四日目(4)

 私の顔は、私は、連合軍の陣営の奥深くにあった、ヨークデンのテントの前に差し出されます。ヨークデンは私を確認すると、全軍を引き揚げさせます。戦場は広範囲に広がっており、退却には長い時間がかかったと言われています。連合軍の被害は微少。カンアージー砦に戻った魔王軍は数千人(凶)。首だけとなった私は戦場を振り返ることもできず、無残に死んでいった仲間に手向けの一瞥もできず、その場を離れたのでした。この大敗も、私の石化も、マーメの神の鉄槌がすべてでした。そして、神の鉄槌は、マーメとともに、その後の歴史からは姿を消すのです。

 ピゴとゲクーは服装を元に戻し、治療を受けたあと、私の前に現れました。顔を石化する必要はないだろうとか、そんな事務的な、戦後処理的なことを言われたような気がします。私は何か皮肉を言ったような気がしますが、覚えていません。当時の私なら、「教皇の聖なる衣も安くなったものだ」とか、「もう騙されないぞ。本当はあのウェアウルフが教皇ピゴなのだろう」とか、そういうことを言いそうです。エーコホープは、ゲクーの隣にいました。エンオーの剣を腰に佩いていました。顔まで泥だらけになっており、何をしていたのかと気になったことを覚えています。


 人魔大戦の後日談をお話ししましょう。まずはピゴについて。

 ゲクーとピゴ、特にピゴは、ミュカトーニャの民から歓声を受けて凱旋します。ミュカトーニャの年代記作家、パウパスタモージは、『ザタフォーとトクオイの治世』において、「すべてのものが開かれた。人間の英雄たちが歓待された」と書いています。現代人は勘違いしているのですが、この「すべてのものが開かれた」というのは、心理的な意味ではないのです。現代のある小説家は、「都市のすべての門が開かれて」と現代語訳していましたが、違います。ここは、字句のとおりすべてのものが開かれているのです。町の門も、家の扉も、家畜の柵も、地位の高い人々の家の窓も、家具のひきだしも、宝石を入れた箱も、服を入れた行李も、開けられるものはすべて開いて歓待するのです。そういうことをしていた時代があったのです。開けるものが増えるにつれて、このようなことはやらなくなりました。高位聖職者が町を訪れるたびに、買い置きしていたビールのプルタブをすべて開けて、大事に取っておいたワインのコルクを開けて、冷凍庫の奥のチキンのパックとアイスクリームの包装を開けて、戸棚を開けて中に入っていたコンビーフと焼き貝の缶詰を開けるのならまだ許せるかもしれませんが、せっかく梱包した引越用の段ボールのガムテープをすべて開け、使わずに溜めておいた口紅の蓋をすべて開け、駐車場に停めてある車のドアをすべて開け、会社のドアやら金庫やらひきだしやら封筒を、と考えただけでぞっとしますよね。『黒羊と少年』(15枝世ころに作られた作者不明の物語。)の冒頭で、町に王様が来たということで、少年が羊の柵の入口を開けに行く描写がありますが、それはこういうことなのです。羊料理を作るために開けに行ったのではないのですよ。

 ピゴはその後も教皇の地位にとどまり続けましたが、樹暦1389年1月に暗殺されます。その場所がタンフーであったため、私の関与を疑う者もいます。私は誰かに指示できる状況ではありませんでしたし、後で話しますが、センタセもそれどころではありませんでした。都市派か、教会派の刺客がやったと考えるのが妥当かと思います。ピゴを次の元首にしようとする動きがあったという説もあります。そう考えると、都市派の刺客に暗殺されたのかもしれません。用済みと判断するにはいくら何でも早すぎではないかと思うのですが、よくわかりません。


 歴史学上の人魔大戦は、樹暦1388年にミュカトーニャの勝利で決着がついています。それでも、その後も魔王軍の脅威はまだ残っていました。このころのダイザムハームの政局は、苛烈な権力争いにより混迷を極めていました。都市派と教会派との対立だけでなく、センタセに対しての徹底抗戦派と穏健派、ザン・ハブムホイン王国派と反王国派閥という勢力関係も生じつつありました。ミュカトーニャは、魔王無きセンタセを追撃し続け、樹暦1393年にはかつてのタニーアンの領土の大半を支配下に置きます。連敗を重ねた魔王軍は、ザンマイヤガサックに籠城し、ミュカトーニャに抵抗します。ミュカトーニャは、この都市を落とすことができず、樹暦1395年、センタセと停戦します。このころのミュカトーニャは、指先の魔王軍以上に、手の甲の側にいる脅威に対応しなければならなくなっていました。ザタフォーは、何度か暗殺されかけたものの生き残り、樹暦1396年に急死します。派閥争いは激化し、ミュカトーニャは、内政、外政ともに混乱の中で14枝世を終え、さらに混迷する15枝世へと突入することになります。


 政局の話より、ピゴの話をしましょう。戦争が終わっても、ピゴの強欲さは戻ってこなかったと言われています。当時の少なくない人々が、戦後にまたピゴは豹変し、かつての吝嗇野郎に戻るのではないかと危惧し、それが杞憂であったことに安堵しています。

 ピゴの生前の大半が強欲であろうとも、ミュカトーニャの政局が混迷しようとも、タンフーにおいて、魔王軍を退けたピゴの功績は忘れられたことも軽んじられたこともありませんでした。アビナ教会はピゴを篤く弔い、本人の生まれ故郷のタンフーに、不釣り合いなくらいに立派な墓を作りました。ダイザムハームに墓を作らなかったことを邪推する人々は今も昔も多くいます。ピゴの墓はタンフーの名所、アビナ教の聖地として、後に巡礼や観光の対象となったのでした。貧困に喘いでいたタンフーにとって、ピゴを慕う人々の列は、近隣から貨幣を運び、水たまりにそれを積み上げては帰っていく均衡の使節団でもあったのです。旅を好み遍在を好むダイザムハームのアビナ教徒にとって、タンフーへの小旅行は初心者向けの良好な旅先として認知されていきます。そして、粗末だったタンフーは、多くの困難に晒されながらも、幸運、ピゴの加護、それに強い信念により、立派な都市へと成長していくのです。かつては両腕で抱きかかえられていたピゴの墓は、今ではこの街の背広のピンホールに飾られています。私は人魔決別の前夜に、最後まで、この都市が魔族の味方をしたことを忘れたくはありません。この街の礎となったピゴやゲクーの名と功績も同様です。ヘブネナゲム学長の名著、『タンフーの歴史』を是非お読みください。巡礼地、観光地として如何にタンフーが発展したかに一章が割かれています。人魔決別についても、前半と後半にわかれて説明がされております。この都市に暮らし、この大学の生徒になるのであれば、読んでおいても損はないと思います。


 ゲクーの話もしましょう。

 パトロンのピゴは暗殺されましたが、ゲクーが望んでいた貿易の権利は与えられました。ゲクーは、樹暦1393年には三隻の大型船を所有しています。そのうちの一隻はアビナ教会からの報酬だと言われています。三隻ともネイサンの実家の造船所に依頼して建造されたことがわかっています。三隻の船には、ゲクーの母親の名前、オビアの母親の名前、それにカウゴ・デジデマ(養母のデジデマの意味。)の名が与えられています。あの山賊の妻のデジデマのことでしょうね。三隻はセンタセから奪還されたばかりのコウムカシアスへと運ばれ、ディス・オムトアト、ダマウカーバ、フバーユ、それにセンタセ大陸との交易に使用されました。三隻のうち一隻は数回目の航海中に座礁し、あえなく沈没しましたが、残りの二隻は恐らく15枝世の中盤まで現役だったと伝えられています。

 ゲクーは、船が完成するまでは、タンフーに晒されていた私の首によく会いに来ました。当時、私に声をかけることはタブー視されていたようですが、ミュカトーニャの英雄はこれを無視しました。何を話したかというと、別に大した話はしていないのです。フバーユやタニーアンやそれにセンタセ大陸のことを話しました。名産品だとか、貨幣価値だとか、度量衡だとか。商人と虜囚の王との会話です。後世の歴史家には、ゲクーはアスタボスを旅に連れて行きたかったのではないかと言う人もいますね。当時は気が付きませんでしたが、というか、ゲクーが魔物と旅をしていることなど知りませんでしたから仕方がないのですが、そう言われてみれば、スカウトされたような気もしますし、ゲクーならありそうな話かと思います。


 首だけの不死の魔王と、後世に勇者と呼ばれた何でも屋の商人との馬車の旅は、フィクションとして映画化されています。『ゲクーとアスタボスが馬車で旅をする話』(テアイス・テアイス・メンヒーウ監督)というそのままのタイトルの、コメディチックな映画です。私が主演していますし、何なら私が最大の出資者でもあります。私の演技はまったく評価されていませんが、映画自体は興行的に成功し、幾つかの賞も取っています。私にとっては夢がかなった、と言っていいのでしょう、ゲクー役の人とセンタセを旅しています。ラストシーンの撮影時、ガエバサイでは珍しく大雨が降りまして、私が泣いてゲクーとともに宮殿を眺めているシーンがあります。美しい画が撮れたのですが、撮影スケジュールはこの大雨でぐちゃぐちゃになりまして、監督が苦労されていたことを思い出します。私がどうこうではなく、映画として出来がいいので、是非ご覧ください。ちなみに、この映画では、私とゲクーは、フバーユを横断したことになっていますが、実際は別のところで撮影を行っています。フバーユでは、「色々あって」撮影許可が降りなかったのです。


 ゲクーの最後はわかっていません。残念ながら死んでいることは間違いないでしょう。どこで、いつ、どのように死んだのかは不明です。旅団は再結成されたのか。それもわかりません。わかっていることを話しましょう。ゲクーは、人魔大戦後も、オビアのように店番をすることはなかったようです。そのような記録はないからです。そしてゲクーは、あれほど船による貿易に拘泥していたにもかかわらず、船による旅を行った形跡がありません。具体的には、ゲクー商会の有する船にゲクー本人が乗船した記録は残っていないのです。どう考えるべきでしょうか。大抵の魔物は海の旅を嫌がります。エーコホープもそうだったでしょう。ここまでの話なら、このように推測できます。ゲクー旅団は再結成され、旅団員の魔物たちは海の移動を嫌がりました。ゲクーは彼らのためにまた馬車に幌を張り、旅団とともに陸路を旅したのではないか、と。いいですね。ロマンがありますね。こういう話が好きな人も多いでしょう。私も大好きです。しかし、記録魔のオビアの残したゲクー商会史料には、人魔大戦後、どこかの空の下を旅するゲクー旅団のために、鳥人を使って金を融通したような会計記録は残っていません。あの赤字しか生み出さないゲクー旅団が、オビアの支援もなく旅を続けたとは考えにくいのです。ゲクーは旅をしていない。店に居場所があったとも思えない。であれば何か。早々に死んでしまったのでしょうか。樹暦1401年にはまた四悶病が流行します。死んだと考えることは容易ですが、証拠はありません。こうも考えることができます。旅団のような規模の旅ではなく、一人旅、あるいはエーコホープあたりと二人(凶)旅をしたのではないか。魔族としては、そうならいいと思います。でもわかりません。ゲクーの墓はありません。正確に言うと、ゲクーの墓と呼ばれているものは、全世界に少なくとも十五ほどあります。このうち二つが海半球にあります。トーノア・ニンマガイセン先生の『伝承としてのゲクー』が参考文献となるでしょう。ゲクーの墓や死に際についての伝説は幾つも残っていますが、確実なことはわかっていません。多くの旅人がそうであったように、です。そうです。旅人が、そうであったように。

 

 ゲクー商会の顛末についても話せることがあります。ゲクーはセンタセより先に死に、センタセはゲクー商会より先に滅びました。ゲクー商会は、交易で莫大な富を稼ぎ、各地にその支店を置き、有能な人員を各地から雇い入れ、巨大化します。その後の大航海時代においても、国の権力者と癒着というか協力して、その影響力を拡大していきます。経営は多角化し、特に金融業で大きく飛躍します。15枝世には、出版部門でホスコーが『ゲクー旅団記』を出版したことは前に言ったかと思います。しかしながら、その凋落は落日のごとくあっさりと訪れます。樹暦1560年、ゲクー商会は、自身の金融部門が有する、ある大国やその貴族に貸し付けた債権が不良債権化したため破綻します。当時はよくある話で、同じ時期に、ゲクー商会以外にも複数の銀行やライバル商会が破綻しています。この破綻の影響はすさまじく、ゲクー商会はグループ全体を再編し、その規模を著しく縮小せざるを得なくなります。細分化された各部門は、時代が積み上がっていく中で、やがて倒産し、廃業し、各地の同業他社に吸収されました。現在、ゲクー商会からの系譜がはっきりと残っているのは、ブレスレット諸島内のある国の、小さな印刷会社だけと言われています(樹暦2017年に廃業している。)。

 ゲクーは、貴族や王に金を貸すな、税収権で儲けるなとオビアに手紙を送っています。オビアも、恐らく渋々でしょうが、ゲクーのこの警句に従っています。オビアの子孫たちには、この始祖の友人の忠告は届かなかったということです。彼らが出版し、好評を博した『ゲクー旅団記』にはっきりと書いてあるのですけどね。


 マーメとエンオーの話をしましょう。

 マーメは歴史から姿を消しました。神の鉄槌は誰にも継承されませんでした。魔法の進歩にとって、マーメの功績はありません。魔女の森にあったはずの彼女の研究記録は何も残っていないからです。魔女の森に何があったのでしょうか。わかりません。人が生きていた痕跡は残っています。何なら魔族が生きていた痕跡も残っています。魔女の森の場所はわかっており、考古学的な調査、科学的な分析も行われています。それでも賊が荒らしたか、戦争や天変地異が埋め隠したか、わかりません。パウハム王国の関与が何かあったのか、これもわかりません。少なくともマーメは、この国から保護されていなかったと考えられています。神の鉄槌は、複数の魔法使いによって約八十年後に再現されましたが、再現されただけで実戦で使用されることはありませんでした。既にマスケット銃が発明され、魔族の体を引きちぎることができる火薬が使用されていました。戦争は大きく変化していました。マーメについては以上です。


 エンオーとその部下の死体は、丁重に扱われました。高位聖職者の使用する棺に入れられて、見事な葬列をもってザン・ハブムホイン王国へと送還されたそうです。ザン・ハブムホイン王国では、彼らの死体を丁重に扱い、無断で兵を動かしたことは不問とされました。エンオーの墓は、当時の首都に立派なものが建てられましたが、その数百年後、人と魔族の緊張が高まったころに、過激派の魔族によって破壊されています。『難民カッシャの日記』には、エンオーとその兵士たちが、タンフーの魔族を意味もなく切り殺した描写があります。難民たちは抗議しましたが、まったく相手にされず、辟易した様子がうかがえます。そういうヘイトの背景があり、エンオーは後の魔族から忌み嫌われていたのです。彼は当時の大国の由緒ある貴族階級の出身ですので、魔族に限らず難民との接し方はわかっていなかったと思います。フォローする気はないのですが。


 私の話もしておきましょう。私のいなくなった後のセンタセの話も。

 私はタンフーまで粗末な車で運ばれ、私を運んだ者たちは毒蛇に驚きました。私はタンフーの粗末な門をくぐり、中心辺りに据え置かれました。あのころのタンフーに中心なんてものがあったのかは知りませんがね。今でいうとどこでしょうか。指先側の門から入ってしばらくのところですから、旧市街地の美術館やバスターミナルがある辺りではないかと思います(門の位置が当時と異なっているため、この予想は間違っている。)。当時のタンフーは狭かったので、あのあたりが中心だったのではないかと思います。私は、最初は地面に直接置かれましたが、後から薄い石板を下に敷いてくれるようになりました。飼葉桶に入れられていたというのはフィクションです。屋根などありません。そもそも住人すら、やっと屋根の下で眠れるようになった頃合いだったのですから。当初、私はダイザムハームへ運ばれる予定でしたが、そこに住む人々が魔王軍による奪還を恐れたため、首都へは近付かせるなという命令がザタフォーから下されました。愚かにも、敵の望むものを前線に配置したわけですね。そして、魔王軍は実際に奪還を目論んだのですが、前線の兵力がまったく足りておらず、失敗に終わりました。この後、ミュカトーニャにおいて、魔王軍は兵力の不足と優秀な将軍の不在によって敗戦を重ね、旧タニーアンの領地を奪われ、ザンマイヤガサックまで退きます。そこで長期間の抵抗を行い、停戦にこぎ着けたのは先ほど話したとおりです。

 私は数人の警備兵に一日中監視されつつ、タンフーに放置され続けました。特に尋問が繰り返されるでもなく、拷問が繰り返されるでもなく、世間話が始まるでもなく、身代金の交渉が始まるわけでもありませんでした。私を奪還するため、遠方に魔王軍の土煙が上がるわけでもありませんでした。世界の驚異も閉ざされっぱなしでした。私は放置されました。ミュカトーニャからも、やがてセンタセからもです。高位の人質の待遇としては、明らかに悪いものでした。

 ゲクーはたびたび私を訪ねてきました。誰からか、ピゴが暗殺されたと聞きました。あの前線にいた、輿に乗った魔法使いの行方は知れませんでした。センタセとミュカトーニャが停戦したという話を聞きました。樹暦1396年、ザタフォーの死の直後、ドノエシャフ公国が近隣諸国に侵攻し、撃退されます。同年、ザン・ハブムホイン王国が近隣諸国に侵攻します。ミュカトーニャはこれに対抗するため軍を派遣します。魔王軍を退けた後、人間世界の壁の内側で、人間同士が争い始めていました。馴染みの警備兵が死に、次にやってきた若い警備兵は意味もなく私の脳天を叩き割りました。再生する私を見てケラケラと笑うのですが、すぐに飽きられました。その若い警備兵も四悶病で死に、道には死体が転がり、誰も回収するものはなく、そこに雪が積もっていました。タンフーは貧困に喘いでおり、不穏な時代が続いていました。それでも、僅かではありますが、このころにはすでに、物見遊山で私を訪ねてくるアビナ教徒の貴族や商人がいたのです。


 ワシヤハ大公国を滅ぼしたなぞり指の雄、ホッドノグ帝国が、樹暦1404年、まだセンタセの支配下にあったカウエナを攻め、これを占領します。なぞり指と魔王指にある小国は、ザン・ハブムホイン王国又はこの帝国に併呑されていきます。ミュカトーニャは、センタセからの領地強奪に疲弊しており、政局の混乱も続いていました。自慢の海軍では反乱も起こっています。ミュカトーニャも、この二国に押し潰されるようにして領土を削り取られます。私の顔も、しばらく後に強奪されます。タンフーが戦場になったということです。このとき、旧タニーアンの魔族が活躍するのですが、そこまで話すと長くなりそうですね。

 

 センタセ王国は、ポアン・キーゾ宰相の手腕により、魔王なき後も形を残していました。初めこそ魔王奪還の気息は高く熱かったのですが、連戦連敗を重ね、旧タニーアン領を奪われたころには、肺まで冷え切ってそれどころではなくなっていました。不死の魔王という柱が奪われたセンタセでしたが、あらゆるものは代替可能であることを示しました。王の不死性こそがセンタセの根源であり、倫理であり、アイデンティティであったにもかかわらず、不死性はかぎ括弧に入れられたまま、この国は長く存続しました。すべての知識がアスタボスへと集積し、やがてすべてのものが、土地が、アスタボスへのもとへと集まるだろう。アスタボスの懐にないものは、それは存在しないものと同一であろうと、大地信仰の教義はここまで言っておきながら、不死王の不在を不在なものとして扱いました。

 キーゾは、何度も、ミュカトーニャに対して、アスタボスを返還するよう交渉を持ちかけています。それこそ停戦合意の前にも、交渉材料の一つとして持ち出しています。ミュカトーニャは、というかザタフォーが原因なのですが、アスタボスの返還には断固として応じませんでした。樹暦1395年、停戦の前の話ですが、ダダーキア海の貿易で巨万の富を築いていたダマウカーバが、大軍を率いてドマトンを攻め、これを支配下に治めます。国の形がどんどん崩れていきます。このころの魔王軍にドマトンを奪還する余力はありませんでした。ダマウカーバは、旧アンカーシャフ王国領にも攻め入り、魔王軍と一進一退の攻防を繰り返します。同年、魔王返還は棚上げして、停戦が結ばれます。三年後、魔王軍は魔王指の先をダマウカーバに奪われます。このころには、魔王軍の支配も形骸化しており、勝手に王を名乗るものも少なからず現れました。ダマウカーバは、これらの僭主を一掃したに過ぎないとも言えるかもしれません。

 ダマウカーバは、フバーユにも触手を伸ばします。樹暦1321年にセンタセの支配下に入り、その後幾度となく反乱を起こしたフバーユですが、樹暦1406年の第一次フバーユ侵攻においては、魔王軍としてこれを撃退しています。魔王軍としては珍しく、海戦で連勝もしています。

 樹暦1409年、第二次フバーユ侵攻も、魔王軍はこれを撃退しています。ここではフバーユ兵という言い方をしますが、フバーユ兵の士気は高く、その人間兵は盾よりも剣を好んで身に着けていたのです。人魔大戦後も、魔王軍の戦争のやり方は以前と変わっていませんでした。魔族は相変わらず戦場に向かいましたし、人間兵は魔族には力で勝てませんでした。人間兵が剣を握っただけで、これほど戦績が変わるとも思えませんので、士気が高かったとしか言いようがないのです。

 樹暦1410年、センタセにとっては悪夢の年となります。旧アンカーシャフに侵攻していたダマウカーバがササーマント川へと侵攻を始めます。そこは魔王軍の竜の巣(慣用表現。大事なものがある場所のこと。)であり、神殿なき聖地としての大穀倉地帯が広がっていました。魔王軍はこの地を愛していました。春に初めてそこに鋤を入れた感慨と、その年の秋の、豊かな実りに歓喜したことを忘れたことはありませんでした。なぜならそれは毎年巡って来たからです。大地信仰を信奉するセンタセとしては、何が何でも死守しなければならない土地でした。しかし貧すれば鈍するのです。翌年にはあえなくこの土地を奪われます。その後、数年かけて旧タモウィスシャフの諸都市も落とされ、堅牢なザンマイヤガサックは陸の孤島になろうとしていました。

 センタセは、ササーマント川をついに奪還することはありませんでした。

 ダマウカーバは、旧アンカーシャフ、旧タモウィスシャフを攻め取った際に、センタセが育てた傭兵団を活用していたことがわかっています。魔王軍から魔法の手ほどきを受けた傭兵団の一部は、その後も組合のようなものを作り、新規団員に魔法技術を教授する体制を構築していたのだそうです。クナック・サウイーノン先生の『サイソム傭兵団の魔法の先生』は、14枝世後半に左手の大陸で活躍したこの傭兵団の研究から、如何にしてアウトローな集団が最新の魔法を習得し、自分たちのものにしていったのかを明らかにしています。読み物としても面白い本かと思います。


 魔王軍は樹暦1413年、ダマウカーバの都市代表の暗殺に成功し、エプケカでは反乱を手引きしますが、攻守の交代は起こりませんでした。同年、ポアン・キーゾはダマウカーバと交渉の末、ザンマイヤガサックを無血開城します。後背地の穀倉地帯を奪われたため、兵站等の問題から、これ以上の籠城は困難と判断してのことでした。魔王軍はフバーユと、そしてセンタセ大陸へと身を引くこととなります。左手の大陸からの撤退は、樹暦1414年には完了しました。同じ年、なぞり指のダマウカーバ諸邦では大規模な反乱が起こり、この大国は分裂します。当時のセンタセにはこの隙を突く余力は残っていませんでした。ダマウカーバは、なぞり指の隣国からも攻められており、反乱やこの侵攻を制するのに手一杯でした。魔王指の指先には本土から派遣された将軍や行政官、もちろん兵士も多くいました。そこには本土のコントロールから外れた、戦力の空白地帯が広がっていました。帝国の掣肘もあり、15枝世の指先は、ミュカトーニャ以上に混迷を極めることとなります。


 センタセはセンタセ大陸へと押し返されました。キーゾの側近と思われる人間が、帰りの船の中でこのような詩を残しています。センタセに籠ろうとする、そうせざるを得ないという心境が伝わってきます。


 恨みも募る穏海よ

 幾人の同胞を沈めたままだ

 波に素足を浸せば

 同胞の背に指先が触れる


 恨みも募る穏海よ

 我らは二度とここには戻らぬ

 汝の波は壁となり

 我らの土地を守るだろうか


 世界の驚異もカウエナの図書館も、それに私の顔も、センタセからは遠く離れてしまいました。ササーマント川の豊穣を知る彼らには、センタセに広がる砂漠はどう映ったのでしょう。大地信仰はその後も信仰され続けました。左手の大陸に信者も多く残りました。大地信仰は、センタセ大陸ではマジョリティであり続けました。人魔大戦は、大地信仰の根本にも大きな影響を与えました。私が不在になったことで、大地信仰は、思想そのものの変容を余儀なくされたのです。何が言いたいかと言いますと、センタセの大地信仰は、豊かな土地を目指して侵略するやり方から、目の前にある土地を豊かにするやり方に変わろうとしていました。初心に帰りましょう。私たちは、土地を誰よりも上手に利用できるのです。目の前の山岳地帯や砂漠だって上手く使えるはずでしょう。大地のために血を注ぐのではなく、水と肥料を与えよう。そのように言い出したのです。言い出したのは主にキーゾです。砂漠の活用は困難を極めましたが、狭小な土地を農地に変え、山には段々畑や果樹園が多く作られました。

 大地信仰の挑戦を横目に、交易による富がやがて資本主義を用意するでしょう。大地信仰の重人主義は、産業革命を自身の一部だと錯覚するでしょう。その後、その蒙昧から目覚め、その上でおずおずと資本主義と手を結ぶでしょう。また、重人主義は人をより長く生かすことを思いつくでしょう。砂漠において、死なせないための社会福祉という概念が生まれ、来る医療制度の時代のために、全ての扉は開かれるでしょう。


 キーゾの手腕を疑う者は多くいましたが、彼以上にこの国を知り、働けるものはいませんでした。彼は戦場に出ることはほとんどありませんでした。馬にも乗れなかったと思います。彼の統治の期間、センタセは戦争ではほとんど勝てませんでしたが、内政や外交において大きな失策はありませんでした。ミュカトーニャやダマウカーバとは違い、と言っておきましょう。彼は不満を持つ身内を抑え、よく利害を解いて説得しました。魔王を見捨てるという選択肢を取り、それを周囲に納得させてすらいます。どうやったのでしょうね。彼は情報をよく収集、分析し、各国の状況を高いレベルで把握していました。攻め時はわかっていなかったでしょうが、引き時はよく勘が利き、大事な場面における致命的な判断ミスを起こしませんでした。センタセ大陸に戻ってからは、膨大なアスタボスの大法典を編纂し、これを容易に政治の場面で活用できるようにしました。センタセ大陸に幾つかの大学を作り、限定的ではありますが、義務教育制度すら作りました。早い段階で活版印刷の技術を導入し、国営の印刷所、製紙所、製本所を作りました。製紙所のために植林を奨励し、アスタボス時代に悪化の一途を辿っていた砂漠化に歯止めをかけました。キーゾは、センタセ大陸にカウエナを再現したかったのだとよく言われます。私だってそうしたでしょう。キーゾは、アテドーとともに魔法研究所も刷新しています。当時としては、文書主義が徹底されつつありました。

 それでも、疑いようもなくセンタセは衰退しつつありました。理由は幾らでもあります。それでも、カウエナのころに培った学際が、この国を支え、その滅びを遅延させていました。キーゾはその学際を体現していた魔物だったのです。キーゾに関する書籍も多く出ています。彼の評価はどれも高いものです。オウスコン・ダズノン・フェムタハイバー先生の『魔族宰相 ポアン・キーゾ』を参考文献としてお勧めします。あと、私がいなくなった後のセンタセについては、私の数少ない同僚でもあるパワー・パワー・アニートン先生の名著、『樹暦1388年以降のセンタセ』をご覧ください(アニートンは歴史学者でもあり、魔法学者でもある。それをもって同僚と言っているようである。)。


 フバーユは、樹暦1419年に反乱を起こし、ついにセンタセの占領下から抜け出します。オブクグナン王の貨幣は溶かされ、誰も知らないユヌカの横顔が打刻されました。ピンとこないデザインの旗が作成され、各地に掲げられました。後には国旗となりました。大半の魔族は要職から退けられ、残念ながら虐殺も起こりました。キーゾは早々にフバーユと和平を結びます。左手の大陸では、各地に戦火が燃え広がりつつありました。穏海とフバーユ島はセンタセにとっての防火壁となりました。ダマウカーバは、樹暦1421年に、フバーユに三度目の侵攻を行っています。魔物の少ない新生フバーユ軍は、一時ユーヌオンを占領されますが、その後も列強を相手に独立を果たし続けます。


 衰退し続けるセンタセの命運は、キーゾとともに尽きました。それでも樹暦1491年まで歴史にその名を残したのです。私がいなくなってから百年以上が経っています。ときは大航海時代、活版印刷術の時代、そして都市内魔族の時代でした。世界は広がり、世界の驚異は我々の前に次々と現れつつありました。新しい思想が生まれ、惚れ惚れする技術が公になり、幾つもの島が発見され、珍しい動物や植物、鉱物が神の左手へと持ち込まれました。広大な海半球は、冒険者の船と命を散々に奪い、その対価として開示するのは、いつまで経っても大海原ばかりでした。アテドーがかつて開発した魔素を携帯する技術は、多くの魔法使いに改良され、海半球を探索する空を飛ぶ魔物に愛用されました。彼らが未踏の海半球の秘密を明らかにするのは、次の枝世を待たねばなりませんでした。

 センタセは、海を渡ってやって来る他国の戦艦に悩まされていました。このころのセンタセ海軍の練度はどうなっていたのでしょうね。私が知らないだけで、きっと誰かが研究しているでしょう。穏海から主要な海賊は一掃され、コニーバンサはほとんど無人島となっていました。代々魔王軍に仕えた、あのパミンの海賊の子孫ですが、センタセ海軍の子守を終えて、一時期、ゲクー商会と海運にかかる協定を結んでいます。このころは、海賊としてではなく、水先案内人だとか、港湾荷役の人材派遣とか、そういう堅気の商売で活躍しています。ちなみにキーゾは、それなりの長期にわたり、パミンの子孫に手厚い年金を支払っています。海賊パミン家がいなければ、センタセの歴史は大きく変わっていたでしょうね。

 樹暦1491年、キーゾは生まれ変わりに失敗し、宰相としての職務を果たせなくなります。キーゾは、もしものときのために後継者を定めていました。次の大宰相の名はソアウス・ノブノイと言います。人間ではなくチミーピオで、熱心な大地信仰者でした。ノブノイは無能ではありませんでしたが、運がありませんでした。ノブノイは就任から僅か二か月で暗殺されます。各地の行政官はここぞとばかりに兵を私物化し、覇権を争います。センタセ大陸に久し振りの戦火が上がります。樹暦1528年、この内乱に勝利したのは、ザン・ハブムホイン王国の後ろ盾を得ていたニカウア・タジーという将軍でした。彼はスイゾ・ア・ダフ・クァジベッキの子孫から武器と資金の援助を受けていたアビナ教徒でした。しかも熱心なアビナ教徒だったのです。彼はセンタセ大陸にドグツェアという名前の、アビナ教の国を作ります。ドグツェアは翌年、フバーユに手を出して大敗します。この戦争により、それまで左手の大陸からフバーユを経由してセンタセ大陸に入って来ていた最新の情報が入って来なくなります。あるいは滞ります。センタセの学際にとってはマイナスでしかありませんでしたが、それでも、その後もセンタセの大学は世界各地の大学や世界樹と交流を続けています。18枝世には、ガエバサイ大学の若き魔法使い、ナノコア・ターンが虹目石の生成に成功するでしょうし、天空城計画が有志によって計画されることでしょう(ナノコア・ターンは、サウホン人の女性であり、樹暦1731年、若干21歳の時に虹目石の生成に成功した。これにより虹目石の金融資産としての価格は暴落し、世界的な混乱が生じた。ナノコア・ターンは、アスタボスに会いに行く旅の最中に急死する。享年25歳であった。天空城計画は、排斥が激しくなりつつあった魔族のため、一時的な避難所として、あるいは人間から放逐された後の永住の地として、空に魔法で浮かべた魔族の住処を作ろうとした計画のこと。魔族の排斥問題は、人魔決別により最終的な解決に至ったため、天空城計画は実現しなかった。)。

 こうしてセンタセは滅びました。歴史学的には、なぜセンタセは滅んだか、という問いよりも、なぜセンタセはアスタボスが不在となった後も滅ばなかったのか、という問い方がされます。アニートン先生の本をご覧ください。


 樹暦1535年、敬教から派生した新敬教が、あの美しいガエバサイの共同墓地から現れます。大地信仰は、この心当たりのない嬰児を、どのような顔で受け入れるでしょうか。それは皆さんが各自で調べてみてください。三代目の王となったタジーの孫は、祖父と父が世話になったザン・ハブムホイン王国と袂をわかち、この新敬教の信徒となり、これを厚く保護します。このころ、私はどこにいたでしょうかね。これも調べればわかりますが、まぁ、そろそろ講演の終わりの時間ですし、終わりにしましょう。歴史に切りのいいところなんてありません。ということは、この講演はどうやっても切りの悪いところで終わらざるを得ないということです。時代区分、樹暦というものは、便宜上のものです。国だって便宜上の区分です。当時は国民国家という概念はありませんでした。ダダン先生などは、センタセのような国は、国家ではなく教団、あるいは国団と呼ぶべきではないかとすら提言しています。「国としてのセンタセは、アスタボスとともにセンタセ大陸から左手の大陸に流動している。これは制度に支えられた人々と魔族との群れとして考えることができる。」と先生は述べています。魔族は本質的には国家を持たないのだから、歴史家としてのアスタボスは、国家による区分以外の方法論で歴史を語るべきだと主張する人もいます。その問題意識はわかります。この主張に基づけば、センタセを主軸として話をしたこのたびの講演は、あまりにも人間的だったということになりますね。初日の冒頭でも言いましたが、私は歴史とは人間の歴史だと考えていますので、歴史の語り方に魔族としてのオリジナリティを見出すのは難しいですね。「アスタボスは、都市内魔族としての自身を相対化せよ」とも言われています。私には時間がたくさんありますので、今後の宿題にさせて欲しいところです。


 最後に何を話しましょうか。私が残したものは何でしょうか。ワグ島の石板はどうでしょうか。正確に言うと残っていませんが。建物も、大したものはありません。ガエバサイの宮殿は、あれは前王朝の威光を示すものです。巨大建造物は、遂にセンタセに造られることはありませんでした。私がいたからです。

 では、表象の話をしてみましょうか。私はカウエナにおいて政治を取り仕切り、本を読み漁る生活を送っていました。そのことは、多くの人々が目にしていました。その中には国の中枢を担う人材も多く含まれていました。貴族の子息や若い官僚のことです。王位の継承権を持つ者もいたでしょう。彼らは、カウエナのアスタボスに賢王としてのモデルを見出します。当時の権力者の中には、豪奢な生活を送り、その血統を誇るばかりで知恵のない者が少なからずいたのです。アスタボスは豪奢な生活とは無縁でした。私は魔族であり、王であり不死でした。一部の魔族が好んだ華美な格好や、人間が好む高いワインや豪華な食事、希少な食器に立派な什器などに興味はありませんでした。簡素な、町人のような服を着て、装飾品は身に着けず、馬にも馬車にも乗らず、粗末な靴を履き、何も口にすることはありませんでした。不死の王であることを証明するためには、その身一つがあれば足りたのです。私は後の時代、短い期間ではありますが、理想の王として表象されます。質素な王、勤勉な王としてのアスタボスです。タウイーノ・オゼ・ケウモッシイ先生は、『不死王の表象』という本の中で、14枝世のアスタボスが、後の支配階級層において、そして少し遅れて被支配階級層において理想化される様子を説明しています。怠惰な王の元には世界樹の枝が送られ、増税を繰り返す議会の扉には、アスタボスの槍やそれに形状の似たフォークが脅迫として突き立てられました。革命により首をはねられたテッセン王の頭には、帆布の靴が、王冠のようにして置かれました。なぜか帆布の靴が私の象徴として扱われるようになっていました。ケウモッシイ先生は、同じ本の中で、16枝世には、勇者ゲクーに首をはねられる悪い王としてのアスタボスの表象が、この、良王としての表象を上書きする様を説明しています。さらに、最も長く王位に就いた王――おそらく今後この在位記録が打ち破られることはないでしょう――でありながら、大地信仰がやりたかったことを十分には果たせなかったことを持って、盛者必衰の厭世観をもたらしたとも先生は述べています。この本の副題は、「良王、悪王、そして必衰について」と言います。結局残ったのは、皆さんの前で歴史の話をするアスタボスの表象なのかもしれませんね。


 後は、そうですね、では、センタセが後世に残したものは何でしょうか。大地信仰、重人主義、大法典、私の大法典、官僚主義。間接的に新敬教もそうでしょうか。私の貨幣も長い間使用され、流通しています。それに、魔族の社会参加を推し進めたかもしれません。15枝世から16枝世までは、都市内魔族が興隆した時代と言われています。多くの都市内魔族が政治家、学者、冒険家、それに王として名を残しました。都市内魔族にかかわる都市法が発展したのもこの時代です。ケンタウロス(半人半馬の魔族。)とチミーピオが左手の大陸を席巻したのも――その支配地域だけを見れば、魔王以上に人間世界を征服したのも――16枝世の後半からでした。そしてその後に続く魔族への差別が増長したのもこの時代からだったのです。

 私のセンタセは滅びました。それは私の半身のようなものでした。現在、センタセ大陸にはセンタセという主権国家のみが存在します。もちろん、このセンタセの建国に私は関与していません。由来をたどれば、同じ名前の違う国であることは明らかです。それでも、国名が同じである程度には、あの大地、偉大なるガエバサイ、遠い昔のコユエビニはかつてと同じなのです。今もそう呼ばれるノボーグス地方で、熊が人里に現れたというニュースを見ると、「我が友、また現れたのか」と、そう思うのです。そして、モーチェが羊皮紙から顔を上げ、手にした筆を机に置き、私とノットを呼ぶ声が聞こえてくるのです。気の向くままに話を進めてみましょうか。「ミシャ・アスタボス、ミシャ・アスタボス。私の不死の召使」と、モーチェは鈴を鳴らすでしょう。ノットは鈍い音を立てて木陰からその巨体を現わし、たき火から上げたばかりのヤカンを持ってきます。私は熊に殴られた後頭部を修復しつつ、その女性の声に応答し、両手に抱えた薬草をこぼしながら、ノタノタと小屋の方へと駆け寄るのです。道すがら、ピシュケを手にした王が馬に乗って私の傍らを駆け抜けるでしょう。その後から、できの悪い子孫たちがラバに乗って通り過ぎるでしょう。小屋の扉を足で開けると――その質感ははっきりと覚えています――、中にはウェスオンとナブイオシュが椅子に座り、この二凶のためにフォモボイがチャベフナンカをグラスに注いでいます。モーチェはすでにおらず、私は途方に暮れるのです。小屋の窓辺にはハウハンが作った蟹の模型があり、それは空の宗教が使用する神輿の上に置かれています。カメラの横に座るエジ・タクン・バトゾ監督の視線の先にハミウトンがおり、私は手にした薬草をフォモボイに預けると、その竜の方へと歩み寄ります。しかし、私が一瞬目を離した隙に、偉大な竜も姿を消し、私は小屋の外に植えられた、アユミタの木の下で佇立します。雨が降り始めるでしょう。傾聴王が傘を手にやってきて、私に傘を渡し、来た道を引き返します。傘には舟に乗せられた水車が描かれています。私は森の中を歩き、『ゲクー旅団記』の中の一節、ゲクーの詩を思い出します。


 草木が色褪せ枯れる直前の瞬間が

 終わらずに続いているような秋の日

 冬はそこにいるが立ち止まり入って来ない…


 そのとおり。そこは晩秋でした。トベグモが虫のように死んでおり、私はこんなところで死んでいたのか、ここまで逃げてきたのかと感心します。それはまもなく魔素に還り、私は死骸があった場所に広げた傘を置いて立ち去ります。私はやりたかったことができたと内心思います。しばらく歩くとキーゾが世界樹の洞に向かって大法典の一節を諳んじているのに出くわします。私はキーゾから、細菌のように小さいが知性のある魔族について、刑法はどう考えればいいかを尋ねられます。私は答えに窮します。「いつもそうなのよ。あなたの軍隊は。そんなに足元が揺れるのが怖いのですか」という声が聞こえたので振り返ると、ガシャニアネ、グシャミオク、ナコイシオクが、一つのテーブルを囲って座っていました。私は、ああ、確かにこのように怒られたことがあると思い出し、三人ともが似たような姿勢で頬杖をついているのを見て、確かに、君たちはそのような身振りをしていたと思い出すのです。私は気を取り直してキーゾの質問に答えようとしますが、エブエナイゲンの声が聞こえたのでその場を立ち去ります。やがて夜が来て、私はミュカトーニャの旗の下に立っています。

隣にはストーハーがいますが、一凶なので怖くはありません。ストーハーは私の本を手にして、表紙をパンパンと手の甲で叩き、憶断が過ぎると、学生時代にどこかで聞いたようなことを言います。私は反論します。反論しているうちに朝になり、スノー湖の小島は霜に染まります。ストーハーは本を付箋だらけにして城へと帰っていきます。私は八十八艘の舟を乗り継いでハウウズベヒに戻り、焼け落ちたはずの図書館で、先ほど自分が反論の根拠とした説の裏付けを取ろうと本を読み漁ります。私の隣にポジェミニが腰を降ろし、完全に忘れていた議論の続きを始めます。「地震というのはこうして発生するのではないだろうか…」と、彼は、当時はまだなかったはずの煙草をくゆらせて話し始めます。ベトーヌが石板を持って現れ、私は議論の内容をその石板に刻み込みます。議論は大いに盛り上がります。そこへ四人の勇者一行が現れます。私はうんざりして、本に目を落としながら、しばらく待っているように伝えます。勇者は古い神々によって隠されていた剣を振り、「お前の首を貰いに来た」と物騒なことを口にします。一方で、ゲクーは私のもとにやってきて、「魔族と船旅をするのは非現実的だろうか」と尋ねます。私は、本から顔を上げて、ペンを置き、魔王軍は船に乗って左手の大陸にやってきたのだと答えます――。

 このような戯言は、幾らでも話すことができます。皆さんにとっては冗長かもしれませんね。今こうして話していて、本当に、ポジェミニとの、中途で終わってしまった議論を思い出しました。話すことが思いつかないので、気が赴くままに話してみましたが楽しいものです。私以外のすべてが滅び、歴史が私の記憶の中にしか残らなくなっても、何と言うか、私にとっては悪くはないかもしれません。これは歴史ではないし、思い出とも違うものです。コラージュのようなもの、パッチワークのようなものですね。長く生きていると端切れがたくさんあるのです。今度から講演ではこのようなことをひたすら話してみましょうか。


 ええと、もっと気の利いた終わり方をしたかったのですが、これ以上時間を稼いでも何もならないようです。では、皆さん、ご清聴ありがとうございました。千年後の未来人の仕草の中で、皆さんと再び出会えますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔王の歌う世界史 ババトーク @babatouku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ