秋から冬へ


 ――今の、誰のことだ?


 孤児院の前で。いや、孤児院だったはずの廃墟の前で、どのくらい立ち尽くしてしまっただろうか。身に覚えのある人が会話に出てきた気がして、はっと我に返った。意識が引き戻され、その瞬間から一気にたくさんのものが流れ込んでくる。


 夜の暗闇と肌寒さ。ガス灯の灯りと、少し霧がかるぼやけた風景。仕事を終えて駆け出す、全身すすまみれになった煙突掃除の少年の白い息。まだ仕事を続ける花売りの少女の、恵みを乞うか細い声。馬車が先を急ぐようにして通り過ぎる音。

 ――そして一際耳に届く、まるでどこかにありそうなロマンス小説に華を咲かせる声。

 

 その話は、僕にとってあまりにも現実的過ぎた。まさに今、僕の目の前で本当に起きたかのようで、血の気が引いた。


「すみません、今の! 歌の上手い少女って言いました? さっきこの街でって。連れていかれたって…その子の名前は!」


 女性二人のおしゃべりに矢継ぎ早に急に話掛け、びっくりさせてしまったのか、会話が止まる。けれど、顔を見合わせてすぐに声を出して笑い出した。そのうちの一人が肩のショールをかけ直しながら、僕に向き直る。


「やだぁ。本当に、お兄さんから話しかけて貰えるとは思わなかったわ。その辺の男とは違いそう。それによく見ると格好いいし」

「どこかの侍者とか? 今日はお休み?」


 女性はわっと僕を囲むように立つ。垂らした髪を見せるように耳にかけ、香水の甘い香りがふんわりとした。


「……もう一度、その話を聞きたいのですが」

「そんな大真面目な顔しちゃって。なぁに、知り合いなの?」

「冗談通じなそうなお兄さんには、残念だけど。あたしたち、物語を聞かせたいわけじゃないの。あの話はただの客寄せのたぁ〜め。分かるでしょ?」


 女性は僕の頬に人差し指で触れ、首を傾けた。というより首筋をわざと男に見せるような素振りだった。そこまでそれて、やっと気づく。慌ててたし、陽が落ちていてすぐには気づかなかったけど、改めて二人を見ると、眼を惹く化粧に、指先の紅。歳は僕と変わらない二十前後くらいか。誘う雰囲気でこの人達は娼婦だ。……普段なら近づかない相手だったけど、今はそうも言ってられない。僕は僕で確かめたいことがあるし。咳払いをし、改めて聞いた。


「その話、誰から聞いたんですか」

 女性は仕方ないわねと、言いたげにため息をしてから話す。

「前に相手した男の人からよ。面白おかしく話してたわ」

「じゃ、その話は、いつから言われるようになったかも知らないですか? 一年前? それとももっと……」

「さぁ、どうかしら。少し前は私も東の外れにいたけど、あこそは一段と環境が悪いでしょ? だからこの街に来たの。たとえ作り話だとしても、あたしの責任取らないから、クレームつけないでよね」

「私も詳しくは知らないかな。でも、歌っていた少女が、昔本当にいたみたいよ。他の人も言ってた居し。ある時、歌声はパタリと消えた………って。その子が死んでしまっただけなのか。どうせなら、こんな生活から助け出してくれる貴族さまと、身分違いの恋に落ちた説を推したくなるのも、無理からぬ事ね!」

「現に目の前の孤児院も無くなってるし?」

「……っ」


 こっちは笑い事じゃないんだ、本当に。二人にとって、真意はどちらでも良いらしい。本当かどうかもわからない、当事者じゃないからこそ盛り上がる。夢物語ならどんなに良いだろう。

 けれど……。


 背にしていた廃墟をもう一度見るため、ゆっくりと振り返った。

 誰もいない、居なくなってしまった朽ちた孤児院。手の行き届かなくなった小さな庭は、ゴミで散らかり、雑草も鬱蒼と荒れ果てている。窓も割れたまま修繕などされていなくて、あの頃賑やかだった幼い子供たちの声は、今は全くしない。なによりも、ライアのあの歌声が。なにもかもなくなった。それだけでも受け入れ難いと言うのに――。


「ねぇ、もう良いでしょ? こんな何も無い所にいつまでも立ち話してても、寒いだけでつまらないじゃない。話の続きは別の場所で、ね?  抜け駆けはなしよ。今日は特別に二人で相手してあげる……って聞いてるの?」

「あらら。大丈夫? さっきから青い顔してるけど。寒さでどうにかなった?」



 なんで、繋がるんだよ……っ。

 廃墟になった孤児院と、身寄りのない少女と貴族の噂。こんな噂、作り話だと笑いたくても、この二つが僕に事実だと突きつける。

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