第四十話 義元の桶狭間

競馬場の喧噪を離れる。

午後の部も盛況で義元を連れ貴賓口から街道へ抜ける。

会場ではまだ現在進行形で蛮族モンキー共が暴れており、絶賛大盛況中だ。残念な事に無事終了とは言い難い様相だ。

一般席の警備員が蛮族モンキー共に襲われ悲鳴を上げている。義元を送り出せば貴賓席の警備員も投入できるので義元には早々に退散してもらおうという腹積もりだ。

そういうわけで俺は哀れな警備員を助ける為にこのオッサン共を駿府か鳴海宿に追い出すよう颯爽と義元をエスコートした。


俺と秀さんは街道に出て虚無僧に扮した義元と従者についていく。こちらからあっちへこっちへと指示などは出来ない。だが義元の足の向く方向になんとなく意図を感じてしまった。あー…そっち行くのね…


「はっはっは、分かっておるようだな、早速案内せい!」


目的地を察した俺に気を良くしたのか義元が早くと促してくる。


「…はい…」


第六天魔王神社の存在までも義元には筒抜けだったようだ。

俺は観念して信長を祀った場所、桶狭間へエスコートを開始する。


だが前向きに考えるなら義元に刃を向けた者への弔いを義元自身から許されたとも言える。それならこの小さな社をもっとしっかりとしたものにしても良いかもしれない。


「なるほど、雨で分かり辛かったが…こうなっておったか…」


桶狭間の頂きから景色を見た義元が唸る。何か問題でもあったか?



「では大宮司殿、しっかり頼むぞ!」


第六天魔王神社の境内でばむばむと俺の背中を叩いて祝詞の催促をする。

いてぇって!


咳ばらいを一つ、気を取り直し厳かに祝詞を上げる。

なんだかんだ義元は神妙に信長の御霊を弔ってくれているようだ。お付きの一宮殿と久野殿も義元に倣い神妙に祈ってくれている。

義元はともかくお付きの方からすれば主君の命を脅かした『うつけ殿』だ、複雑な気持ちもあるだろうに。

だがこれで勝手に信長を祀った俺への咎めはないと確信する。俺は我が身の保身にうっかり成功した事を心の中で喜んだ。



義元は信長の冥福をしっかりと祈ってくれた。

それとも義元にとってはこの程度の命のやり取りは日常茶飯事で信長の殺意など些事だったのだろうか?

もしそうなら、信長の冥福を祈るのは勝者の余裕のあらわれ…か。


「はっはっは!流石は大宮司殿、サマになっておったぞ!」


一通りの弔いを終え簡易の椅子に座り義元が陽気に笑う。

このオッサン富くじの神事に参加して俺が祝詞を唱えているのを見るのは初めてでもないのにテンション高ぇな…

俺は竹筒に入れて持ってきた茶を義元らに献上する。

喉が渇いたので毒見役は俺と秀さんだ。結局皆で竹筒一本の茶を仲良く嗜む。


一月の寒空の下、鳴海の喧噪は遠く凄惨な戦はもっと遠く…此処桶狭間は静寂が支配していた。


「うつけ殿…か」


茶を飲み、喉を潤した義元が小さな神社を眺めふふっと笑う。

秀さんは地面に座り視線は地に落としている、その表情は固い。

そして胸の内を吐露するように義元は重々しくつぶやいた。


「とんでもない…傑物よ」


その言葉にそれぞれの反応を示した。俺と秀さんは驚きを、お付きの二人は疑問のようなものを感じたようだった。

お付きの彼らにとっては既に下した一人の将でしかないのだろう、二人は口にこそ出さないが義元の表情を精察し、次の言葉を待っているようだった。

義元は二人の視線を流し、言葉を続けた。


「…あの時、儂はまさにこの場所で雨をやり過ごそうと陣を敷いた。山と山に挟まれた細い道では大軍の利が全く生かせぬ。雨で視界も悪く足元はぬかるみ下手に進むは愚策と陣を固め奴の奇襲を警戒した」


「奴からすれば大軍の兵を自由に動かせず、しかもその戦力は分断され好機としか見えぬこの状況。だが理屈では分かっておっても彼我の戦力差を考えたなら四万の軍の中心に突貫など出来ぬものよ」


「だが奴は儂の居場所を正確に…此処に陣を敷くことを予め予想しておったのか、乾坤一擲とばかりに本陣に一直線に攻め入ってきおった」


「天は奴に味方したかのように雷雨、高台からは周りを見通せぬばかりか敵の数も味方の位置も分からぬ、雨壁の向こうから微かに聞こえる声が敵か味方すらも分からぬ有様であった」


「だがその雨壁の中にあっても奴は絶対にこの隙を逃す男ではないと半ば確信を持っておった」


「孤立しているとすら錯覚するその雨の壁の向こうから…やはり奴は来た」


「一番槍と名乗りを上げた男は…服部の…小平太と言ったか…」


…小平太


「突かれたその槍は儂の胸元を一直線に狙っておった、恐ろしい必滅の殺意を込めた鋭い突きであった」


「刹那、その槍筋が見えた…走馬灯というものかもしれん。必死でその槍先を切って落とした、しかしその隙を逃さぬとばかりに横から飛び込んできた者がおった、だが儂はそれを一刀の下に斬り伏せた」


「儂はその者の血を浴びた、目に入ったのは雨か返り血か…痛む目を見開き服部とやらの一挙手一投足を逃さぬよう見据えた。稲光が走り視界は白くなり轟く雷鳴に地は揺れ、恐れと高揚から足は震え歯の根も合わぬ…我ながらまこと無様な有様であった…」


「服部某との睨み合いはどれほどだったか、儂の運命もここまでかと弱い気持ちが浮かんだ。家督は既に氏真に譲っており儂が死んでも今川は安泰であろう…と」


「だが瞬きの間に幾度も幾度も考えを巡らせた。氏真が儂の弔い合戦を仕掛けて織田のうつけに勝てるものか?幾度となく思いを巡らした。氏真では奴に絶対に勝てぬ…そう思うに至り死ねなくなった。引けた腰に自由にならぬ足、それらに喝を入れ己を奮い立たせた」


「まだ死なぬ、裂帛の気合で服部某を見据えた」


「瞬きの間の逡巡、ただただ必死であった…これほどまでに死を間近に感じた事は齢四十になるまで無かった」


「その時雨音も雷鳴も、目の前の服部某すらも消えていた。その後ろに在る奴の…傑物の気配を感じ、この手で断つべく前へ進んだ」


「儂の剣は裂帛の気合を込め大男を斬ろうとしたにも関わらず足に力が入らず空を切った、だが大男は足を縺れさせ倒れ転げ落ちた」


「儂は周りを鼓舞した、「儂は健在である、儂の命を狙った織田のうつけを討ち取れ!」…そう叫んだ」


「総崩れになった織田の兵共を幾人か討ち取り、そこに辿り着いた。」


「奴は既に数多の槍を体に受け死に体であった。だがその眼には恐怖の色など微塵もなく、その瞳は儂をただ見据えておった…そして最後には口元に笑みまで零して見せた」


「数多の兵に囲まれ一段上から睥睨する儂と、それを見上げている筈の男。見上げている筈なのにその堂々たる王者の風格すら漂う佇まい…かたや儂は見下ろしている足は震え腰は引け満身創痍…どちらが真に格上であるか…その場にいた者の中には感じた者もいたやもしれぬ」


「これこそ乱世の雄となる器…儂はこの傑物ともっと…もっと語りたいと願った」



「織田上総介信長…討ち取ったり!!」



「…だがその願いは永遠に叶わぬ」


「戦場に響く勝鬨の声が一帯に轟いた、儂は安堵より痛惜の念に駆られていた…その熱狂の中で儂の胸中は穏やかならざる虚しさが支配しておった…皆の働きに報いなければならぬ時になんとも不実な事よ…」


そう言うと義元は神社を見遣り、そっと瞼を閉じた。


戦場には…それぞれの真実があった。

俺はただ深く、地面に頭をこすりつける程に低頭し、ただただこの巨人を敬う事しか出来なかった。

気がつくと秀さんも俺と同様に平伏低頭していた、その肩は震えており嗚咽を堪え涙しているようだった。


桶狭間に一陣の風が吹く。



いつのまにか、一羽の白鷺がこちらを窺うかのように佇んでいた。

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