第八話 澄み酒顛末
「へぇ?」
小平太が俺の前で酒をあおって生返事を返す。
藤さんの友人兼部下の服部小平太は大阪には行かず、ここで俺の手伝いをしてくれるとの事だった。
「それで季忠兄ィは何ンで生きて帰ってこれたんじゃ?」
それな。
生還できた不思議、あれは完全に失敗作だった。
樽の中を覗くとそこには不純物が多く浮いており、何より赤みの強い酢のような色合いになってしまっていた。
少なくとも俺の知っている澄み酒とは全くの別物の物体がそこには湛えられていた。
(死んだわ俺…)
それがその時の俺の率直な感想だった。
だが中山屋の皆はにごりが沈殿し、上澄み部分が澄んでいる事に驚きを露わにしていた。
酒蔵の皆は恐る恐るその上澄みを掬って味見をする。その顔にはそれぞれ驚きや喜びの笑みが浮かんでいた。
…自分で灰をぶち撒いておいてなんだが、どうやらアレは飲める物体のようだ。表情から察するに味もそれほど悪くはなさそうな様子だ。
側で控えていた永吉さんが俺に話しかける。
「千秋様、実は私は日が昇ると同時に確認させて頂きました」
もしかしたら永吉さんは真っ暗な酒蔵で朝の光を待っていたのかもしれない。そしてその結果を知っていたから昨日は鬼神の如き荒ぶり様をみせた永吉さんは落ち着いていたのか。
「此れは間違いなく…手前どもが知っている酒ではなく、秘酒の類でございます。私めの視野の狭さや常識では測れない新しい試みと見識に驚きを隠せません」
昨日の永吉さんから感じたのは「商売人としての友好」「技術者としての興味」そして「酒を穢された事による怒り」「明確な殺意」そして今は昨日にはなかった「未知への敬意」をもって接してくれているのが分かる。
「我が子のように慈しんで大切に今日まで育てた酒に灰を撒かれた時には目の前が真っ白になり千秋様の腰の刀と刺し違えてでも…と考えておりましたが」
物騒な事この上ない…が、あの場でギリギリ思い留まってくれて本当に良かった…
「この中山永吉、感服致しました、非礼を何卒お許しください」
永吉さんが頭を下げると中山屋の家人の面々も頭を下げる。
「俺の方こそ不躾に、大変申し訳ない事をした」
俺も一晩経って大分冷静になった。彼らの努力の結晶にろくに説明もせずに灰を浴びせてしまった、金を払えば何をしても良いという訳ではない。彼らは酒造りに並々ならぬ情熱を注いでいるからこそ俺の蛮行を許せなかったのだ。
だが此処で俺の意見はハッキリさせておく。
「ですが…この酒は自分の知っている澄み酒ではありません」
そう言い切った。
「俺は結局永吉さん達の努力を無駄にしてしまった、本当に申し訳ない」
素直な感想と謝罪の言葉を伝える。
「なんと…」
永吉さんの怒気は含まない驚きの声。
「俺の予想ではこのような濃い琥珀色ではなく…水と見間違うように澄んだ口当たり優しくまろやかな味になる筈でした」
永吉さんは更に驚いている。
「俺には専門の知識も経験もありません、西国の何処かに伝わる秘蔵の酒の製法を俺が聞きかじっただけで再現と呼ぶには程遠いのが失敗した理由だと思います。ですがどうか新しい時代の酒の為に優秀な知識と経験を持つ中山屋さんにご助力頂きたい」
俺は頭を下げた。そんな俺に慌てて永吉さんは言葉をかける。
「勿論です、こちらこそどうかよろしくお願い致します」
中山屋さんは手を貸してくれる事を約束してくれた。この後、試行錯誤を繰り返しある程度満足できる澄酒が出来上がるのは随分先になるだろう。
◇ ◇ ◇
「…とまぁそんな感じだ」
ホント死地から生きて帰ってこれた事を伊勢の大神に感謝する。
「この酒はその失敗作だ」
自分用に上澄みを徳利で貰ってきた琥珀色の酒、清酒のプロトタイプとでもいうのだろう。残りの樽は中山屋さんに研究用に残してきた。
「しかし兄ィ美味いぞこれ?」
「そうらしいな」
ほんのつい先日吞み過ぎて南蛮のマーライオンの如き醜態を曝し、酒蔵に監禁された身としてはちょっと飲む気になれなかった。
「タダ酒ならなんでもうまい」
く…コイツ…それは俺が弁済した酒でタダじゃねぇよ!
「俺は暫くより良い澄み酒造りの為に中山屋さんに出入りする事になるが、小平太は炭と灰を集めてくれんか?」
「炭と灰?」
小平太は聞き返す。
「量が欲しい訳じゃないんだ、何処の何の木からできた炭、灰であるかを記して中山屋さんに納めてほしい」
澄み酒に相性の良い物の選別と安定供給が出来るようにしておきたい。
「なんぞ面倒な事をするんだな、炭なんてどれも同じもんじゃろうに」
この辺り小平太は藤さんと違い大雑把で不安だ。
服部小平太、余り語りたがらないが俺と違って桶狭間で信長本隊について義元本陣を目指し特攻した偉丈夫な脳筋だ。結果は義元の大部隊に数で圧され、挙句の果てに信長の首級を取られ散り散りに壊走したらしい。俺と状況は多少は違うが結果は同じ、思い出したくない隠したい事もあるのだろう。桶狭間の真実は各々の心の中だけに留め、小平太の心中を察してあまり話を振らないようにしている。
そんな小平太を俺はうんこ漏らし仲間としてわりと親近感を持っている。一方的に。
まぁそんな荒事向きの男なので今回のような件だと小平太が側についていてくれたら俺は監禁されずに済んだかもしれない。
その場合中山屋さんとの話はご破算になっていたろうし結果良しとしよう。
「そういえば藤さんはいつ頃帰ってくるかね?」
「あーそれなんじゃが」
小平太が意外な事を言う。
「アイツ結婚を考えてる女がおっての」
「え」
「お互い好き合ってての、結婚寸前だったんだが」
しかも恋愛結婚かよ!?
「先の戦で職がのうなって将来が不安になったとかで見合わせた」
「あー」
俺達織田臣下組は桶狭間で負けて無職になった者が多数いる。職もないのに嫁を取るのも良心がない。
「特に娘さんのおっかさんが強く反対しとってなー」
なるほど、藤さんはそういうのもあってあの時ヤケ酒に逃げていたのだろうか。
「その娘さんに会いにも行くんじゃないかと思うから少し遅くなるかもしれん」
大阪で紙を買って尾張に寄って伊勢に戻って来る感じか。
そんな理由もあったのか…と藤さんの淡い失恋事情を勝手に想像し、酒を進めた。
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