水没ワンルーム

@yuzuki_arisu

水没ワンルーム

ある日、急に涙が止まらなくなった。ぽろぽろ、ぽろぽろ、止めどなく頬を伝う。

悲しくもないのに涙が流れていく。

こんな調子では外に出れないのでその日は休むことにした。その後2日は休みだからそれまでには何とかなるだろう、と甘く見ていた。

涙は止まることなく、ずぅっと今日まで流れている。

休みは今日まで、明日までになんとかしなくては。その思いと裏腹に涙はどんどん、どんどん流れていく。

狭い部屋には涙が溜まって、立つとちょうどふくらはぎの真ん中くらいまである。

僕は濡れるのも気にせず部屋の角で体育座りをする。体を丸めると少しだけ落ち着く。

怖くてチクチクした世界から守られたような気がする。

それでも不安は消えなくて涙はぽろぽろ、ん?不安?僕は不安だったのか。


「ちょっとそこの貴方」


ふと誰かの声がした。鈴のような優しい女の人の声。しかし辺りを見渡しでも誰もいない。


「ここよ、ここ。貴方の膝の間。」


言われた通り、膝の間に目を向けるとそこには手のひら大ほどの大きさの人魚がいた。腰あたりまでの長い髪の金と、下半身の鱗の青が対照的で単体でその色を見るより何倍も綺麗だった。


「人魚なんて本当にいるんだね。」


僕はポツリと呟く。


「えぇ、もちろん。貴方がいるの思うのなら。」


人魚は妖しくクスリと笑う。


「そう、私貴方にお礼が言いたくてね。それでわざわざ見える大きさになってやってきたのよ。」

「お礼?」

「えぇ。」


お礼を言われるようなことは僕は何にもしていない。唯一していたことは泣いていたことくらいだ。


「たくさん泣いてくれてありがとう。」

「え」


まさかの言葉に僕は反射的に声が出てしまった。そんなことは気にせず人魚が続ける。


「最近、ずぅっと外に出てこられなかったから。貴方がたくさん泣いてくれたおかげで久しぶりにお外の空気の中のびのび泳ぐことが出来たわ。」


ありがとう、と微笑みながら深々と人魚は頭を下げた。


「久しぶりって、普段はどこにいるの?」

「貴方の中よ。」

「僕の、中?」


僕の中にこんな綺麗な人魚がいるのか。思ったのはそれだけだった。


「えぇそうよ。普段は貴方の目の周りにいるわ、時々体の中をお散歩しているけどね。」


人魚はくるりとその場で回って見せた。月の光が反射して鱗がキラキラ光る。


「僕の中、居心地悪い?そうだったらごめんね。」


答えを聞く前に、僕は謝った。居心地いいなんてそんなことは無いだろうから。


「んー……、案外悪くないわよ」


少し考えて人魚が答える。


「だって貴方の目から見える世界はとても綺麗だもの。お花とか空とか鳥さんとか」


そして少し悲しげに笑った。


「私は自分の足がないから。貴方越しにしか見れないの。」

「そっか、なんだか悲しいね。」

「そうね、少し。」


僕の中に閉じ込めていることに罪悪感すら覚えた。


「よかったら、水槽かなんかに入れてどこか綺麗なものが見えるところまで連れて行こうか?」


それくらいしか罪滅ぼしの方法が思いつかなかった。

人魚は予想外だったらしく目をぱちくりさせて、そして笑った。


「ありがとう、けど私、この水から少しでも離れたら死んじゃうし、光を直接浴びるのも駄目だから、ごめんね。」

「そっか。」


それでも何かしてあげたくて、


「他に何かしてあげれることない?」


と聞いた。


人魚はしばし考えるような動作をして、それからふとこちらを見て微笑んで、僕に触れた。その温もりはは僕より少し温かかった。


「たまにでいいから、こうやって泣いてくれると嬉しいわ。」

「そんなことでいいの?」

「えぇ、結構大事なのよ。」


僕が差し出した手のひらに躊躇いなく乗った。


「貴方、自分の感情吐き出すの下手でしょ?」

「そう、なのかも」

「だから、行き場の無くなった感情が中で溜まっちゃって私息苦しくなっちゃうの。感情に当たっちゃうとチクチクして痛いしね。」

「そうなんだ、でも」

「でも?」


人魚の入った手のひらの池を顔の前まで持ち上げる。人魚は嫌がることなくそのまま優しい顔で僕を見ていた。


「泣いていいのかな。泣くと周りに迷惑かけちゃうし、そんなことでって呆れられちゃいそうで……。」


人魚は少し考えて口を開いた、その声はとても優しい声だった。


「泣かないといけないのよ。」


人魚はその白い小さな人差し指で僕の口に触れた。


「泣かないと、チクチクした感情が溜まって中から壊れちゃうわ。」


そしてその指をすぅっとすぐに離して、今度は自身の口に添えた。


「泣いて誰かに知らせるのも大事なのよ。壊れてしまったら中々誰にも治せるものじゃなくなってしまうわ。そっちの方が大変よ。」

「でも、僕、怖い」


怖い、と口にした瞬間涙の量が増えたのがわかった。簡単に誰かに助けを求められるのならこんなに苦しまなかっただろうに。


「それなら初めは1人で泣く練習ね、泣ける映画を見るなりその日起こったことを紙に書くなり何でもいいから、泣く練習をしてみなよ。」

「そしたら君は楽になるの?」


涙はいつしか胸の辺りにまで溜まってきていた。それでも僕は大粒の涙を止めようともしなかった。


「そうね、私だけじゃなくて貴方も」


それから冗談らしくぷぅっと頬を膨らまして


「全く、泣いてって私が刺激しても泣かないのはそういうことだったのね。」

「あれ、君のせいだったの。泣きたい気持ちになるの。」

「えぇ、そうよ。それなのにちっとも泣いてくれやしないんだから。」

「ごめんよ。でも、大勢の前ではやめてよね。」

「それは考えておくわ。」


人魚がイタズラにニヤリと笑う。それに釣られて僕も笑ってしまった。ようやく仲良くなれた気がした。

涙が溜まるのが早い気がする、もう顔のすぐ下だ。それでも怖いとは思わなくて温かいものに守られているようなそんな気持ちになった。なんだかとても眠たくなってきた。


「そろそろ時間ね。」

「じか、ん……?」


眠気が酷く呂律が回らない。

涙がとうとう僕の全身を包み込んだ。立てばまだ涙の外に出られるだろうけど、そんな気は全く起きなかった。

視界がぼやける。それでも苦しくない。先程までの怖さはもう無かった。


「それとね」


ぼやけた視界に金色が輝く。


「貴方の目越しに、貴方の感情越しに見える世界はとても綺麗で私は好きなのよ。」


そう言って人魚は僕の頬にキスをしてゆっくり微笑んだ、ような気がした。

もう目が開かない。


「よく頑張ったね。お疲れ様。」


鈴のような心地よい声が微かな意識の中、聞こえた。


​───────

目を覚ますと、ちょうど太陽が昇り始めた頃だった。

あんなに溜まっていたはずの涙はもう無かった。それどころか辺りを見渡しても家具も自分自身も全く濡れていなかった。

ただ、僕の頬が少し濡れているだけだった。

腫れた目を擦り外を見る。


「あぁ、空が綺麗だねぇ。」


何かが変わったわけじゃない。だけど心は晴れやかでいつもより世界が輝いて見えた。

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