第六十八話 二月の伊勢の海風
那古野での戦が終わり本当ならこの勢いで犬山城を攻めたい所だったがありあわせの混成軍のこちらにはそんな余裕はない。
織田信清も死に、暫くは兵を纏めることも出来ないだろう。これを機に和議への動きを見せてくるのならそれに応じたい所だ。
「今回の戦では五百もの兵を動かして頂き本当に助かりました」
俺は今回の戦で大いに助けてくれた
「なんの、那古野を治めるのは治部大輔様の御心にも叶いましょう、私は治部大輔様の意を慮っただけに御座います」
そしてそっと小声で俺に聞こえるように話す。
(千秋殿…澄酒の件、頼みましたぞ!)
大変ちゃっかりしている。正直何の利もなく義によって馳せ参じた!なんて言われたらそっちの方が怪しい。俺に払える精一杯である心からの澄酒を横流しすることをお約束した。
「お祐殿も感謝する、井伊の兵は勇壮で良く戦ってくれた」
対一向一揆の最中、俺は味方を鼓舞する程度でほとんどお飾りのようではあったが、ある程度まとまった兵を揃えるというだけで松平元康に良いカッコが出来た。この時代カッコつけ本当に大事なのだ、武士は食わねど高楊枝の精神である。
「あら、身内に兵を融通するのは当然の事ですわ」
そう言ってころころと笑った。武者鎧を着込んで飛び出してきた時は驚いたが、この姫は元康の奥さんで駿河一の美人とも謳われた瀬名姫とも縁戚とあって絵になる女だ。
だがそんな彼女からのまさかの身内判定…俺の立ち位置がよくわからん…なんとなく怖いので聞けないが…
聞けない事をいくら悩んでも仕方がないので俺はこの三ヶ月世話になった外池にも声をかける。
「外池、お前がいなかったら皆を纏める事は出来なかった、お前とお前についてきてくれた皆にも礼を言う」
「勿体無いお言葉です!」
外池にも都合三ヶ月も引っ張り回した事を感謝する。コイツとはなんだかんだ同じ釜の飯を食って大分打ち解けた、もちろん立場は違うしお互い不満がなかった訳ではないが、平時なら下ネタを言い合える程度には仲を深められた。彼の働きもあってお祐殿にお借りした井伊の兵も怪我人こそ出たものの死者は出さずに返す事ができたのだ。
なんだかんだ濃い三ヶ月だった。
そして俺もこれを機に自前の兵を確保するよう努力しよう。
◇ ◇ ◇
俺と秀さん、そして二十数名の兵を率いて勝利の凱旋とばかりに意気揚々と一路羽豆崎へと戻る。だが村の空気はどうにも重かった。
館の前では九鬼嘉隆が厳めしい顔をして俺を待ち構えていた。これは流石に鈍な俺でも何事かあったのであろう事に気付く。
え…俺また何かやらかしちゃいました…?
秀さんはねねさんに捕まって引きずられていった。そういえば秀さんには言っていなかったがこの戦が終わったら休みをやらないといけないと思ったな…
「九鬼の、何かあったのか?」
俺の問いに対していつもは口数も声も大きい九鬼嘉隆は何も言わない。正直沈黙されるとそれだけで怖い…俺ホント何をやらかしたんだろ?
嘉隆に先導され連れていかれたのは屋敷の中ではなく庭…を通り過ぎ伊勢の海が一望できる小高い丘。
「ワシが千秋殿に伝令を止めた」
伊勢の海を見渡せる丘の上には小さな、小さな石の碑があった。
「ねね殿にもこの事を伏せるようと言い含めた」
寒空の下、冷たい二月の海風が吹き荒ぶ。
「一月の七日に産気付きこのままでは母子共に命が危険と判断し腹を裂いて子を取り出した」
思わず眉間に皺が寄り表情が強張った、続くであろう言葉に耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。
「幸い子は無事に産声を上げ、その子を抱いて暫くは意識があったが…眠るように意識を手放し、翌日…息を引き取った」
この小さな石の下、彼女は眠っていた。
「千秋殿に戦の最中に訃報を届け、気持ちが散漫になり怪我をしたり、万が一に戦から戻って来るなどとあっては羽豆崎に住まう我等九鬼の者の立場も悪くなると踏みこの事を隠した次第だ」
嘉隆なりの…そう、正しい判断だった。
「全てワシの身の保身じゃ…責はワシが受ける」
その、保身とやらが無く、しずかの身の一大事と知れば俺はどうした?言った通り俺は三河の一向一揆との戦の最中でも羽豆崎に引き返したかもしれない。松平元康はそれをどう思うだろうか?更に那古野は織田信清に攻められ信清の手に落ち、お祐殿は死んでいたかもしれない。俺と共に来た外池と兵は俺を恨んだろうし、井伊のおっさんは怒り恨まれただろう。そして義元からは城より女を選んだ屑と烙印を押され、俺は落城の責を問われ首を切られたかもしれない。
そして仮に俺が急いで会いに戻ったところで何が出来た?急報を聞きつけ全力で此処に戻ってきても彼女は葬られた後だったかもしれない。
冷静に考えれば解かる、分かるのだ、俺には何も出来ずどうせ涙するだけだ、彼の賢明な判断のお陰で全ては綺麗に収まったと判る。
言葉も理屈も頭では完全に理解している、嘉隆は悪くない、だが心の奥底から後悔ばかり湧いて出る、慙愧の念に堪えない、ついこの男に対して罵詈雑言が、呪いの言葉が口を突いて出てしまいそうになる、呪詛が喉奥から溢れそうになる、狂おしい、悩ましい、歯の根が合わない、誰か、誰でもいい、この悪意を誰かにぶつけてまき散らしたい、歯が鳴る、それが漏れ出そうになるのを必死になって堪える、留める、汚物のような黒い、ドス黒い悪感情の塊を飲み下す。
震える手で俺は嘉隆の襟首に手をかける。
微動だにしない嘉隆の体を力なく振り、震える喉からは声にならない声と声にしてはならない言葉が混じり混濁し嗚咽が漏れ、そうしてどうにか一つの言葉を紡いだ。
「あり…ありがとう……」
もっと言うべき事がある、だが今は目の奥から喉の奥から鼻の奥から、あらゆる感情が零れて漏れ出て溢れ出し、これ以上言葉を紡げなかった。俺は小さな墓にかじりついて泣いた、哭いた。
嗚呼、あの時彼女はなんと言っていたか…
「すえただ…おまえ弱いんだし…逃げていいから…」
「無事に…生きて帰ってきて」
それはしずかが俺の身を案じてくれた言葉だった。
彼女は「生きて帰ってきて」と戦場で俺の身の上を案じてくれたのに…それに対して俺は彼女に何と返しただろう…
「ああ……俺が弱い事は重々承知だ。お前は丈夫な子を産んでくれ」
そう…そうだ、俺は「丈夫な子を産んでくれ」と返した。あの時俺は彼女の身の心配していたはずなのに、この時代のお産が命を懸けた危険なものであると分かっていたはずなのに、少し幼さの残る彼女の身にどれほどの負担であったか、そんな彼女に俺がかけた言葉は彼女の身を案じる言葉ではなかった、彼女はその言葉で俺の言葉で無理をして命を落としたのではないだろうか、彼女の身さえ彼女の命さえ無事であったならば俺は…
呪いの感情が心の中で再び渦巻くのが分かる、こんなものを誰にぶつけていいはずはない、何の解決もしない、ましてや何の罪もない、しずかがその身を賭して文字通り命を懸けて産んだ我が子にその呪いが向こうとしている事に気が付き、ああ最悪、最低だ、俺は…本当に…どうしようもないクソッたれだ!!
俺は泣いた、ただ泣いた。それを見ているのは九鬼嘉隆と小さな墓だけ。
二月の海風に晒され冷え切った小さな石の墓は、あの時伊勢の海から抱え上げた彼女の冷たい体を想い起こさせた。
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