第四十四話 たあの獣性
鳴海に競馬場を建ててから俺は馬で数時間の熱田に足を運ぶことが多くなった。
熱田で待つ妻、たあのお腹は大きくなっていた。
最初の子、楠丸の時は桶狭間で負け、諸国で現実逃避をしていたので彼女が妊娠しているのを見るのは初めてだ。
楠丸はもう二歳になる。不甲斐ない父ちゃんでホントごめんな。
たかいたかいをするとキャッキャと喜ぶ。その喜び方はうしおとはまた違う愛おしさを感じる。
うしおは「もっと!もっと!」と俺の筋肉と体力を限界を要求してくる。
それに比べると楠丸はほどほどの所で腕の中に治まり、頭を撫でると満足気にニッコリと笑ってくれる。その笑顔に俺は心と二の腕が嬉しくなる。
偏に個性なのだろう、体力おばけのうしおはきっと強い戦国武将になる。
ふと将来の徳川家康である元康の息子の二代将軍、竹千代と同い年であった事を思い出す。徳川に縁を持つ為にも小姓に出した方が良いのかとも思ったが、考えたら俺は松平の家臣ではない。
頭を振って武家に染まった考えを消す、この子は熱田神宮を立派に継いで貰わねばならないのだ。
「季忠様はまだしずか姫にお手を出していらっしゃらないのですか?」
そんな親子の団欒にたあから思いもよらぬ質問を投げかけられた。
あの時はたあの気持ちをなだめる為と、しずかの体を慮ってという事を話したが、同時にこれは俺と彼女だけ共有している秘密でもある。
たあも二人目を妊娠し、しずかに対して余裕があるのかもしれない。
その答えは俺の心の内だけに留めておけば誰も傷つけない、外に漏らすかどうか少し迷ったが、その秘密を知っている彼女にだけは話す事にした。
「…まだだ。」
その言葉を真実か見極めるようにたあは俺の目を覗き込んでくる。彼女の黒い大きな瞳はこちらの心の中までを見透かさんとし…一拍おいて彼女は驚いたといった風に言葉を発した。
「…本当に手を出していらっしゃらないのですね」
なんだろうこの超能力は…?多分結構ガチで超能力的なサムシングを持ってる気がする。今更ながら俺は彼女には隠すことはあっても嘘はつかないと心に決めた。怖いので。
「羽豆崎にお住まいになられてそろそろ二年になりますよね?」
「?…そうだな」
なんだろう?たあはしずかに対して何かを言いたそうな雰囲気だ。
いや、俺に対してか?
「…しずかの事を気遣ってくれるのか?」
彼女は俺を見遣り…少し黙考した後に口を開いた。
「彼女の事を心配してくれる方はいらっしゃいますの?」
しずかの事を心配してくれる者…わりといるとは思う、兄の九鬼嘉隆だって心配してくれるだろうし千賀のオヤジだって心配してくれるだろう。だが俺は俺の事を汚物を見るような目で見る侍女さやの顔を思い浮かべていた。
「…俺には酷く当たりが悪いのがいるな」
「ならその方に聞かれるのがよろしいかと」
どうやら彼女の口からは教えて貰えないらしい。しずかの事を心配してくれる人なら分かっているであろうという問題を彼女は俺に伝えない事にしたようだ。
たあはしずかの事を嫌っていると思っていたがどうにも女心は複雑だ。わからん。
「俺がしずかに手を出していないのがそんなに意外か?」
そんな俺の疑問に彼女は笑顔で返してきた。
「もう少し女性に対して奔放な方だと思っておりました」
微妙に怖い笑顔だったがそれは少し前のなんだかヤバそうな笑顔よりも気持ち自然な笑顔になっていた。
随分と酷い言い草だが
たあは浅井の家から嫁いで来た。浅井の家が神宮の千秋家と縁を持つ意味は大きい。
だが彼女が嫁いで来てからも
悪い事をした…いや俺は全く悪くないが。
結婚した後も
たあも途方に暮れたろう…だが千秋の家の跡継ぎである楠丸が無事に産まれる。
これで浅井の家と神宮の縁はしっかりと結ばれる事になったのだ。
だがそんな折に俺がしずかを連れて戻ってきた。
俺にも色々事情があったったとはいえ、あの時の彼女の心の内を慮るにきっと大嵐のようだったのではないだろうか。
「俺はお前だけ…と言えるほど偉くない、弱い男だ」
腕に楠丸を抱いて呟く。
俺は己の意地を貫く事も見捨てる事も出来ない、荒波にもまれるばかりの弱い男だ。
そっと静かに彼女のお腹を掌で触れると新しい命が宿っているのを感じる。男の子なのか女の子なのか分からない、だがこの戦乱の世に生れ落ちる新たな試される命を感じた。
「たあには本当に苦労ばかりかけている…熱田を守り、楠丸を慈しむお前には感謝しかない」
なんだかんだ
そんな俺を見限らず実家にも帰らず熱田でこの子を育ててくれている事に感謝する。
「お前の事は…本当に大切に想っている」
俺は彼女の手を取り身勝手だが感謝をした。
たあは俺から意外な言葉をかけられた事に驚いたのか目を見開いた後、目線を俺から外し顔を朱に染めた。
熱田小町と呼ばれたたあは今も美しい。
おなかが大きくなっていなければきっと今晩は大変だったかもしれない。
…というかいつのまにかたあの顔は上気し息は荒く、目には赫々とした獣性が宿っているように見えた。
「
彼女の声は思いつめたような期待に満ちているような、だが確かに悦びを声色を滲ませている。
え、ちょっとまって?これはやばい何をどうするつもりだ、たあ、落ち着け。
ふと二人の間で微睡んでいる楠丸の頭をこれみよがしに優しく撫でるとたあの目から爛々とした獣性が消え、その瞳には母性の輝きが浮かんだ。
…危ない所だった。
慈愛に満ちた彼女の指先が楠丸を愛おしそうに撫でる。すうすうと優しい寝息を立てる楠丸を盾に俺達は川の字になり眠った。
◇ ◇ ◇
夢へと落ちる刹那、ふとたあがしずかを気遣う原因に気付いたような気がしたが、そのまま夢の中に落ち
忘れた。
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