第十三話 救命措置
二月の海は冷たいというより命の危険を感じる程に痛かった。痛い!凍る!寒い!死にたくない!更には俺は泳ぎに自信がない!
だがそんな言い訳で厳しい現実は変わらない、それよりものんとしても自分の命に代えてもメスガキさんは助けなくてはならない。
彼女はあれで九鬼の重要人物だ、彼女が死んでこの騒動が丸く収まるとは到底思えない。沈む彼女に腕を伸ばし抱き止める…良いのか悪いのか彼女は固く、必死に俺にしがみついてくる。
「ごげぶば!」
俺は鼻から口から海水が入り咽気味に妙な声が出てしまう。彼女はその小さな体のどこからそんな力が出るのかこちらの体の動きを拘束する。俺の四肢の動きを泳ぐ事を阻害され一緒に溺れそうになる。
彼女も必死だが俺も藁を掴み必死である。辛うじて藁束が浮いてくれなければ自分まで一緒になって沈むところだった。
だが俺のか細い少ない運はそこで使い切ったのか、海流に囚われ近くの舟を捕まえる事すらままならず伊勢の海を流れる。
かたわらにの彼女には腕をしっかりと固められ満足にも泳げないが、それでも俺は生きのびる為に必死で近くの陸を目指した。
当初は痛みを覚える程の冷水の感覚もやがて麻痺し、極限の状態での遊泳が続く。無我夢中で泳ぐ中、彼女の安否まで確認する余裕はなかった。
必死に泳ぎ…どれだけの距離を流されたのか分からない、日の傾き具合から数時間は泳いだのではないだろうか、なんとか浜に泳ぎつく。
息が上がる、足に触れる地の感覚に安堵を覚えた。
腕にしがみつく彼女を引き上げ、荒く息を吸い、吐く。手足は寒さか疲れか、痺れて感覚がない。
だがそんなことよりも確認をしないといけない。
「し、しずか…さん?」
メスガキさんに向かって名前を呼びかけるが、ぐったりとしていて反応がない。一見して顔色が悪い…というか顔色は真っ青だ。
この寒空の下最悪の想像をし、俺の頭からも血の気が引いていく。
緊急時だ、すまん!心の中で謝りながらメスガキさんの薄い胸に手を当てる。
…心音は分からない…が、少なくとも自発呼吸をしていない。
嫌な…特大に嫌な予感がする!
着物をはだけ胸に直接耳を当てる。
…分からない!!
違う!分からないんじゃない!分かりたくない!
…最悪…最悪だ!!
彼女の心臓は完全にその鼓動を止め、冷たい四肢は死人のそれだ!目頭が熱くなり涙が出る、だがそんな悠長に涙を流している場合ではない!免許の取得時に救命処置の練習をした事をおぼろげに覚えている。
おぼろげすぎて不安しかない。だが今すぐにやらなければ蘇生の確率は時間と共に低くなると聞いた気がした!
絶望の中、手順が正確なのかどうかもわからないが祈りながら彼女に心臓マッサージと人工呼吸をする。
頼む!!息を吹き返してくれ!!
彼女に変化は無い、最初は躊躇がちだった人工呼吸も風船を膨らませるように勢いよく彼女の肺に空気を送り込む。
胸は息を吹き込んだ時にだけ不自然に上下し、悲しいかな彼女が生のない人形であると伝えてくる。冷たい唇は蝋のよう、否応なしに彼女が最悪の状態であると認識させられる。彼女の薄い胸に手を当て胸骨を折る勢いで心臓マッサージをする
生きて!生きて!生き返ってくれ!!
寒さと絶望感に間断なく襲われる、心が折れそうだ!
涙が出てきそうになるのをこらえ、とにかく今はただ愚直に救命活動を続けるしかなかった。
どれほどの時間が経ったのだろうか、彼女は突然息を吸い込み激しく咽返し、水を吐いた。
「あっ」
思わず驚きに声が出た。
「生き………良かった……!」
本当に…良かった…
苦しそうに咽せ、咳き込む彼女を労りつつ安堵する。自らの行った救命措置が合っていようが間違っていようがとにかく彼女は息を吹き返した。自然と頬を涙が伝い命の尊さを覚える。
だが現実は非情で喜んでばかりもいられなかった。咳き込む彼女を尻目に俺は自らがおかれた状況が到底良いものでない事に戦慄する。
「ここは…何処だ?」
伊勢の付近の浜だとは思うのだが…
そして最悪に追い打ちをかけるように雨が降ってきた…極寒の2月の海に放り出された俺達は寒空の下、持ち物は濡れた衣服だけでサバイバルを強いられる。
地理も分からない、灯りもない、火も起こせない!これではせっかく息を吹き返し辛うじて命を繋いだメスガキさんがまた死んでしまう!
日は沈み、辺りは暗くなりつつある。辺りを見渡すと遠くに小さな鳥居らしき影を見つけた。無為にこの寒空の下、弱った彼女を抱え彷徨うわけにはいかない。彼女を背負い一路鳥居を目指した。運の良い事に小さな鳥居の奥には無人の小さな社があり俺は軽く頭を下げ、急いで社の中に入る。
彼女を寝かせ、矢傷の処置をする。肩に刺さった矢に返しはついておらず無事引き抜く事が出来た。彼女の服を一部破いて肩に巻く。
傷の処置が出来た事を喜んでもいられない。大して血も出さずに彼女が痛がらなかったのはほとんど意識が無いからだ。
顔色は青白く、生気を感じない。カラダは石のように冷たく、呼吸は浅く弱くなっている。
このままだと彼女は今度こそ死ぬ。
何の為に俺は必死になって彼女を蘇生させたのか!決して二度死なせる為ではない!
とにかくやれる事をやる、先ず濡れた服を脱がす。彼女の体を水を切った蓑で包み、その上から水を絞った彼女の服で覆う。
嫁入り前の娘には悪いが彼女が目を醒ます前に離れて知らぬ存ぜぬを決めればいい。
その後の事を考えて手段を選べるほどの余裕はなかった。
俺は裸で彼女を抱きかかえ横になる。時は二月の夜、春の温かさにはまだ遠い。
俺は敷布団のように寝ころび彼女を体の上に乗せた。ぴたりと肌を密着させる。
俺の体も寒空の中裸同然でいて冷たくなっているはずだが、それでも俺の体の熱は更に石のように冷たい彼女へ奪われるのを感じた。
彼女の体は生きているのか分からない程に冷たい。
だが体を密着させる事で弱々しいながらも彼女の鼓動を感じる事ができた。
俺の体温を出来るだけ彼女に伝えられるよう、彼女の背中を包み抱きかかえる。
「大丈夫、大丈夫だ、生きている!」
誰に聞かせるともなく声を発した。
肯定的な言葉を自分の耳に聞かせることで不安を拭いたかったのかもしれない。
心臓も動き、息もしている。
彼女の冷たい体を感じながら俺も少しずつ冷静になっていく。
思ったより彼女は細く、小柄で驚いた。
あれだけバッタバッタと大の男を投げた彼女に対するあけすけな感想だった。
小平太を含め三人が投げられた、きれいな一本背負い。
俺も三度投げられた。
先の船上戦でもゆうに四、五人程投げ飛ばしていた。
あの強い彼女が次に目覚めた時、腕の中で息を引き取っていたら…そんな不吉な想像を頭から祓い前向きな事を想像する。
朝には彼女の鼓膜をつんざく悲鳴で起きるかもしれない、嫁入り前の娘に緊急時とはいえ余りよろしくない事をしている自覚はある。
うざい笑顔で軽蔑するような目に見下されながら裸土下座を決めよう。
謝って謝れる事ではないかもしれない、最悪の場合責任も取ろうと決める。
そして元気に一発か二発ブン投げられる。
そんな想像しながら、彼女の平癒を祈り夜は深くなっていった。こんな状況でありながらも疲れからかいつの間にか眠りに落ちていた。
◇ ◇ ◇
夜分に目を醒まし寝ていた事に気がついた。
慌てて彼女の容態を確認する、抱える彼女は…息をしていた。
肌を密着させた体からも温かみが戻ってきているのが分かった。
闇の中、感極まりつい涙ぐんだ。そして嗚咽のような安堵の声が漏れてしまう。
「よかった…よかった……本当に…」
ただただ嬉しかった。北畠と九鬼の和睦などもうどうでもよかった。この小さな命を運良く繋げた事に誰にするでもなく感謝の念が無限に湧いてきた。
疲労は回復していない、だが今は少しだけ緊張が解けら二度寝にも身が入りそうだった。
まだ日の出まで時間がある。俺は彼女をしっかり抱きしめ再び微睡の向こうへ意識を落とす。
その意識と夢の際で蚊の鳴くようなか細い声が、
「あり…が…」
…聞こえた気がしたが俺の意識は闇に溶けた。
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