第三十五話 伊勢の便りと澄酒

伊勢神宮の式年遷宮を来年の九月にやる事に相成ったと久志本常興さんから便りがあった。


一二〇年ぶりの式年遷宮という大事業は富くじの収入だけで出来るものではない。

各国の守護代に助力を求めたり偉い尼さん?が朝廷に強く働きかけたりと皆が各方面に協力を求め続けた長年の努力が実ったのだ。


これはめでたいと早速伊勢へ向かう。


式年遷宮の折に澄酒を神宮に奉納したいと考えていた。

中山屋さんには期限を決めての研究をさせるつもりは無かったので、そういう俺の希望は伝えてはいなかったが、これを機に澄酒の進捗を確認しておきたい。

もちろん間に合わないのなら仕方がないが、毎月のように送られてくる酒かすを見るに意欲的に研究をして一定以上は成果が出ているであろうというのは伝わってきていた。

こちらとしては好評な鯨ベーコンの風味付けに利用するのでいくらあっても足りないので大変に助かっているのだが、やはり澄酒そのものの出来も気になる。

正直酒かすの出来を見るからにもう出来ていて販売をしていてもおかしくないとは思うのだが、それならもう少し話題になっている筈だ。


なんにしても楽しみだ、俺はウッキウキで九鬼の船に揺られ伊勢へ上陸し一路中山屋さんへと足早に向かった。



「これはこれは、先ぶれでも出して頂ければお迎えに上がりましたものを」


店主の中山永吉さん自ら突然来訪した俺を温かく出迎えてくれた。

いや、そんな偉くないから俺。


「すまない、神宮で式年遷宮をすると聞いて居ても立ってもいられなくなってな」


「それはもう、町でも皆その話でもちきりでございます」


やはり伊勢の式年遷宮は伊勢の皆に相当望まれていたようだ、ここに来る道中道行く人の顔も何処か明るかった。


永吉さんに澄酒を作っている酒蔵を覗かせて貰う。


「いつも良い酒かすを融通して貰って助かっている」


「いえいえ、こちらこそ今は千秋様に卸す酒かすが中山屋の命脈のようなものでして」


…何言ってんの?澄酒でウハウハでしょ?

なんだか要領を得ない事を聞いた気がするが、研究が思ったより難航していて思うように進まず商品になっていないのかもしれない。

澄酒を作ってくれと言ったのは自分である手前、もしそうなら迷惑を掛けている事になる。

大丈夫か?なんかフォローした方がいいか?


そんな事を考えつつ酒蔵に入るとそこには酒を仕込んだ樽が並ぶが…前来た時より樽が気持ち少なくなってる?

え…本当に大丈夫か?


永吉さんに案内され一つの樽の前に立ちその蓋を開ける。

蓋を開けると贅沢な香りが俺をいっぱいに包み込む、豊かで深いふんわりとした日本酒独特の香りが俺の鼻孔を刺激する。

辺りに漂う濃密な幸福の香り、それを逃すまいと大きく胸の奥まで吸い込む。

俺の知っている懐かしい令和の酒の香りだ。


そして蓋を開けた樽にはなみなみと薄い琥珀色の澄んだ酒があった。

俺が最初にいたずらに作った赤い酒とは全くの別種、別物。芸術的とすら感じる澄酒だった。


「おぉぉ…」


思わず、本当に意図せずにただ驚嘆の声が漏れた。


「仕込んで研究を重ねれば重ねる程澄んだ水のようになっていくので試行錯誤しがいがございます」


永吉さんが嬉しそうに笑い、ひしゃくで一杯掬い升によそう。

升に注がれた美しい薄琥珀色の澄酒を一口、口に含む。

舌あたりがよく、にごり酒とは違った日本酒の辛みがある。

何処か果実酒を彷彿とさせる甘さもあり、だが決して違う事のない芳醇な米ならではの深い味わい…それを嚥下する。

胃に落ちた酒が体を熱くさせる、美味い…!

俺の知っている日本酒だ!

よくぞ…よこぞここまで…この域まで作り込んだものだ…

感心どころではない、感動すら覚える。


「永吉さん…」


俺は久々に腹に落とした強く美味い酒に脳を揺らされる感覚を覚え、満足気に永吉さんに顔を向ける。


「はい、あと二年もあれば満足な澄酒が出来そうでございます!」


永吉さんは嬉しそうに応えた。


……あと二年…?

何言ってんの?


「いや…もう出来てますよね?」


「いえ、まだ試行錯誤の最中です」


「いやいや何を仰る、もう充分に素晴らしく美味しいお酒じゃないですか」


「まだこれでウチの名前で市場に出すにはちょっと難しく…」


「……じゃあこれどうするんです?」


「これらは失敗作ですから酢にしております」


何処か満足気な顔で永吉さんが語る、武士道精神ならぬ酒蔵道精神とでも言うのだろうか。

そんなドヤ顔の永吉さんを真正面に俺はとてつもなく知能指数の低い表情で永吉さんを見据えている。


「いやもうコレ完成してんだろおおおおお!!!!」


俺は酒蔵で叫ぶ。


「出来てねぇつってんだろおがぁあぁぁぁぁ!!!!」


対して永吉さんも叫んだ。


「酒の一滴血の一滴言ってたのはなんなんだあああああ!!!!」


「だからこちとら涙を呑んで酢にして卸してるんじゃるがいいいいいい!!!!」


叫ぶ俺達を番頭さんが体で割って入り静止させる。

二人息を整え少しの間をおく、クールだ、冷静になれ。

そうして番頭さんを交え三人で話をした。


「………それで、この失敗作を酒としては売っておらず酢にして安く買い叩かれている…と?」


「はい…」


番頭さんが困り顔で頷く。

なんでも永吉さんは澄酒の開発に入れ込み掛かりきりで中山屋さん自体の経営状態が相当悪くなっているそうだ。

廃業も視野に入っていると言って番頭さんは頭を抱えていた。

そんな番頭さんの話を不機嫌そうに永吉さんは聞いている。

何やってんのマジで。


とりあえずこの試作品の澄酒は熱田でまとめて定価で『引き取る』事で落ち着いた。


「毎度…毎度ありあとうございます!」


番頭さんからは涙を流して喜ばれたが永吉さんは納得いかない様子だった。

未完成品を市場に卸すのを嫌がる気持ちは分からなくもない。

この求道者ともいえる研究者の永吉さんだからここまでの酒が出来たのは間違い無いのだが、今日俺が中山屋さんに立ち寄らなかったら店が潰れていたかもしれない。


「式年遷宮の…」


「お断りします!」


「いやさぁ…一二〇年ぶりの式年遷宮なんだから…」


「断固としてお断りします!」


来年の式年遷宮には中山屋さんの名前で出せないとそこだけは頑として譲らず熱田神宮の名義で澄酒を寄贈する事となった。

まぁ熱田神宮で酒なんて作ってないのだ、すぐに付き合いのある中山屋さんのものだとバレるだろう。


◇ ◇ ◇


「…本当に美味いなこれ」


帰りの舟の上で澄酒を味見をする、つまみが欲しくなる。

冷静に考えれば良い土産が手に入った、とりあえずは秘酒として世話になっている連中に贈ろう。

今川と松平と北畠と久志本さんと…熱田の親父殿に九鬼に…ああそうだ会った事は無いが今川大帝国尾張出張所、那古野城を守っているという井伊直盛いいなおもり、それに千賀のオヤジに秀さんねねさん…気付くと世話になっている人が多くなっている事に我ながら驚く。


この時代で生きて二年。

成功者の代名詞、戦国の覇王織田信長の腰巾着になってなんかちょっと未来知識とかひけらかしたりして勝ち組人生を謳歌したかったが、そんな未来は望むべくもない。

最初…そう、桶狭間の戦いで俺が少し無理をして機転を利かせ信長を勝利に導ければ可能性があったかもしれない。

桶狭間を冷静にシュミレートする。どうやれば信長が勝てたか、自分はどんな行動をすれば良かったか…豪雨の中、涙と鼻水うんこまみれで全力で逃げた俺が一体何をすれば…


「うん、ムリゲーだわ」


所詮俺は令和の小心者の一般人、戦国時代の知識は乏しく曖昧、未来を見通す器量もない。

そんな無い無い尽くしの俺を支えてくれる人がこんなにいてくれる事に感謝する。


「今後は…家康の腰巾着にでもなっておけば安泰か…?」


穏やかな海、青い伊勢湾の空に向かってつぶやく。

徳川幕府…それとも今川幕府になるのだろうか?そもそも足利幕府が存在している。

戦国時代にも倒幕運動や大政奉還があったのだろうか…何処か未来に詳しい人でもいないものか。

千の無い事をない頭で考えつつ俺は舟で羽豆崎に、家路についた。

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