。そしてさやはその場で俺に向かって平身低頭した。


「ご無礼を働き申し訳ございません旦那様、罰はいかようにも」


「良い」


嫡男の頬を叩くという彼女の行動は俺を思っての行動なのは明白だった。

だがそれよりも見るべきはうしおだった。

頬を叩かれたうしおはさやの事など歯牙にもかけていなかった。彼はさやに叩かれてなお大きな瞳で俺を見据えていた。そしてその瞳は俺を責めるものではなく戦国の武将としての答えを求めていた。彼は俺を責めているのではなくこの戦国の世においての心構えを求めている。この時代を生きる先達として半端ながらもその心意気を彼に示さないといけないと感じた。


「…同胞が命を懸けて戦う背中を裏切らないと示さないといけない。戦場で逃げる者を誰も信用しない」

「…愛する者を失っても…それでも羽豆崎の皆を…お前を失う訳にはいかない」


そんなに偉そうに語れる話ではない。松平元康に、今川義元に、井伊直盛に、お祐殿に…数多の味方の目があってその目が怖く逃げる事が出来なかっただけだ。羽豆崎を守りたいなんて言い訳だ。ああクソ…なんて綺麗事ウソだ…自分で言って自己嫌悪に苛まれる。だがそんな苦しい嘘に満ちた答えを聞いてうしおは言った。


「きびしいごけつだんだったのですね」


こんな年端もいかない子供に同情されてしまった。


「愛した女、一人守れなかった父を軽蔑するか?」


そんな彼の真摯な目に耐えられずつい本音が漏れた。


「いいえ」

「ぼうはちちうえよりたくさんのひとをまもりたいとおもいます」


思わず眉間に皺が寄った、これが信長の血を継いだ子か…そうだ、お前は俺のような歴史に残らない小物などより、これから一層混迷するであろう戦国の世にあって大きく羽ばたいてもっともっと沢山の人を守る傑物になってくれ。


◇ ◇ ◇


明るい昼間の喧噪の下だと悲しむ気持ちも紛れた、だが二月の短い陽は足早に沈んでいく。陽が傾き室内が昏くなるとどうにも気持ちまで沈んでしまった。正直酒に逃げたくなる気持ちも解かろうものだ。

寝るにもまだ早いそんな刻に秀さんとねねさん夫妻が俺を訪ねてやってきた。


「二人でこんな時間に来るとは珍しいな」


「ああ、どうしても殿に伝えなければならないときかんでな…」


秀さんはしずかの死を聞いたからかきまりが悪そうだった。だがねねさんが強く俺との面会を求めたらしい。彼らは俺の義理の息子とその嫁だ、そう遠慮する必要はないのだが少し一人にして欲しい気持ちと一人だと気持ちが沈み過ぎるので少し話しをして気を紛らわす相手が欲しい、そんな葛藤を抱きつつ彼女と相対してしまった。

そしてねねさんの口から衝撃の言葉が飛び出した。


「私が…しずか様を殺しました」


一瞬、言葉の意味が分からず息を飲んだ。秀さんは驚きで目を丸くしてねねさんを凝視している。彼女は独白を続けた。


「子を授かり幸せそうな彼女の笑顔を見て…日々健やかに大きくなるおなかを見て…私はしずか様が羨ましくて羨ましくて…妬ましくて妬ましくて…気が付いたら彼女を心の中で呪ってしまっておりました…」


俺と秀さんは彼女の悔悟の気持ちに今更ながら気が付いた。


「彼女が死んでしまったのは私のせいです…私が彼女を呪ってしまったせいなのです…」


彼女は涙声でなんとか言い切ると、声にならない嗚咽を上げて泣き崩れた。

…どれくらい泣いたであろうか、彼女が泣き疲れた所で俺は彼女に声をかける。


「ねね殿」


俺の声にねねは反応し、ゆっくりと顔を上げた。その顔にはいつもの利発で聡明な彼女では無く、悔恨と自責を湛え涙に塗れた幽鬼のようであった。

彼女はしずかと一緒に石女疑惑をかけられている空気を共にして仲間意識を育んでいたのかもしれない、しずかが妊娠したと知って裏切られたと感じたのだろう。妬む気持ちも解かる。そしてしずかが亡くなって一月、その間ずっと彼女は自分を責め続けていたのだろう。

俺はそんな彼女に対して言い聞かせるようにしっかりと言葉を紡いだ。


「俺は熱田の大宮司だ。専門家として言わせてもらおう」


俺は自分の権威を過剰に誇示しつつ言葉を続ける。


「呪いで人は死なん」

「賢いお前なら分かるだろう」


さも当然のように彼女の世迷言を切って捨てた。


「で、ですが…私は」


彼女は未だ良心の呵責に苛まれている。今呪いを全否定したが呪いは少なからずある。呪いの言葉を口にすると聞いた者を程度の差こそあれ縛る。だから彼女が自らを縛り、呪う言葉を吐く前に俺が言葉を割り込ませた。


「間違いない事がある」


そして彼女の目が俺の目に焦点が合うのを待って言い聞かせる。


「しずかは絶対に…お前の事を恨んでなどいない」


彼女はその言葉を聞くと顔を歪め、また目から大粒の涙をぽろぽろと落とし、嗚咽を漏らした。


「秀吉!」


不意にいつもの「秀さん」ではなく改名した名前を呼ばれた秀さんは畏まった。


「はっ!!」


「暫く村の仕事はしなくて良い、彼女の側についてやれ」


「は…?し、しかしそれでは…」


責任感が強くワーカーホリック気味の秀さんの脳内の予定表は戦後処理でびっしり埋まっていたのだと思う。ただこの戦が終わったら彼には少し休んで欲しい気持ちもあった。


「お前がいなくて困るのは分かっている、だが今は大切な者の側についてやれ………俺には…出来ない事だ」


「…は、ははーー!」


秀さんは平身低頭して俺の命令を受け入れてくれた。

格好良く決めたつもりだったが最後は少し涙声になってしまった。

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