第二十二話 ねね
藤さんの想い人、ねねさんが住むという朝日村へと向かう。
熱田からは三里(十二キロ)程だ、朝に出れば昼前には着くだろう。
たあは門まで出て笑顔で俺達を見送ってくれた。良く出来た妻…そんな印象を受けるが多分違う。
厳密には俺達を見送るものではない、俺を見送るのともまた違う。
彼女の笑顔の中にある視線はメスガキさんを捉えていた。
たあの笑顔は昨日の貼り付けた笑顔とは違い、満面の笑みを湛えている。
この時代では満面の笑顔…と形容するしかないのだろうが、俺はあの笑顔を表現するのに適した令和の単語を知っている。
ドヤ顔だ。
間違いなくたあはメスガキさんにマウントを取っている。その手は何故か大切そうに腹部に添えられ、満面のドヤ顔をメスガキさんに向けている。
なにやってんのたあ…
だがメスガキさんはその視線に何かを感じ取ったのか、ひきつった表情をしている。
ちなみに今日は藤さんの用事なのでメスガキさんを連れて来る必要はない。
だが昨日親父殿と話をして彼女を此処に置いておくのも気が引けた。彼女にとって熱田は俺の実家ではなく彼女を囲う籠なのだ、そう理解してしまった。
道中暇を見て彼女に話をしようと思う、籠の中でする話ではない。
話をした結果彼女がどうするか、籠には戻らずこの大空に飛び立つ選択肢も残してあげたいと思ったのだ。
◇ ◇ ◇
朝日村
家は…三百石くらいのお屋敷だ。
信長の家臣だったらしいが残念ながら
三百石くらいだと足軽頭くらいだろうか?といっても信長の家臣として所領を貰った感じではないので杉原家は元々この地の豪農なのだろう。
ちなみに
織田家も結構派閥があったし何処の誰に属していたのかにもよるがウチは神宮って事で更に別枠扱いだっからなぁ…
今更気付いたが俺は結構ボンボンであった。
俺、藤さん、藤さんの部下一人が応接間に通される。俺は一応藤さんの上司枠だ、向こうさんからしたら面倒な立ち位置だろう。まぁその面倒な立場を狙って来た。
メスガキさんと三郎太、そして藤さん部下二名は別室で待機してもらっている。
すると襖を開け少女が礼をし茶を持って入ってきた。少女は藤さんの顔を見るとぱっと笑顔になる。
年の頃は十四…これが藤さんの想い人ねねさんか?
キレイというよりかわいい系だ、全体的にたぬきのようなおっとりとした雰囲気を纏う彼女がどうやって藤さんのハートを掴んだのだろうか?
隣の藤さんを見るとにやりと笑って返してきた。
彼女から出された茶を頂く。ほどよく温めで飲みやすかった。朝から十キロ以上歩いて渇いていた喉に沁みる。
一杯飲むと暫くしてお代わりが出てきた。今度は先ほどより熱い茶だった。
一杯目はすぐ飲めるよう飲みやすく温めに、二杯目は冷めにくいように熱いモノを出してきたのだろうか?
あれ…これどっかの茶坊主エピであったような気がするけど…何の話だったか?
一休さん?
そんな事を考えているとふと藤さんと目が合った、藤さんは俺の様子を見て気がついたかといった風に視線を投げてくる。
なるほど、この心配りが出来るから藤さんはこのねねさんに惹かれたのか。
こういう聡い所が藤さんと波長が合ったのだろうと一人納得する。
◇ ◇ ◇
「貴方は黙っていてください!!」
この出来た娘さんの母親はなかなかの
藤さんはそんな彼女に頭を下げ続けている。
「主の馬廻り役にまでなっておきながら主君を守れぬ男に大切な娘をやれますか!!」
あーいたたたた…その発言は俺の心に刺さる。そしてその発言は此処にいる全員に効く。
言われた当人の藤さんはもちろん、桶狭間で
この旦那にも主君の死に何か思う所があるのだろう。そして彼は入婿らしく彼女には頭が上がらないようだ。
「熱田大宮司殿!この男は悪知恵は回りますがいざという時に何の役にも立たぬ男です!!」
だからその発言は此処にいる皆に効くってば…
「平時は調子の良い事を申し戯言を弄し取り入るのが上手いやもしれませぬが真に重用するのは考え直した方が御身の為でございます!」
「でもお母様」
可愛らしい声が金切り声の間に挟まる、ねねさんだ。
「私はきっと大業を成し遂げるこの方と一緒になりとうございますわ」
彼女は年若いながらも藤さんの非凡な才能を認めているようだ。娘の言葉に一瞬愛情からか哀れみからか顔を緩ませた奥方さまは可哀想な者を見る目をして言い切る。
「若い貴女には分からないかもしれませんがこの男は貴女を騙そうとしているのですよ!」
再び顔を険しく藤さんをなじる。
「母上殿、それは…」
流石に聞き捨てならないと藤さんが顔を上げる。
「誰が顔を上げて良いと許しました!この礼儀知らずめ!!」
反論も許さぬ金切り声の一喝。
「貴方のような下賤の者に母呼ばわりされる謂われはありません!」
「ねねがどう思おうと第一に貴男とでは家格が釣り合いませぬ!」
「この賤しい六つ指のサルが!」
言いたい放題である。藤さんは頭を下げたまま震えている。
なじるにしてももう少しマナーってものがあるだろうに…
俺も信頼する藤さんが聞くに耐えない侮辱を受けるのを見て少し感情的になっていた。
奥方さまの方にゆるりと手を出し、金切り声を遮る。
「暫く」
本来この場では傍観者の、しかし無視は出来ない
「それでは私が
場の空気が凍る。
「…と…殿…?」
藤さんが目を丸くして俺を見る。
「熱田…大宮司殿…?」
「木下藤吉郎、これより其方は千秋藤吉郎と名乗れ」
家格云々ならばウチなら大丈夫だろう…いやウチ的にはこれから問題大アリだが藤さんに出来る限りの事はしてやると約束したしな。
奥方さんは信じられないとばかりに目を見開き、そして凄い形相で俺を睨みわなわなと震えている。
まぁ俺にそんな表情を向ける程、彼女にとっては藤さんの事が気に食わない…いや、嫌いなのだろう。そしてこの場の全ての視線は俺一人に注がれていて彼女の表情に気付いたのはこの場で俺だけだった。
「これで家格の憂いは無くなりましたかな?」
その言葉で奥方さまは俺に向ける自分の表情に気付いたのか顔を隠し慌てて部屋から出て行く。
不機嫌を音にしたような足音が逃げるように遠ざかっていく、騒音の発生源が居なくなり皆無言になる、その静寂の中で誰もが言葉をつむぐのを躊躇っていると、
「千秋様」
その静寂を破ったのはねねさんだった。
「藤吉郎さまを思ってのお言葉、感謝いたします」
俺に対して丁寧に一礼し可愛らしく、だがしっかりした声色で言葉をつむいだ。
藤さんは彼女を数え十四と言っていたが…中学一年生位か?自分が中学一年生の頃どんなクソガキであったかを考え、その出来の違いに内心で驚嘆する。
「ですが私、家格関係なく木下藤吉郎さまと一緒になりとう御座いますわ」
彼女は千秋藤吉郎ではなく明確に木下藤吉郎と言った。俺の助けはいらぬと言い放ったのだ。だがそれでいてその声色は喜色に包まれ丁寧で棘も嫌味も無い素直な言葉。家格で一緒になるのではない、彼女は木下藤吉郎を愛しているそう言ったのだ。
これは強い
「ふふっ」
誰が最初に笑ったのか分からないが、その場は笑い声で溢れた。
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