歌声


 いつもより手に力が入る。慎重にドアノブに手をかけ回し静かに室内に入ってみると、施錠されずに開いていた。事前にディナから聞かされていたけど、少しほっとする。


 蔵書室は外から見た通り、広かった。

本棚の間一列ずつ確かめながら、ゆっくり歩く。幾つか過ぎた頃、鼻歌混じりの微かな音程が途切れ途切れに聞こえてきた。


 風に乗った歌声が、耳を撫でていく。

 懐かしく、安心する声。


 その声、空気、暖かさ。

 それら全部、僕は知っている。僕の好きものたちだ。姿は見なくても、確かにこの部屋に居る。


 心臓の鼓動が、早く打つ。

 気ばかりが早くなる。

 足が思ったよりも動かず空回りしているみたいだ。


 声のする方へ急いで駆け寄ると、人影が見えた。

 一目見ただけで分かる。間違えるはずがない。


 あぁ、……やっぱり。

 



 ライアだ。



 ライアは本を手に持ったまま、椅子にも座ることを忘れて、立った状態で読みふっけていた。最後に会った時よりも、髪は少し長くなり今では背中まで伸びたように思う。

 噂や手紙、ディナからの証言。こんなにいくつもの証拠が真実を示したとしても、最後まで認めたくはなかった。なにかの間違えだと思いたかった。だけどもうライアが目の前に居るんじゃ、認めざるを得ない。

 できれば、ライアじゃない、別の歌姫が選ばれれば、どんなに良かったか。そんな事ばかり願っていた。どうして、……此処にいるのがライアなんだ。


 欲しられて来たというのに、今は制限されたこの扱いの変わり様。大事にされてるのか分からないけど、一応は貴族が着るドレスをあてがわれてはいる。どこから見ても貴族のお嬢様そのものだ。見違えるほどに。だけど以前のライアを知ってるなら尚更思うはずだろう、こんなの似合わないってさ。

 だって、そうだろ?

 知っているのに、まるで知らない女性みたいだ。


 まだ陽が差さない薄暗い部屋。

 それもあってか、その空間だけ、なぜか光ってるように見えた。まるで、ここに居るって教えてるみたいだ。一人、どこかの世界に佇むライアを見ていたら、声をかけるのは野暮に思えて、少し躊躇う。もう少しこのまま眺めてるのも、悪くない気さえしてしまう。


 ライアは不意に眉を下げて俯き、そうかと思うと口元を上げて笑う。油断するとどうしても零れてしまう嘆息を呑み込んで、明るい歌に変える。そうやって、誰にも歌わせてもらえなくても、歌うことを忘れてなかった。そうやって泣くのを我慢する仕草は前と同じ。


「……変わらないな」


 この目で無事でいた事を確認できた安堵と、おかれたこの状況下とで気持ちが複雑に混ざり合う。会いたかった、と素直に喜んでいいのか、会いたくなかったのか自分でも分からなくなった。少なくても、こんな場所では。


「ライア」


 息を吸い、少し緊張が走った。名前を呼ぶのは久しぶりだ。

 ――にも関わらず。


「きゃぁ……っ!」


 こっちは必死の想いで此処まで来たのに、思っいきり怖がられた。その瞬間、ピタリと歌声は止まり、ライアは言葉にならない空気だけを吸い込んだような短い悲鳴をあげる。こちらを一度も見ることなく焦るように持っていた本で顔を隠した。そして、半歩下がったかと思うと、本棚の影に身を隠くす。僕だと全く気づかない様子を見せるから、このまま少しからかってやりたくなった。もう会わないと直接言い、あんな別れ方をした僕にムッとする権利なんてそもそもないのは、分かっているけど。



「あっ、あ、あの! 歌、聴かれてしまいましたよね!?? こ、この事は、旦那様には内緒にして下さいっ!」


 本棚を挟み、慌ててるようで早口で言うし、小声で、口を抑えてるのか、余計に声がこもって聞こえた。ライアが逃げた方へ歩き、本棚の裏側へ。追われたライアはすかざず、一歩後退りをした。


「許可なく他の人と話すことも、許されてなくて……」


 訊くほどに、厳しい制限が科せられてることを改めて聞かされて、また腹が立つ。僕達ですら使用人同士はそこまで言われてないのに、ライアだけ孤立したような生活、窮屈だろうに。


「は、離れてください。叱られてしまいます。帰って下さい! どうか、このまま誰にも会わなかったことに……」

「会ったこと、内緒にして欲しい?」

「そんな……っ。も、もしかして、交換条件、……ですか?」

「どうしようかな」

「こ、困りますっ」


 そんな意地悪な質問をすると、ライアは冷静になるどころか、顔色が変わりますます身を震わせた。この慌てよう……。ちょっとだけ、からかおうとしたけど、思ったより虐めすぎてしまったみたいだ。

 ごめん悪かった。小さく謝ってみたけど、少し遅かった。ライアは本気で怯えている。僕は別に交換条件を持ち出したわけじゃないのに、ライア自ら口走り、身構えている。僕も少し乗ってしまったけど。……こんな風に怖がらせて泣かせるために来たわけじゃないだろ。


 そもそも僕だって、歌姫と会うのも話すのも禁止されてるのは、同じだ。その上で、覚悟を決めてライアに会いに来たんだ。



「ごめん、さっきは。いつまで本に隠れてるつもり? 僕だよ、ライア」

「……! え……? どうして、私の名前を……っ」

「折角会いに来たのに、帰って欲しいって? 」

「……その、声……っ」



 できるだけの声で謝罪の気持ちを込め言った。それでやっと、晴れた日の澄んだ青空に似た瞳が、ずらされた本から恐る恐る覗く。初めて会った時から変わらない、吸い込まれるような目だ。

 そのライアの瞳が、僕を捉えた。やっと目が合ったね。次いで、持っていた本が手元からすり抜け、ボトン、と音を立てフローリングの床に落ちた。


「ふ、ろん……なの?」


 拾うおうともせず、いや落ちたことにも気づいてないのか、本に目もくれないままライアは、僕をただ見つめている。瞬きを忘れ、大きく見開いた目は、まるで幻でも見たかのようだ。


 無理もないか。僕は一生ライアには会うつもりは無く出ていき、ライアもその事を知っているから。居場所を探して屋敷まで乗り込んで、ライアに会いに来たこの行為。迷いなくここまでできたのは、不思議なくらいだ。まさかまたライアに会うなんて、少し前の僕には考えられないことだった。



 気づけば距離を埋めていて、ライアは腕を上げ、僕の頬を確かめるようにして手を添えた。触れられた部分から温かさを感じ、僕もまたライアが実際にいることを実感する。


「ホンモノ、……なの?」

「本物だって」

「“会いに”って……? 私に? フロンがここまで……? だって、フロンは……」



 だけど、ライアに。ライアに触れられるだけは、特にどうしても苦手だった。数日前の彼女たちとはまた違う。まるで呪いがかけられてる感じだ。ごめん、と顔を背けて手に触れないように軽く振り払う。ライアは、はっと思い出したように慌てて手を引っ込めた。


「私の方こそ、触ってごめん……ね」


 さまよったライアの手が、僕の袖口の前で止まり、遠慮がちに布の端をぎゅっと掴む。それが、五年前からの僕が耐えられるライアとの距離感だった。あれから時間が経ち、少しはマシになったかと思ったけど、あの頃と変わってなかった。震えたライアの手が時より僕の手首を掠めるだけで、身体に緊張が走り拒絶する。


 今まで不安だったんだと思う。本当なら、抱きしめて今だけでも安心させてあげたいのに、それが出来なかった。せめて、と思いライアの頭を撫でる。ライアは妹だと言い聞かせながらやって、やっとだ。その瞬間、ライアは耐えていた眼からポロポロと涙を落とした。



「ディナから、僕が居るって聞いてなかった?」

「えー、なにも言われてない……」


 大方、サプライズとか言って、秘密にしてたんだろうけど。ディナのやつ、今頃自分でいい仕事したとか思ってるんだろうな。



「大丈夫だったか?」


 責めてなかんかいない。大方、検討はついている。ただ、ライアが吐き出せるように、訊いた。


「フロン……」

「ん」

「ごめん、なさい。約束、破ってしまって……っ、絶対、最後までっ、フロンとした約束、守りたかったけど、でも、っ、それしかっ方法がなくてっ」


 弱々しく言葉を紡ぐ。嗚咽が、言葉を邪魔している。

 一番最初にライアの口から出たのは、『約束』だった。別れ際に、無理やり取り付けたのを、まだ覚えていてくれたとは。それも一番に出るほどに。


「信じて。お金が欲しかったわけじゃない……の」

「分かってる」

「みんなが、心配で……っ」


 ライアは約束通り、自分の身を売るような……。娼婦の仕事をしてないと思うし、僕もそうさせないようにしていたつもりだ。でも地を這うような生き方をしている僕らみたいな人間は、どんなに最低限の事を望んでも、権力者の前ではなんの効力もないとつぐつぐ思う。

 僕とライアの間で交わした約束も、こんな世界じゃなんの守りにもならない。



「だけど、だけどねっ……こんな事言ったら、フロンは怒ると、思うけど」



「この屋敷にフロンが来てくれて、……ほっとした」


 放たれた声は、安堵が混じった消えそうなほど弱いものだった。心細かったことが痛いほど伝わってくる。僕は、傍に居てやれなかったことを、悔いることしか出来ない。


 約束を破ってしまうことになってもでも、孤児院を出なければならない状況が、ライアにはあった。


 行方が、追えるうちに間に会えて良かった。もし僕が気づくのが遅く、また別の場所に渡っていたら……と、思うとゾッとした。ここまで陥らないと、僕は会いにも行かないのか。本当に遅すぎるくらいだ。


 ライアが此処に居る事実は、嬉しくなんかない。だけど……。素直なライアの気持ちに、いつもはっとさせられる。



「僕も」


 会いたかったんだと思う。聞き逃してくれても良かった短く言った言葉に、ライアは目と口元を静かに綻ばせた。

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閉じ込められた歌姫と王子になれない青年 発芽 @plantkameko

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